馬が逃げてくる
きき慣れた音は、どんどん近づいてくる。振り返って額に手をかざした瞬間、道の向こうにそれがあらわれた。
それは、すごい速さで近づいてくる。
月と無数の星々の明かりの下、それは漆黒の闇よりも濃い黒色の毛並みであることがわかる。
銜と手綱はつけているけど、鞍は置いていない。
「なんてきれいな馬なんでしょう」
思わずつぶやいていた。
「って、そんな場合じゃないわよね」
人の声も近づいてくる。ということは、あの黒馬を追いかけているはず。
「どうどう、いい子ね。落ち着いて」
馬蹄の響きは、この静寂満ちる大地にはうるさいくらいである。
それに負けじと、落ち着いた声で言った。とはいえ、怒鳴ったり叫んだりしては、よけいに黒馬を怯えさせてしまう。
そうだった。わたしはいま、男のふりをしているんだった。
「どうどうどう」
すぐに左右どちらかにジャンプできるよう、わずかに腰を落としつつもう一度なだめてみた。
すると、黒馬の速度がわずかに落ちた。
駈足から速歩になり、常歩になった。そのときには、わたしとの距離がだいぶんと近くなっていた。
「大丈夫だよ」
悪意のないことを示すために、両腕をひろげてゆっくりと近づいてゆく。
近づくにつれ、その黒色の毛がビロードのように光沢を放っているのがよくわかった。
さきほどの駈足っぷりといい、この馬体、それから毛並みといい、相当な駿馬であることがわかる。
かなり高価なはず。
「落ち着いたかい?」
鼻面に手を伸ばしながら口調をかえて尋ねると、黒馬が手に鼻先をおしつけてきた。
「これでもう、ぼくらは友達だね」
一瞬、乗ってみたいという衝動にかられてしまった。
だけど、ダメダメ。
必死に自制する。
そのとき、人の声とともに人の姿が見えた。
黒馬の持ち主にちがいない。
こちらに向かって走ってくる。
ポケットから眼鏡を出してかけてみた。
男爵はド近眼だと思い込んでいたけど、度はそんなにきつくない。
よかった。これなら、まだ見える。
「ああ、よかった」
息を切らしながらやって来たのは、若い男性三人である。
三人とも、シャツにベストにズボン姿で、いずれも狩猟用の帽子をかぶっている。
ついさっき口を開いた男性は、控えめに言っても美形である。背は低めだけれど、スタイルはいい。
あとの二人の内の一人は、シャツの上からでも筋肉質なことがわかる。もう一人は、眼鏡をかけていてスラッと背の高い知的な美男子である。
いったい、どういう人たちなの?
警戒してしまうのは、当然である。
「きみが、この馬を?」
「はい」
なるべく言葉すくなめにしなければ。
もともと、声は女性にしては低めではある。だけど、意識しないと。
「ありがとう」
一番若い男性はちゃんと黒馬のうしろを避け、すこしまわって近づいてきた。
「エドモンド・セルジオだ」
彼が手を差しだしてきた。
そのときはじめて、彼と目が合った。
彼が息を呑んだ。あとの二人も、わたしを見て驚いた表情になっている。
え?いきなりバレちゃった?
「ミオ・マッフェイです」
ドキドキしながら、エドモンドと握手をかわした。
本当の名は、ミヤ・ベルトーニだけど、偽名を使った。
マッフェイというのは、亡きお母様の実家の名である。
握手した瞬間、彼の手が体格のわりに分厚いことに気がついた。
「あの、なにか?」
それから、恐る恐る尋ねてみた。
「あ、すまない。その、大丈夫なのか?顔、それから腕も痣だらけだ」
彼がおずおずといい、そこではじめて痣や打ち身のことを思いだした。
「え、ええ。大丈夫」
そう答えつつ、何と言い訳しようかと必死にかんがえてしまう。
「馬を三頭買ったんだが、まだ調教されていないので逃げてしまってね」
ありがたいことに、彼は余計な詮索しなかった。
「きみがいてくれてよかった」
おたがい心の中で、どうしてこんな時間にウロウロしているの?
と思っている。
「え、ええ。この黒馬、いい買い物をされましたね。こんな駿馬、はじめて見ました」
「あ、わかるかい?本当は別件でこの国に来たのに……。馬の競り市をのぞいたのがバカだった」
「たしかに、バカでした」
「悪かったって言っているだろう、リベリオ」
「だったら、今後あんなバカなことはおやめください」
「わかったわかったよ。ったく……。ああ、すまない。というわけで、この黒馬に一目惚れしてね」
「一頭じゃないんだ。もう二頭、一目惚れとやらをしてね」
「モレノ、やめてくれ。反省しているって言っているだろう?」
エドモンドと二人のやりとりがおかしくって、つい笑ってしまった。
「ほら、ミオが笑っているじゃないか」
「すみません。ですが、エドモンドさんの気持ちはよくわかります。これだけいい馬なんです。ぼくだって、お金があったら買いたくなります」
まずいわ。馬のことになると、つい熱くなってしまう。