「氷の貴公子」
執務室にも陽光が溢れかえっている。
その光の中、皇太子殿下が立ってこちらを見ている。
その横には、側近のパオロが立っている。
オレステは、パオロの反対側に立った。
「かまわない。そんな堅苦しい挨拶は必要ない」
大理石の床に片膝をつこうとすると、皇太子殿下に止められてしまった。
「急に呼び立てて悪かった」
「いえ、殿下。遅くなり、申し訳ございません」
「殿下、彼は悪くありません」
そのとき、オレステが笑いを含んだ声で言った。
「サンドロですよ。彼が、ミオに絵を見せていたのです」
「あ、いえ、ち、ちがいま……」
慌てて否定しようとするも、オレステは急に笑いはじめた。
「わかっている。わたしには、わかっているんだ。ミオ、彼をかばってくれてありがとう。そうでなければ、彼を叱らなければならなかった」
笑いをおさめると、オレステは軽く頭を下げつつ言った。
「なるほど。ならば、わたしからも礼を言わねばならないな、ミオ」
「殿下……。いえ、サンドロさんの絵は、素晴らしすぎます。海を見たことはありませんが、彼の絵は、潮騒というんでしょうか?そういうものまできこえてきそうなほど美しいです。心が浄化されました」
「ああ、そうだな。わたしもあの絵を見、いつか海を見たいと思ったよ。ミオ、座ってくれ。二人は、下がってくれていい」
椅子を勧められ、とりあえずすぐ横にある長椅子に腰をかけた。
座り心地満点である。
「そうだ、パオロ。捜索は、引き続きしてほしい。どれだけ時間と費用がかかってもいい。かならずや見つけだすのだ」
「承知いたしました」
パオロは一礼し、オレステとともに出て行ってしまった。
皇太子殿下は、ローテーブルをはさんだ向こう側の長椅子に腰かけた。
これは、まずいわよ。
サンドロの絵の余韻など、あっという間に吹き飛んでしまった。
それにしても、彼は本当に美しい。こうして見ていると、自分の恰好が壊滅的にみすぼらしく感じてしまう。
しかも、馬臭い。
もう慣れきってしまっているのでわたし自身は気にならないけど、きっとこの部屋も馬の臭い、具体的には馬糞のにおいが漂っているにちがいない。
一瞬、窓を開けたい衝動にかられてしまった。
「ミオ、あらためてバルドの調教の礼を言わせてほしい」
「い、いえ。それが、わたしの仕事ですから。それに、わたしは師匠の手伝いをしただけのことです。それから、バルドたちは、もともとエド、いえ、将軍閣下が入手されました。閣下の目利きが素晴らしいのです」
エドモンド様と言いかけて、慌てて将軍閣下と言いなおした。
「きみは、ずいぶんと謙遜するんだな。控え目と言うべきかな?」
「氷の貴公子」の美形に、やわらかい笑みが浮かんだ。
すべてが意外すぎる。
これまできいていた噂とはまったくちがう。戸惑ってしまう。
「馬の調教のこともだが、あのファビオを調教、おっと失礼。手懐けるあたり、きみはなかなか見どころがあると思うがね」
冗談まで言うの?と言っても、いまのわたしに笑うような余裕はないけれど。
「いえ……」
彼の視線に耐え切れず、視線を落として顔をわずかに伏せてしまった。
「まぁ、いい。そういうのは嫌いじゃない。わたしのところに自分を売り込みに来る連中にくらべれば、きみのほうがずっと価値があるし、優秀だ。なにより、思いやりがある」
そのとき、ドアがノックされた。
「どうぞ」
皇太子殿下の許可とともに、部屋にメイドが入って来た。
「失礼いたします」
彼女は、皇太子殿下とわたしの前にティーカップを置いてくれた。
ローズティーかしら。
いいにおいが漂ってくる。
「ありがとう。アマンダ、すこしは慣れたか?」
「は、は、はい」
彼女は、背筋を伸ばして甲高い声で答えた。
ずいぶんと緊張しているみたい。
それはそうよね。
「ほ、ほかに、な、何か御用はございませんで、しょうか」
彼女は緊張しすぎている。見ていて気の毒になってくる。
「ああ。何もない。きみも、休憩するといい」
「は、は、はい」
彼女はペコリとお辞儀をすると、急いで部屋を出て行ってしまった。
「わたしは、「氷の貴公子」と呼ばれていてね」
きれいな指先でカップを持って口に運んだ後、彼は苦笑した。
知っています。わたしの国でも有名ですもの。
「どうも怖れられてしまっているようだ」
それはそうでしょうとも。
さっきはわずかながらでも笑ったけど、彼の顔には基本的に笑顔がない。
もっとこう、ニコニコしていたら、メイドだって怖がったり緊張したりしないはず。
もちろん、わたしもだけど。
視線をひたすら紅茶に向けていると、彼が「うまいよ。飲んでごらん」と言ってくれた。
緊張で喉が渇いていることもあり、「いただきます」と言ってから一口飲んでみた。
ああ、ほのかに甘い感じがする。
もうひと口……。




