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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

タマネギ人間

作者: クマガヤユキヒロ

 ぼくはぼくの顔を見ることができない。

 今、どんな顔で、ここに立っているのだろう。

 仕事をしているとき、彼女と生活をしているとき、友人と会話をしているとき。どんなときでも、どれもがぼくの顔であるはずなのに、ぼくは自分の表情すら知ることができない。いつも傍に鏡はなく、誰かが親切に教えてくれることもない。一体ぼくは、自分の顔すら見えないまま、何者でいるのだろう。

 こんな状況でも、ぼくは思考を巡らすことができるようだ。

 ぼくの目の前で上長が――黒田部長が倒れている。


「コートを持ってくればよかった」

 まだ九月だというのに、肌に触れる風が氷水のように冷たい。九月は夏の名残りで暑さが居座ると思っている内地の感覚が、転勤して三年が経った今でも、ぼくの根底から離れようとしない。今朝、仕事の準備をしながら、テレビから流れる天気予報に目も向けていたはずなのに。意識がない自分の行動に苦笑する。

「また終電か……明美、怒っているだろうな」

 左腕の時計を見る。社会人になって、初めてもらったボーナスで買った腕時計だ。明日の帰宅になると気付き、秒針の正確な時間の刻みが、ぼくの胸をいちいち刺激する。長年の相棒も容赦がない。

 最終列車の到着を告げるアナウンスが耳の中に入ってくる。暗闇を裂き、真っ直ぐ走るヘッドライトの光力とは違い、どうしてホームでは時間にそぐわない肩透かしの音楽を鳴らすのだろうか。人気がない終電のホームで、体感温度だけが低下していく。

 決して快適ではない、コンクリートにカバーをかけただけのような座席に、疲れの重力で自然と腰を下ろす。ジャケットのポケットから携帯電話を取り出すと、ディスプレイに見慣れたアイコンの通知があった。明美からのメッセージだ。

(いつ帰ってくるの? 眠いんだけど。)

 携帯電話の画面を閉じ、天井を仰ぐ。

 何も装飾されていない文字だけのメッセージ。

(黒田部長から急な仕事を振られちゃったんだ。終電になる可能性が高いから、夕飯もいらないし、先に寝ててもいいよ。いつもごめんね。)

 ぼくの言葉は、明美に届かなかったのだろうか。履歴を見ると、メッセージは問題なく送信されている。もう少しだけでも、ぼくの仕事の状況をわかってほしいと思うのは、傲慢な願いなのだろうか。吐く息が空気中の濃度を深めていく。

 車窓を眺めても、この時間では何も形あるものは見えない。黒い闇だけが何面も辺りを支配し、時折申し訳なさそうに光る街灯が安いアクセントになる。変わり映えしない光景は、ぼくの頭の中に今日の出来事を映し始めた。考えたくないのに、思い出したくもないのに。思考回路が勝手に、ほんの数時間前の過去を語り始める。


「藤崎、ちょっといいか」

 ――ちょっといいか。

 何がちょっとで、何がいいのか。黒田部長が繰り出す言葉は、いつも中身を伴っていない。きっとそこに、ぼくを配慮するスペースなんてないのだろう。それでも反射的に身体が反応してしまう。

「はい、何でしょうか?」

「一昨日、クレームになった案件があっただろう?」

「はい、先方に謝罪して、理解もしていただけて、現状特に問題はありません」

「報告もらっているから、それはわかっている。けど、もう一度経緯をまとめて書面にして、俺まで送ってくれないか」

「え……」 

「えって、何だよ。上に報告する必要があるから仕方ないだろ。今日中にまとめてほしい」

 問題が起きてすぐ、ぼくが黒田部長に報告した時間は何だったのだろうか。上への報告で書面が必要なら、最初からそう指示をすればいいじゃないか。何かのビジネス書で、上司は部下に具体的に指示を出せと書いてあった。会社の研修でもそう習った。でもそれは、全く現場では実践されない。

