雑学百夜 宮本がピンになるまで
ピン芸人のピンとは『点』を意味する「pinta」というポルトガル語が由来である。
「pinta」は『点』という意味からサイコロやカルタの一の目を指す意味へと派生していき、日本に伝わった際は「ピン=1」という意味に変わり、それが転じて「一番良いもの」という意味にも使われるようになっていった。(Ex.ピンからキリまで)
「ねぇ、あなたどうしたの?」
妻の薫に言われて気付いた。
晩酌用の缶ビールはいつの間にか手の中ですっかり温くなってしまっていたし、テレビをジッと睨むように見続けたその瞳からは涙がひとつ零れ落ちていた。
テレビに映っていたのはピン芸人のNo1を決める番組で、そこでは無観客収録の中、一人の芸人が孤独にネタを披露していた。
「そんな泣くほど面白かった?」
俺の顔を覗き込むと薫は小首を傾げ悪戯っぽく笑った。
小さく笑い返した後、俺は答える代わりにその手に握りしめたビールを一杯煽った。
————面白かったよ。
苦味が喉元を過ぎていく。
その胸の奥で昔見たいくつもの夢が泡のように弾けては消えていった。
もう何年も前の話になる。
俺達は芸人だった。
当時22歳。養成所で知り合った同期の宮本と一緒に『きらきらスイッチ』というコンビを組み、人気芸人…いわゆる天下を獲るために日々舞台を駆けずり回った。
漫才・コント・リズムネタetc……
面白いと思ったことはなんでもがむしゃらにやった。
俺達の才能を世間の奴らに知らしめてやろう。
そう思えばどんな辛いことだって乗り越えられた。
場末のショーパブでビール瓶を投げつけられたこともある。オーディションでは放送作家に「使えないね」なんて足を組んだまま言われることはザラだった。
————どうして誰も分かってくれないんだよ。世間のレベル低すぎだろ?
あの頃を思い出すと、俺はいつもそうやって安酒に溺れながら四畳半のアパートの一室でいつまでもいつまでもくだを巻いていたように思う。
我ながら情けない。
ひょっとするとそんな日常に少し安心していた自分もいたのかもしれない。
夢を追いかけている、それだけで俺はもう満足していたのかもしれない。
宮本、あの時お前はどうだった?
何を思っていた? おぼろげな記憶の底ではお前は俺の愚痴に只付き合うように苦笑いを浮かべてくれていたことしか覚えてないんだ。
もしかしてさ、やっぱり宮本、お前はさ、あの瞬間すらもどう笑いに変えようかずっと考えてたんじゃないか?
売れない芸人の生活をモデルに湯水の如く新ネタのアイデアが浮かんでいたんじゃないかって思うんだけど、実際のところどうだった?
もしそうだったんならそのネタの中に俺は居たか? いつもワンテンポズレてるって芸人仲間からはもっぱらの評判だった俺のツッコミが炸裂する場面はあったのかな?
