62話 味覚障害
時刻は夜八時となり、本日のお見舞い時間終了。本来なら小桜さんがお見舞いに来てくれて、それが当たり前の日々だったから、病室で一人がこんなにも寂しいということが、三ヵ月も入院して今さらながらに気付かされる。
まさか小桜さんの悩みが味覚障害だったとは。
今にして思い返してみると、そういう場面は確かにあった。月山さんのリンゴを食べた時に「多分美味しい」と答えたのは上手くフォローできなかったのではなく、本当に味が分からずに素直にそう答えていたのだ。
それに小桜さんは美羽ちゃんの料理を問答無用で「美味しい」と答えていたのも姉としての気遣いと解釈されて、美羽ちゃんも不信に思うことなく料理も上手になっていった。
だけど初めて作ったクッキーとなれば話は別だ。お菓子作りに失敗はつきもので、下手なお世辞は不審に思われてしまうので、小桜さんは食べるのを保留して皆の反応を先に確認。僕が美味しいと答えたのを確認してから自分も美味しいと答えたのに、まさか自分のクッキーに細工してあるとは夢にも思わなかっただろう。
だけどそれがもし事前に分かったとしても、僕に何ができた?
味覚の治し方なんて見当が付かないし、病院で治療して下さいとしか言いようがない。
小説には異世界ジャンルがあって、その転生方法で多いのは車に轢かれるパターンだ。そして自分も同じく車に轢かれて、その時に味覚障害が治せる能力に目覚めていれば万事解決だけど、当然ながらそんな能力ないし、そもそもそんな能力を主軸にした物語は絶対にないだろう。
そう思いながら、昨日受け取ることができなかったサボテンを凝視。あれだけ戦々恐々としながら毎日受け取り続けて、途切れる日が来るのを心から待ちわびて遂にその日が来たというのに、全く嬉しくない。
このまま終わりにしたくない。
したくないのに、動けない。
足の骨折だけなら松葉杖で病院を抜け出したけど、腰骨は体の幹を支える重要な部位で、完治せずに動かせば最悪一生車椅子生活だ。
だけどもし小桜さんが今後お見舞いに来てくれなければ、退院まで会いにいくことすら叶わず、そこまで時間がたってしまえば、もう手遅れだ。
恋愛に障害は付きもので、無数に読んだ恋愛小説でそれは熟知してるけど、フィクションでもここまでの悪条件は聞いたことがない。主人公は一切動けなくてヒロインに会いに行くことさえもできず、しかも小桜さんの味覚障害はどう足掻いたところで僕が解決するのも不可能。
これで一体どうしろと?
もはや奇跡にすがるしか術がなく、せめて小桜さんがまたお見舞いに来てくれないかと願っていたら、その思いが通じたのか、現実に扉が開いたのだ。
「小桜さん!?」
反射的にそう叫んでしまったけど、まさかの正解で奇跡が起きた。
本当に小桜さんが来てくれたのだ。
だけどその表情は目に見えて悪く、僕を見るなり泣きながら抱き付いて来て、いつも通りに頭を撫でる。小桜さんの妹である、美羽ちゃんの頭を。
「森谷さん。これは一体?」
「お見舞い時間終了で玄関を閉めようとした時に見つけたの。それで家に連絡してみたら、どうにも家を飛び出したみたいでね。もうすぐ母親が迎えに来るから、悪いけどそれまで見ていてくれない? 今はちょっと時間が」
「分かりました」
この時間帯の看護師は夜の検温・消灯準備で忙しいので、そそくさと森谷さんが退室。それから美羽ちゃんをあやして、落ち着いて話せるようになってから、助けを求める様に言ってきたのだ。
「どうしよう。おねーちゃんが壊れた」