「……わかりました。これからまとめます」

「よろしく。俺はもう会社を出るから、メールでデータを送っておいて」

 ――帰るのか。

 今日中にまとめる意味が、目的が、全くわからない。でもそれを言葉にする勇気もない。またひとつ、使いやすい自分を作り上げてしまった。

「悪いな、藤崎。お先」

「お疲れ様でした」

 黒田部長がぼくの右肩を叩いてフロアを出ていった。悪いなと投げ掛けられた言葉と、肩に感じた重さが、全く天秤でつりあわない。ぼくに残るのは、今日中に報告書をまとめなければならない事実だけだ。

 自席に戻り、パソコンをスリープから解放する。報告書をまとめるソフトが立ち上がるまでのほんの数秒、机に両肘をつきながら両手で顔を覆う。少しでも現実から逃避したい。目の前は暗くても、指の間をすり抜けて届く蛍光灯の線が、躊躇なく現実を引き戻してくる。黒田部長から振られた仕事をやらない選択肢は残されていない。

「課長、大丈夫ですか? 何か手伝いましょうか?」

 声の先を見ると、部下の佐藤がいた。きっと黒田部長とのやりとりを聞いていたのだろう。哀れむような視線が優しくも痛い。

 佐藤のパソコンは閉じられ、ブリーフケースが机に置かれている。会社を出るタイミングで、黒田部長とのやりとりが始まってしまったのだろう。帰るに帰れず、事の始終を聞いていたようだ。佐藤に気を遣わせてしまった。

「ありがとう。その気持ちだけで十分だよ。そんな時間かからないと思うし、先に帰ってくれて大丈夫だよ」

「でも……無理してませんか? 本当に大丈夫ですか? 他の仕事もあると思うし、今回の件は元々私の担当顧客の話でもあるし、課長だけの負担が増えるのはちょっと何と言うか、違う気がしていて……」

 佐藤は仕事ができる男だ。ぼくは上司として、佐藤に仕事の指示をすることもできる。他にも仕事は山積みだ。手分けをした方が仕事の終わりは段違いに速くなる。

 ――でも。

「今日は翔くんの誕生日だったよね? そういうときは早く帰った方がいいよ」

「確かにそうですけど、でも……」

「また別の何かがあったときには頼むから、今日は気にせず帰りなよ」

 今日は佐藤と昼食を食べた。会社の近くにある定食屋だ。そこで佐藤は、今日が息子の一歳の誕生日であることを教えてくれた。つかまり立ちができるようになったこと、ママとは言ってもパパとは言ってくれないこと、表情が豊かになってきたこと。佐藤の携帯電話のアルバムには、こどもの成長の瞬間を切り取った写真が保存されている。その一枚一枚を、解説付きで披露してくれた佐藤を思うと、仕事を指示することなんてできない。

「……すみません。ありがとうございます」

「今日もさ、たくさん写真を撮って、また明日とかにでも見せてよ」

「わかりました。また解説しますね」

「今日みたいにね」

 佐藤が目もとを緩めて笑う。子を持つ親の笑顔は、仕事で見せる笑顔と違って、春の陽だまりのようなあたたかさがある。佐藤の背中を見送りながら、ぼくは携帯電話を開く。明美にメッセージを入れておかないと。きっと家に帰るのが遅くなる。


 最寄り駅近くのコンビニでホットコーヒーを買った。ジャケットを羽織ってはいるが、洋服で隠れていない部分がどうしても冷える。手袋代わりにと、持ちやすい缶コーヒーを選んだ。

 最寄り駅から自宅までは徒歩で十分ほどかかる。電車の中で送ったメッセージに加えて、家に向かって歩いていることも明美に伝える。あれから何も返事はない。それでもぼくは、彼女にメッセージを送り続ける。

 缶コーヒーの熱すぎもせず、冷えきってもいない間の温もりが、じんわりとあたたかさを伝えてくれる。プルタブを開けて、コーヒーを一口、また一口と身体の中に流し込む。苦味が喉を震わせて、旨い。

 ぼくが住む街は、マンションは、本当に人が住んでるのかと思うほど、静かな時間を携えている。内地から転勤して三年が経った今はもう当たり前に感じるが、移動してきた当初は物音ひとつ感じられない時間の流れが違和感でしかなかった。物音は探さないと、見つからなかったのだ。