なぁ、どうだったんだよ。
……ごめん。
責めてる訳じゃないんだけどどうしてもこんな話し方になってしまう。
宮本、俺はお前との全てを懐かしさだけで終わりにしたくないんだ。
悔しい、切ない、そんな感情とともに俺はあの日々をいつまでも胸の中に留めておきたいんだよ。
いつかのライブ終わり「三人だけで二次会するか」と誘われ俺達は先輩のハネムーンボンバーズ寺井さんと一緒に飲みに行った。
ハイボール一杯140円が売りの安居酒屋だった。周囲でバカ騒ぎをしている大学生集団に追いやられるように隅の席で俺たち3人はしたたかに酔っていた時、寺井さんはおもむろにある話を切り出してきた。
「なぁ、斉藤……お前さ、解散とか考えたことあるか?」
『解散』という2文字が周囲の喧騒の中で妙に鋭く響いたのを覚えている。
「……はっ? てっ、寺井さん。なっ、なんか言いました?」
俺は鶏皮を喉に詰まらせながらそう答えるのが精一杯だった。
寺井さんはそんな俺に呆れたように溜息を吐いた後、宮本に目配せをし、そしてまっすぐにこちらを見ながら言ってきた。
「斉藤、宮本と解散してやれ。宮本はこれからピンで頑張っていったほうがいい」
そう言って寺井さんは氷が溶けてすっかり薄くなったハイボールを一息に煽っていた。
隣の宮本はそんな寺井さんの言葉に何を言う訳じゃなく俯いたまま黙っている。
俺はというと、そんな寺井さんの言葉について行けず、適当に愛想笑いで「ちょっと何言ってんすか~!! おい! 宮本! お前も何かツッコめって!」と流そうとした。
だけど、寺井さんは俺を見つめたまま「斉藤、俺は本気だぞ。お前らもう解散した方がいい」ともう一度念を押すように言ってきた。
「……寺井さん。マジで言ってんすか?」
俺の言葉に寺井さんは頷く。
「言っとくけど、宮本にそういう話をしてくれって言われた訳じゃないからな。俺から宮本にこんな話するけどいいな? って確認した上で今俺は話してる。俺が個人的にお前らの事を思って言ってるだけだから勘違いするなよ」
「……はぁ? 訳わかんねぇっすけど……」
俺は隣の宮本に目をやった。宮本は気まずそうに目を逸らす。
「斉藤、あのね……」
「宮本、お前は言うな。何も言わなくて良い。黙ってお前達は俺の話を聞け」
寺井さんの言葉に宮本は口を噤む。
「いやちょっと寺井さん流石に冗談きついっすよ」
俺は少し詰め寄りそう言った。
「冗談言ってるように見えるか?」
「いやっ、ネタへのダメ出しとかならともかく解散とかそんな人生左右するようなことまで言う権利は先輩だからってなくないですか? しかも解散って……なんで俺たちが解散しなきゃいけないんすか!!」
酔っていたこともあったのだろう。俺は思わず机を叩き、そう叫んでしまった。
辺りがシンと静まり返る。それはスベリ散らかした時の空気に似ていた。舞台の上と違って宮本のフォローは無い。
向かいの席のOL軍団の視線を浴びながら暫くの間の後、寺井さんはさっきまでと打って変わって少し優しい口調で言った。
「斉藤、よく聞け? お前には才能が無い。勿論、俺にもないし俺の相方の江藤にも無い。才能があるのは宮本、こいつだけなんだよ」
融けた氷がグラスの底に触れる音が響いた。宮本の俯く角度が深くなる。
「俺はこの業界でお前よりもずっと多くの売れていった奴とそして売れずに散っていった奴らを見てきた。だからさ、もう分かるんだよ。俺達はもうこのままきっと売れねぇし、お前らもこのままじゃきっと同じさ。だけどな、宮本は違う。なぁ、斉藤、分かるだろ?」
あの時の寺井さんの声には少し湿り気が混じっていた。
宮本は何も言わない。
だからこそ俺はようやく理解した。
寺井さんの言葉が頭に響く。
————宮本は違う。
そんなこと、ずっとそばにいた俺こそが他の誰よりも知っていた。
宮本は違う。
どんな自信のあったネタがウケなくても絶対にお客さんのせいにしたりしない。
宮本は違う。
どんなにつまらない芸人が売れていようと、ウケている理由がきっとあるはずだからと言いテレビや舞台を観ながら何かを吸収しようとしている。
宮本は違う。
俺は人を笑わせるのが好きで芸人になった。だけど宮本は言う。人を笑わせるのが好きなのは世間の人含め本来誰でもそうなんだって、と。
ねぇ、斉藤、本来お笑いなんてさ、誰もが好きで誰でも出来ることなんだから。だから、だから、俺達は本当は誰よりも向き合わないといけないんだよ。ねぇ、斉藤。こっちを見てよ。僕の言っている事って何か違う?
