61話 嘔吐
「美羽はお姉さんを驚かせようとしていて、あのクッキーだけクエン酸たっぷりなんです」
「確かクエン酸って、少量でもメチャクチャ酸っぱくなるアレ?」
「はい。昨日試食しましたけど、もの凄く酸っぱかったです」
「でも小桜さん、美味しいって言ってるよ?」
「ですね。一日経って酸味が飛んだのかもしれません」
そんなヒソヒソ話をする最中、予想外な姉の反応に美羽ちゃんが首を傾げる。
「おねーちゃん、私もそのクッキー食べていい?」
そう言われてクッキーを差し出す小桜さん。
おっかしいなーと言わんばかりな顔で美羽ちゃんがクッキーを食べてみたら、
「うぐっ!」
小さな呻き声を漏らして硬直する美羽ちゃん。
あれ、何かがおかしい。
「小桜さん、僕もそのクッキー食べていいですか?」
そう断ってからクッキーを食べてみると、
「うわっ、これは……」
「昨日と同じ酸っぱさです」
軽くかじってみたけどものすごく酸っぱくて、月山さんも口をすぼめている。
「月山さん、悪いけど適当な飲み物買ってきてくれない?」
「分かりました」
小銭を渡してから月山さんが病室から出ていき、小桜さんは大丈夫なのかと見てみたら、なんと二枚目のクッキーを食べ初めていたのだ。
「ちょっ、小桜さんストップ!」
慌てて小桜さんが持っているクッキー袋を取り上げたのだけど、当の本人は不思議そうな顔をしながら答える。
「…………美味しいよ?」
「いや、これはどう考えても」
「…………でも、美味しいって」
僕が食べたクッキー見ながらそう答える小桜さんに、喋れるようになった美羽ちゃんがペコリと頭を下げる。
「ごめんおねーちゃん。そのクッキーはおねーちゃんを驚かせようとしたもので、本物はこっち」
そうしてクエン酸が含まれないクッキー袋が渡されて事態を把握した小桜さんの顔が、一気に青くなる。それは取り返しの付かないミスをしてしまった顔で、どうして小桜さんがこんな反応をしてしまったのか、その理由を考えて、一つの仮説が浮上するのと同時に、叫んだ。
「小桜さんは美羽ちゃんの悪戯に気付いて、それで酸っぱいのを我慢したんですよね!」
この手の悪戯であえて平静な態度をとってから相手をはめ返す手段は珍しくない。
全然そんなふうには見えなかったし、小桜さんがそんな器用な真似ができるとは到底思えないけど、それでも頷いてほしいのに、小桜さんは頷いてくれない。
だって小桜さんはびっくりするほど愚直で、素直で、嘘がつけない性格だから。
そんな姉の態度に、美羽ちゃんがしてはならない質問を始める。
「おねーちゃん、そのクッキーおいしかったの?」
何も答えない小桜さん。
「今朝、私がつくった朝食もおいしいって言ってくれたよね?」
「美羽ちゃんストップ」
「昨日の夕食も、その前も、おいしいって言ってくれたよね?」
「美羽ちゃんお願い! もう喋らなないで!」
「ずっとずっと、毎日おいしいって言ってくれたよね?」
「小桜さんお願いします! おいしかったって言ってあげて下さい!」
手を伸ばして強引に美羽ちゃんの口を塞いだけど、もう全てが手遅れで、涙目な妹の瞳から目を逸らしながら小桜さんが告げる。
「…………ごめんなさい」
そう力なく小桜さんが答えてから、美羽ちゃんが嘔吐。
それは久々の嘔吐で、すぐに小桜さんが駆け寄って手を伸ばしたけど、その手は美羽ちゃんの背中に触れずに寸前の所でストップ。以前はその手で美羽ちゃんの背中を優しく撫でていたのに、結局その手が美羽ちゃんの背中に触れることがないまま、逃げる様に小桜さんが退室。
それからは可能な限り美羽ちゃんをなだめて、戻ってきた月山さんにはクッキーのせいで体調を崩したと説明をしてから、美羽ちゃんを家まで送るようにお願いして帰ってもらった。
そうして病室が静かになり、何気なく回りを見てみると、小桜さんが座っていた椅子の下に見慣れた袋があったのでマジックハンドで掴んで確認してみると、それは今日受け取るはずだったお見舞い品の果物とサボテンだった。
小桜さんは今日も欠かさずにお見舞い品を用意してくれていた。
なのに今後は無理して持ってこなくていいと、無神経なことを言ってしまったのだ。
そんな自分に猛省しながら、とにかく明日ちゃんと謝ろう。
そう思っていたのに、もう小桜さんが姿を現すことはなかったのである。