 今日も静かなマンションに着き、エレベーターホールでボタンを押す。エレベーターが親切に回数を刻んでくれるたび、仕事からプライベートへの切り替えが、現実味を帯びてくる。

 鍵を開けて部屋に入る。明美が玄関まで迎えに来てくれたのはいつまでだったか。今日はどうして、こんな気分になるのだろう。

「ただいま」

 内地にいたときとは違って、部屋の間取りは広くなった。二人暮らしでも三部屋を確保している。お互いのスペースはあっても、自然とリビングで過ごす時間が増えていた。今日も明美はリビングで携帯電話に触れている。

「……今日も遅かったね」

「……うん、ごめんね」

 携帯電話から視線を外すことなく、明美が抑揚のない声で言う。事前に遅くなると連絡を入れたのに、家に着く前にもそうしたのに。「おかえり」すら言ってもらえないぼくは、会社での葛藤を誰に理解してもらえるのだろうか。遅くなっても、起きて待っていてくれたことに、ぼくから感謝をするべきなのか。正解が見えない質問を自分に投げ掛けるだけで、ぼくの口から言葉は何も出てこない。明美も、反応しない。

「着替えてお風呂に入ってくるね」

 自室でジャケットを脱いでネクタイを外す。着ていたものがひとつずつ減っても、ぼくの身体も心も全く軽くはならない。言いたいことは何も言えず、ため息の回数だけがチャージされていく。

 お風呂は明美も干渉してこない。ほんの数十分だけでも一人になれる空間があるのは、常にどこかで誰かと対峙しているぼくにとって、唯一と言っていい解放される瞬間だ。肩まで湯船につかり、手ですくったお湯を顔にあてる。洗うというよりも、皮膚を剥がすような力で、何度も顔を上下にお湯でこする。本当のぼくが、どこかにいるような気もした。

 バスタオルで髪の毛を乾かしながら、リビングに戻る。もういないと思っていた明美が、まだ携帯電話をいじっていた。ぼくがリビングに入ってきたことを確認し、今度は目をあわせて口を開いた。

「ねぇ、もうすぐ拓巳の誕生日でしょ?」

「あ、うん、そういやそうだね」

「だからさ、旅行しない?」

「旅行?」

「うん、誕生日にお祝い旅行をするの。思い切って、あったかい南まで飛んでみるとか、よくない? 今日もなんだかんだで寒いし、まだ九月だから南に行けば夏の気分を味わえるでしょ?」

 思考が追いつかない。この変わり様は何なのだ。「おかえり」すら言わず、目もあわせなかった明美が、今は目の前で旅行の話をしている。顔から笑顔がこぼれ落ちそうなほど、目が輝いている。

「どうして、急に旅行なの?」

「最近ずっと、拓巳は帰ってくるの遅いし、ご飯も食べないことが多いから、私は暇なんだよね。だから色々調べてたら、旅行にいきたくなってね。ずーっと、こうしているのも嫌だし、気晴らしにぱーっと外に出掛けるのもいいかなって思って。ちょうど拓巳の誕生日だし、タイミングよくない?」

 ぼくの帰宅が遅くなって、ご飯も食べられないと知っているなら、どうしてその笑顔の感覚で、ひとことメッセージをしてくれないの? 自分が勝手に旅行にいきたくなったから、楽しそうに話を投げかけているの? ぼくの誕生日は、ついでなの?

 声にならない疑問が、胸まで溢れてはシャボンのように消えていく。

「旅行ね……」

「なにそのテンション」

「いや、その、突然だから、びっくりして」

「行きたくないの?」

「そうは言ってないよ」

 ――五月蝿い。

「そういう顔に見えるよ?」

「そう見えたのならごめんだけど、ちょっと疲れてるからさ」

「わたしだって、待ってるだけでも疲れるっていうのに」

 ――本当に、五月蝿い。

「遅くなったのはちゃんと謝ったよ。黒田部長がさ、帰りがけに無茶振りするから……」

「メッセージで見たから知ってるよ、そんなことくらい」

 ――そんなこと?

