皇太子殿下が現れて……
「ぼ、ぼくは大丈夫です。それよりも、エドモンド様が」
「わたしも大丈夫」
彼の腕をつかんで立たせようと踏ん張った瞬間、またしても滑ってしまった。
『ちょっとこの石、どれだけ滑りやすいの』
そう心の中で尋ねたところで、結局、わたしがどん臭いだけである。
「きゃあっ」
そして、悲鳴を上げつつ、あろうことか倒れている彼の上に倒れてしまった。
「うおっ」
重ね重ねごめんなさいって、全力で謝りたくなった。
わたしの全体重がかかってしまった。
「いったい、何をやっているんだ?」
そのとき、すぐ近くから声が飛んできた。
弾かれたように、エドモンドと二人でそちらを見た。
皇太子殿下が立っている。なぜかここに、皇太子殿下があらわれたのである。
「兄上?」
「皇太子殿下?」
エドモンドは背中やお尻を水につけたまま、わたしはそのエドモンドの上にのったまま、それぞれつぶやいた。
「い、いえ、いえいえ、で、殿下。ぼくが、ぼくが足を滑らせてしまって……」
「そ、そ、そうなんだ、あ、兄上。ミオが足をす、滑らしたものだかから、そ、それを助けようとして、こ、このザマ……」
「待てどくらせど戻ってこないから、何かあったのかと執務室を抜けだしてきてみれば……」
エドモンドと同時にしどろもどろに説明しはじめてしまったけど、わたしだけじゃなく、エドモンドの説明も要領を得ない。
皇太子殿下は、嘆息しつつちかづいてきた。
皇太子殿下は最初にわたしの腕をつかむと立たせてくれて、それからエドモンドの腕をつかんでひっぱり起こした。
やっと小川からでることはできたけど、わたしはともかくエドモンドはずぶ濡れである。
「ミオ、ケガはないか?」
「は、はい。ぼくは大丈夫です。それよりも、エドモンド様が」
「エドモンド。慣れない彼をこんなところに連れてくるなんて、何をかんがえているんだ?」
皇太子殿下は、軍服の上着を脱いでしぼっているエドモンドに詰め寄った。
「わたしはただ近道を……。申し訳ありません」
「それでなくても、ここは足場が悪い。とくに夜間は暗く、慣れているおまえやわたしでも危ないんだ。わかっているだろう?」
「だから、謝罪しただろうっ」
皇太子殿下がくどくどと言うのはめずらしい。さらに、不貞腐れたように言い返すエドモンドもめずらしい。
わたしのせいだわ。わたしがどん臭いばかりに、皇太子殿下を怒らせ、エドモンドが怒られている。
「殿下、エドモンド様は何も悪くありません。すべてぼくが足を滑らせたばかりに……」
「ミオ、きみはだまっていてくれ」
皇太子殿下の鋭い視線と声に、それ以上何も言えなくなった。
「もう二度と、彼をこんな人気のないところに連れてくるな」
皇太子殿下は、エドモンドのシャツの胸元を両手で握った。
ええ?皇太子殿下、いったいどうしたの?
彼の怒りの理由がよくわからない。
「兄上……」
エドモンドの顔に、一瞬だけはっとしたような表情が浮かんですぐに消えた。
「兄上、わたしは……」
エドモンドもまた、鋭い視線と口調になっている。
睨みあっている二人は、いつもとまったくちがう。
「わたしは、兄上に……」
「なんだ?なにが言いたい?」
いったいどうなっているの?
わたしが滑って転びそうになって、いきなり兄弟喧嘩?
「わたしは、あなたを心から尊敬しています。あなたはわたしをずっと守ってくれています。だから、わたしはあなたのためなら死もいとわない」
エドモンドは、そう叫ぶなり皇太子殿下の手を払った。
「だけど、だけどぼくにも譲れないものがある。兄さん、譲れないものがあるんだ」
「エド……。だからといって抜け駆けか?」
「ちがうっ!わざとなんかじゃない。ミオが自分で『足を滑らせた』って言っただろう」
「どうだか……」
もうっ!いったいなんなの?どうしていきなり喧嘩になるのよ。
「ぼくがそんなことをするはずがないだろ……」
「もうやめてくださいっ!」
いつも仲が良くっておたがいを思いやっている兄弟が、わたしが足を滑らせたくらいで喧嘩になるなんて耐えられない。
「ぼくはなんともありません。すべてぼくの不注意です。殿下、叱るならぼくを叱ってください。それでなくても、もう間もなく隣国の王子がやってくるので一致団結しなくてはならないんです。お願いですから、ぼくのことで喧嘩をしないでください」
こういうことをキレるというのね。
とにかく、二人には仲良くしてもらいたい。しかも、喧嘩の理由がわたしが足を滑らせただなんて、洒落にもならない。
「すまない。つい……」
「すまない。つい……」
気がついたら、二人が体ごと向いていてしょげている。
「仲直りしてください。いますぐ、です」
「わかった」
「わかった」
二人は、向き合った。
「仲直りの握手です」
「すまなかった、エドモンド」
「申し訳ありません、兄上」
二人はおたがいの手を両手で握り合い、ブンブンと音がきこえるほど上下にふりまわした。
よかった。
やはり、皇太子殿下とエドモンドは仲のいい兄弟じゃなきゃ、よね。
「ハックション!ハックション!」
エドモンドのくしゃみが、静寂満ちる森に何度も響き渡った。
結局、エドモンドはそのまま官舎に帰り、わたしは寮の近くまで皇太子殿下に送ってもらった。




