白熱の勝負
バルドの持久力ならまったく問題はない。
かえって、「狂戦士」の馬のことの方が心配である。
薬物に蝕まれた体で全力を出したら、いったいどうなってしまうのか……。
ダメダメ。いらないことはかんがえないのよ。
いまは、バルドといっしょに無事走りぬくことに集中しなくっちゃ。
「ミオ、勝負なんてどうでもいい。あいつは狂っている。だから、無事にやりすごすことだけをかんがえるんだ」
師匠が手綱を渡してくれながらささやいてきた。
「ええ、そうします。バルドのためにも」
手綱を受け取り、師匠に微笑んだ。
彼は、わたしのことを心配しすぎてオロオロしている。
師匠や向こうの調教師たちが離れると、わたしは「狂戦士」と距離を置いた。
バルドは、すでに集中している。いまはもう観客たちがたてるどんな音も気にならないみたい。
だけど、彼の馬はちがう。鼻息荒く、苛立たし気に前脚で土をかいている。
わずかの間、沈黙が訪れた。
そして、スターター役の兵士が軍旗を振りおろした。
その瞬間、「狂戦士」の馬が狂ったように駆けだした。
『パシッパシッ』
「狂戦士」が自分の馬を鞭打つ音が、風にのって流れてくる。
土を蹴る蹄の音よりも鋭く、無慈悲なその音をきくのがつらすぎる。
バルドは、いいスタートを切ってくれた。追うのも追われるのどちらも遜色なくこなす彼である。いまも素晴らしいスタートを切ってくれた。そして、スタート後のすべりだしもスムーズである。
こんないい馬は、そうそういない。
エドモンドの目利きはすごい。
あらためて感じずにはいられない。
順調なすべりだしだけど、わざと追うことにした。
様子を見たいからである。
「狂戦士」の馬は、薬物のせいなのかそれとももともとスタートダッシュが得意なのか、ぐんぐんと速度を上げてゆく。
いくらなんでもペースが早いわよ。
どんなに走る馬でも、このペースのまま最後までもつわけがない。
「バルド、焦る必要はない。きみのペースで走るといい」
わたしが言わなくっても、バルドは心得ている。引き離されてゆくのも気にせず、これまで行ってきた練習通りに走っている。
それにしても、ペースが早すぎる。しかも、「狂戦士」はずっと鞭を打ち続けている。
そのうしろを追っているけど、鞭を打つ音をきくだけで胸が痛くなる。
観客たちがいる場所とは反対側の直線コースにさしかかった。
観客たちの声援があがっているんだろうけど、まったく気にならない。
バルドも同様で、すぐ前を駆ける「狂戦士」とその馬だけを見ている。
その状態で二周回った。
その間、「狂戦士」はずっと鞭を打ち続けている。
じょじょに彼の馬の速度が落ちてきた。
最後の一周。
観客たちの前を通過する。
本当に一瞬だけ、視界の隅に皇太子殿下の姿が映った。
師匠たちといっしょに、ただ静かに見守ってくれている。
コーナーを回り、観客がいるところとは反対側の直線コースに入った。
「狂戦士」の馬は、じょじょに失速していく。
最初からあれだけ飛ばしていれば、体力も気力も落ちてくるに決まっている。
薬物や鞭も影響しているにちがいない。
「バルド、そろそろ行くかい?」
わたしが尋ねたのとバルドの速度が上がったのが同時だった。
バルドの体力はまだまだある。速度をじょじょに上げ、ついに「狂戦士」と並んだ。そして、抜き去った。
そのタイミングで、最後のコーナーを回った。
あとは、観客たちのいる側の直線のコースのみ。
「狂戦士」を抜いた瞬間、彼が笑ったような気がした。笑みを浮かべたように見えたのである。
嫌な予感がしたけど、バルドはすでに抜き去って差をじょじょに広げつつある。
そのとき、彼が自分の馬を鞭打っていないことに気がついた。
あれだけ鞭を打つ音がきこえてきていたのに、いまはまったくきこえてこない。
わずかに首をひねり、うしろを見てみた。
彼の片手が光を帯びている。
ちょうど太陽が頭上に居座っている。その光を吸収しているかのような何かしらの銀色の輝き……。
ナイフ?
まさか、バルドかわたしに投げようとしているの?
「バルド、全力で走るんだ」
バルドにお願いをすると、さらに速くなった。
空を翔けるように走る、という表現がぴったりである。彼のしなやかな体が地を駆ける。
その瞬間、何かがわたしの右腕をかすめた。
その何かは、地に落ちたとしても馬蹄に踏みつけられてしまったにちがいない。
あ、危なかった。バルドほどの脚力でなければ、わたしの背中にというよりかはバルドの臀部にナイフがあたったからもしれない。
それに、向かい風でナイフが失速したにちがいない。
投げるのなら、わたしたちが彼らを抜き去る瞬間に切りつけてきた方が確実だったはず。
彼が投げることを選んでくれてよかった。
ホッとした瞬間、観客たちから大歓声があがった。
バルドとわたしが、ゴール地点を通過したからである。