 ――もう、黙れ。

「なにその顔」

 明美がぼくを見ている。笑顔から一転、眉間に皺を寄せ、汚物でも見るかのような目でぼくを刺す。ぼくはどんな顔をしているのか、自分では見ることも知ることもできない。

「……ごめん。その話はまた今度しよう。今日は本当に疲れちゃったからさ」

 明美はぼくから目を離さない。じっとぼくを見据える。ぼくも変わらず、明美を見続ける。明美の唇が震えて、言葉を出そうと微かに動いたが、目を逸らすだけで言葉は発しなかった。明美は握りしめていた携帯電話に目を戻す。

「そんなに疲れてるなら、もう寝たら?」

「うん、ごめん、そうするよ」

 もう一度、明美を見る。お互いの目が交わることはない。リビングのドアを閉め、自室に向かう。普段は三部屋の一つをふたりの寝室にしているが、そこに向かう気分ではない。

 自室のドアノブに手をかけようとした刹那、リビングの方から何かが砕けるような音がした。リビングのドアは木製の枠にガラスがはめ込まれていて、ドアを隔てるとリビングの様子を窺い知ることができない。リビングに戻ろうとも思ったが、リビングに足を向けようとしても、身体の中の何かがぼくを押し留める。これまでのケンカなら、すぐにぼくが戻って謝っていた。そうすることが懸命だと思っていたからだ。

 今はもう――それができない。

 自室に入り、デスクに腰をかける。自分が入ってきたドアを見ていたら、何だかぼくは無償に笑いたくなった。笑いが込み上げてきて、身体が小刻みに震える。震えを堪えることができず、震えが声に変わり、ぼくの口から拡散した。自分の声を聞いて、またそれがおかしくて、壊れかけのステレオのように、一人笑いをリフレインする。

 愉快だ。これは愉快だ。あまりの愉快さに、足を踏み鳴らしてしまう。

 ひと雫が瞼から湧き出る。頬を伝うに従って、自分が涙も流していることに気づく。ぼくは泣いている。笑いながら、泣いている。愉快だ。これも愉快だ。

 ドアをノックするような音が聞こえた気がする。明美か――明美でも、知ったことではない。ぼくは一度、ドアに足蹴りを食らわせた。何も反応がない。それが愉快に思えず、もう一度足蹴りをした。ドアの向こうで、小さい歩幅の足音が、薄く響いた気がする。明美なのか――明美でも、もう、どうでもいい。

 ぼくは笑い続けた。涙を拭きながら、笑い続けた。静かなこの街に、このマンションに、ぼくの狂喜が回転する。

 感情が、ぼくから剥がれ落ちていく。


「おはようございます」

 あれから、いつの間にか、寝てしまったようだ。今朝は起きても、リビングには行かなかった。リビングに明美の気配を感じたが、特に話すことはない。「行ってきます」と言ったところで、無視されるのが落ちだ。

「あ、課長、おはようございます。昨日、大丈夫でした?」

 フロアに入ると、真っ先に佐藤が声をかけてきた。昨日、先に帰ったことを気にしていたのだろう。ぼくは手をヒラヒラさせながら答える。

「大丈夫、大丈夫。ちゃんとまとめて、データで送ったしね」

「お疲れ様でした。手伝えず、すみませんでした」

「昨日も言ったけど、それは気にしなくていいから」

「ありがとうございます……あれ、課長?」

 佐藤がぼくの顔を見つめる。眉根に皺ができている。

「何? 髭の剃り残しでもある?」

「いえ、何だかこう、いつもと目の辺りが違う感じがしたので……」

「そう?」

 今朝も洗面所に立ったはずだが、自分の顔を見ていたかどうか、あまりよく覚えていない。見ていたような気がするし、見ていたとしても意識が飛んでいた可能性もある。

「鏡で見てきた方がいいですよ。黒田部長も、直行みたいですし」

 フロアの時計の下にあるホワイトボードを見る。ここには社員の行動予定表が書かれている。確かに黒田部長の欄は直行と書かれていた。戻りは十時。人に仕事を振った割りには、外出なのかと疲弊する。通勤時、携帯電話で会社のメールをチェックしたが、ぼくが報告したメールに黒田部長からの返信はなかった。