違わない。何も違わないと思う。
だからこそ俺と宮本は————
「……解散ですか」
自分の言葉を聞きながら、内心「マジ? マジ?」なんて呟いてしまう何とも呑気な俺がいた。
だけど、隣で零れる涙を必死で拭うお前を見ていたら全てを許せる俺もいた。
「……実はずっと考えてたんですよね。俺って根本的なところで向いてねぇんじゃねぇかなぁって。ネタ作れねぇし、ツッコミはズレてるし、エピソードトーク下手だし、ギャグは小学生すら笑わねぇし……って、あはは、こうして並べてみたら俺って本当に芸人には向いてないっすねぇ〜宮本にも迷惑ばっかり掛けてきちゃったなぁ」
寺井さんは何も言わずジッと俺を見つめる。宮本は「ごめん。ごめん」と呟きながら服の袖には肘までだって涙染みが出来ていた。
「俺、芸人辞めます」
俺は改めて胸の中に浮かんでいた思いを言葉にした。
「宮本、お前はこれからピンで頑張ってくれよ。俺の分までなんて気負わなくていいからさ、お前はお前で頑張ってさ、いつか俺みたいなどうしようもないような奴も笑わせてくれよ。ちなみに舞台でどうしても困ったら俺のギャグ使ってくれてもいいからな。スベったって責任は取らねぇけどさ」
最後の最後、半笑いで何とかそんな事を言いながらせめてもの意地で俺はオチをつけてみた。
だけどやっぱり才能が無いから誰も笑ってくれなかった。
全国チェーンの安居酒屋の隅の席。そこが俺の最後の舞台となった。
深夜0時、俺達は店を出た。
「全部まかせろ!!」
そう言って目を真っ赤に泣き腫らした寺井さんはその日の支払いを全部出してくれた。
良い兄さんだった。本当に心の底からそう思う。だから乗るはずだった電車賃すら無くなってしまい仕方なく3人で歩いて帰ることになったことも全てが良い思い出だ。
帰り道、寺井さんが月をぼんやりと見上げながら教えてくれたことを俺は妙に覚えている。
「そういえばお前ら知ってるか? ピン芸人のピンってポルトガル語でサイコロの赤い1の出目って意味らしいぜ。やっぱりさぁ〜周りと違う赤点はピンなんだよなぁ。何かなぁ、何だかなぁだよなぁ〜ピンでやっていけるってやっぱりどうしたって羨ましいよなぁ〜だけどさぁ、俺達だって頑張るしかないんだよなぁ〜なぁ、斉藤、頑張ろうなぁ〜俺達もずっとずっと頑張っていこうなぁ」
成立しているのかどうかも分からないそんな話を、酔い潰れた寺井さんは延々としていた。俺も宮本も「そうっすねぇ〜そうっすよねぇ〜」なんて適当な相槌を打っていた。
そんな俺達を月明かりは平等に照らし上げてくれた。静かな住宅街に点みたいな三つの黒い影が浮かび上がる。それらはこの広い夜空の下でそれぞれ重なったり、離れたり、駆け出したり、止まったり……千鳥足で当てもなく彷徨い歩いていった。
つまらない雑学と終わって欲しくなかったあの夜。
忘れたくても忘れられない。
お前はどうだったのだろう?
同じ想いでいてくれてたなら、俺は嬉しい。
「ねぇ、その話何度目?」
いつの間にか同じビールの缶を開けていた薫は隣に座りながら少し呆れた顔で言ってきた。
「宮本さんも凄いけどさ、私からしたらたった一人の夫のあなたも十分素敵なんだけど。そんなことより結果発表だよ。応援しないの?」
薫は齧り付くようにテレビを見ていた。
俺は泡の消えた温いビールを一口啜る。
大丈夫だよ。
そう言う前にテレビの向こうでお前の名が呼ばれた。
「今年の優勝者はきらきら宮本さんでーす!! おめでとうございます!!」
薫は歓声を上げ抱きついてきた。強がってはいたがやっぱり俺も声を上げてしまった。
司会者に呼ばれたお前は少し居心地悪そうに舞台の中央に立った。
スポットライトを浴び司会者に促されるまま一歩だけ前に出たお前の目元にはあの夜とまるで同じ涙が光っていた。
宮本、おめでとう。やっぱりお前は最高のピン芸人だったんだよ。
雑学を種に色んな話を書こうと思い早一年。
全く更新出来ていませんが良かったら読んでいってください。
雑学百夜シリーズURL
https://ncode.syosetu.com/s5776f/
なおこのシリーズで扱う雑学の信憑性は一切保証しておりません。ごめんなさい。