「ちょっとトイレ行ってくるわ」

 トイレに向かう途中、何人かの部下とすれ違った。気持ちよく「おはようございます」と声をかけてくれたが、皆一様にぼくの顔を見ては一瞬顔を曇らせる。ぼくは一体、どんな顔をしているのだろう。

 トイレに行こうかと思ったが、今さら自分の顔を見てもどうにもならない気がして、来た道をそのまま戻る。その代わりに、軽く両手で自分の顔に触れてみた。目が腫れぼったく、いつもより頬もこけているような感覚に包まれる。昨日、笑い泣きした結果が、これなのだろうか。正気を抜かれたような自分の顔を想像して苦笑する。でも決して不安感はなかった。昨日と同じ愉快な感覚が体の血を駆け巡らせる。

「ま、とりあえず仕事だ」

 足早にフロアに戻る。部下は全員揃っている。皆、怪訝そうにぼくの顔を見るが、朝礼を始めないと一日も始まらない。

「朝礼を始めます。おはようございます」

「おはようございます」

 また一日が始まった。今日のスケジュールと行動目標を確認しているとき、部下の木下が手を挙げた。

「課長、今日相談したいことがあるんですけど、時間取れますか?」

 木下は入社三年目の若手だ。ぼくが内地から転勤になったタイミングと時を同じくして、新卒で営業所に配属された。入社年数を重ねる度、その倍のスピードで経験値を増やしていき、営業成績も佐藤に次ぐ位置まで成長した。それが彼女の自信にも繋がり、自己主張を強めるようにもなった。

「午前中なら大丈夫だよ」

「承知しました。では早速ですみませんが、朝礼の後、打ち合わせスペースをおさえてあるので、三十分ほど時間をください」

 木下らしい。用意周到とはまさにこのことだ。彼女のことだから、すでに自分の考えも固まっているのだろう。

「了解。他は大丈夫かな? 何かあれば、また個別に言ってください。では朝礼を終わります」

 自席に座り、打ち合わせスペースに向かう準備をしていると、木下のデスクに嘉山と吉田がいることに気づいた。ふたりとも木下の後輩にあたるメンバーだ。木下の成長を見て、後輩の育成も委ねている。声は聞こえないが、お互いに頷きあった。

「木下、いい?」

 ぼくが声をかけると、嘉山と吉田が頭を下げながら自席に戻った。きっと彼女たちが木下に話を持っていったのだろう。木下であれば、ぼくに意見をぶつけられると知って。

「はい、お願いします」

 打ち合わせスペースは社内ミーティングで活用される。木製の長方形のテーブルに椅子が四脚。ホワイトボードのマーカーはインク切れしていることが多い。ドアを閉めることができるので、個人面談でも役立つスペースだ。

「課長、その、大丈夫ですか?」

「大丈夫って?」

「その、表情が優れないように見えるので」

 顔のことか。誰が見てもこの顔には違和感しかないのだろう。直球で意見を言われると思っていただけに、ぼくのガードにも弛みが出る。

「大丈夫。昨日の夜、携帯電話で夜な夜な映画を見ててさ。それが号泣もので、涙腺崩壊で、この様だよ」

 冗談めかして言ってみた。このくらいがちょうどいいだろうと思う計算も込みだ。

「そうでしたか。それなら、いいんですけど」

 そう冷静に受けとるなよ。何の映画を観てたんですか、とか、少しは話題を広げたらどうなんだ。そこが木下には足りないところだぞ――そんな会話ができたら。できない自分も愉快だ。

「ま、冗談はさておき、相談って何?」

「結論から言うと、細山さんに指導をしてほしいんです」

「細山さんに指導? どういうこと?」

「嘉山と吉田に、いちいち細かく指示をするんです。細山さんは佐藤さんのチームですし、嘉山と吉田の育成は課長から私に指示があったと認識しています」

「うん、その点はそうだね」

「テレアポはこの順番でとか、クリアファイルはこう使えとか、この人とは仲が良いから私が間に入ろうかとか、何でもかんでも自分の価値観を押し付けてくるんです。その会話に付き合うだけでも、嘉山と吉田の生産性は下がります」

 細山はベテラン社員だ。勤続二十年を越えている。ぼくが転勤で赴任した当初も、あれこれ世話を焼いてくれた。自分をぼくの第二の母と言い、営業所の歴史も食事のアドバイスも、何から何まで教えてくれた。ぼくより歳上なので、正直ぼくも扱いには困っている。

「そういうことか」

「課長も経験あるんじゃないですか?」

 人間関係は難しい。仕事の問題の八割は人間関係が起因しているとさえ思う。好きあった彼女でさえ、気持ちを通わせるのが難しいというのに、恋愛感情もない人たちを管理職の立場だけで面倒を見なければならないのは、苦行に等しい。

「つまり木下はさ、細山さんがそういう行動をしないように、それこそぼくから指導してほしいってことを言いたいんだよね?」

「そうです、その通りです」

 なるほど。だから嘉山と吉田が木下の席にいたのか。相談の背景が見えてくる。

「……すげーむかつくな、それ」

「……は?」

「だから、言ったらそれって、おばさんの小言だろ? ちくちく言われたら、腹も立つよな」

「あ、はい、そう、ですけど……」

「なんだよ木下、歯切れ悪いじゃん」

「というか課長、どうしたんですか?」

 木下が目を細めてぼくを見る。ぼくはいま、どんな顔をしているのか、自分ではわからない。でもなぜか、気分は愉快で仕方ない。

「どうしたもこうしたも、俺から言ってやるよ。細山のおばさんを呼んできてくれない?」

「課長、ちょっと落ち着いてください。どうしてそんなに怒ってるんですか? いつもの課長ではないですよ? 口調も変ですし……」

「何言ってんの、木下」

「だって課長、いつもなら感情的にならないし、一度ぼくが預かるからって、話を終わらすじゃないですか」

 そうなのか。いつものぼくは、木下にそう映っていたのか。普段の自分を知れたことが、愉快な音楽となって、ぼくの感情を剥がす。

「マネージャーはすぐに言わなきゃいけないときもあるんだよ。いいから、細山を呼んできてって」

 木下と再び目を交わす。木下は口を真一文字に結びながら、席を立とうとしない。

 何を躊躇している。

 何がお前を留まらせる。

「課長……」

 木下が何かを言いかけたのに被せて、ぼくは怒号を飛ばした。

「何度も言わせるな! 呼べよ!」

 ぼくにもこんな声が出せるのか。木下が肩を震わせた。人を射るようにしかぼくを見ない木下の目も、視点をあわせることを忘れている。テーブルに足をぶつけてよろけながらも、木下は足早に打ち合わせスペースを出ていった。

 開けっぱなしにされたドアを勢いのまま閉めた。昨日と同じように、ぼくの足でドアを蹴ってみた。今日も愉快だ。昨日と違うのは、笑えるスペースがぼくの中に全くないことだ。

「ちょっと、藤崎ちゃん、どうしちゃったの? ご機嫌ななめ?」

 細山が茶化すように言葉を投げた。その態度が、言葉の一文字一文字が、ぼくの流血を加速させる。何がご機嫌ななめだ。ななめどころではない。

「座れよ」

「何? 命令? 怒ってるの?」

「無駄口たたかずに、そこに座れ」

「何よ、藤崎ちゃん。いつもと随分違うじゃない?」

 木下も同じことを言っていた。今日のぼくはいつもと違う。いつものぼくがぼくなのか。ここにいるぼくはぼくではないのか。でもここにいるのは――紛れもなく、藤崎拓巳だ。

「俺は俺だ。いまそれは重要じゃない。問題はあんたが嘉山と吉田に迷惑をかけているってことだ。細かいことでいちいち面倒なことを言いやがって。それは教育なんかじゃない、あんたの勝手な自己満足だ。勤続年数が長いだけで何でも知っている先輩風を吹かすな」

「なによ、細かいことって……」

「例えばクリアファイルの使い方とか、学生じゃないんだから、自由にさせて何の問題がある?」

「それは、私の経験から、アドバイスをしただけで……」

「クリアファイルの相談をされたのか?」

「されてはないけど……」

「相談されたのならまだしも、あんたが勝手にあれこれ口出しするのは、お節介を通り越した嫌がらせだ」

 細山を前に話せば話すだけ、言葉に険を含ませたくなってしまう。剥がれた感情がぼくを突き動かす。

「でもふたりとも、ありがとうございますって、喜んでくれてたわ」

「そう言うしかないだろう? 嘉山も吉田も経験値が少ない新人だし、自己主張をするようなタイプでもない。先輩の求めてもいないかったるいアドバイスに、そう言わざるを得ない環境を作ってしまっているのも、あんた自身だってことに気づけよ」

「内地からこっちに転勤になって、藤崎ちゃんにも色々教えてあげたのに、今になって私にそう言うことを言うのね」

「教えて、あげた?」

「そうよ、右も左もわからない藤崎ちゃんに、私が教えてあげたのよ!」

 自分の非を認めず、反省もせず、言い訳だけを重ねるタイプの人間は、たちも往生際も悪い。余分に経験と歳を重ねると、自分を変えることすら頭の中からその考えを放棄してしまう。同情する余地がない。

「教えてほしいなんてリクエストしてないよ。メンバーからリクエストがあったら応えてやれよ。それ以外は無駄。相手の時間を奪うことを考えろ」

 細山がぼくを睨む。不快であることは明らかだ。木下や細山が言ういつものぼくなら、あたふたして穏便に済ませようと、彼女を宥めたかもしれない。今あるぼくの感情は、それを良しとはしない。

「話は以上。席に戻れ」

 細山は何も言わず、舌打ちだけを残して打ち合わせスペースを出ていった。最後まで品がない。

 誰もいなくなった打ち合わせスペースで、ひとり大きく身体を伸ばす。自席に戻ったら、空気は淀み無音が支配するだろう。それでも構わない。ぼくは自分の感情の正義に従ったまでだ。

「藤崎、お前は何をしでかした?」

 声の主は黒田部長だった。出先から戻ってきたのだろう。酒席で酔うと決まって話す日焼けサロンで焼きすぎたという肌の黒さが、この場にふさわしくないような気持ちが湧き、細山のような舌打ちがこぼれそうになる。

「しでかしたって、失礼な」

「何だその言い方は」

 黒田部長の目が怒気で揺れる。今日は、やけに怒る人たちが多いなと、鼻から呆れた息が漏れた。それに気づいたのか、黒田部長が全身に怒気を纏った。椅子から立ち上がり、黒田部長の横を通る。

「大方、話は聞いた。まずは座るか」

 提案に賛同せず、打ち合わせスペースを出る。速度を持った革靴の音が、ぼくの後を追いかけてくる。ふいに肩を掴まれた。

「待て、藤崎。話がある」

「それはあなたの都合だ」

「大事な話をしたい」

「いつもあなたからくる話は都合がよく、大事で、優先度が高い。神にでもなったつもりか?」

 掴まれた手を振り払い、自席へ戻る。速度を落とさない革靴がぼくをつきまとう。

 ――そうだ、そうなんだ。黒田部長はずっとぼくにつきまとっている。ここにいる限り、離れられない。転勤して三年、ずっとそうだったじゃないか。今もこうして、ぼくを視界の範囲に入れようとする。

 ぼくは、ぼくだ。

 ぼくは、ぼくだ。

 ぼくは、ぼくだ。

 自席で立ち止まり、振り返る。黒田部長がまたぼくの肩に手をかけようとした刹那、身体を半回転させて右足を出した。スピードを上げていた黒田部長の革靴がぼくの右足に引っ掛かる。前のめりになった黒田部長を見下ろし、尻を蹴飛ばす。体勢を立て直そうと、近くの机に手を伸ばしかけた黒田部長を追いかけ、今度は背中に蹴りを入れた。バランスを失った黒田部長が机の角に顔面から突っ込んだ。鈍い音と呻き声が交錯する。

 ぼくの目の前で上長が――黒田部長が倒れている。

 右目の辺りを押さえている両手から、鮮血が溢れ出す。

「……藤崎、一旦、落ち着け……」

「落ち着いていますよ。あなたは倒れている。血を流しながらね」

「……そうか、冷静か……」

 黒田部長が笑いながら左目でぼくを突く。左の上唇が微かに動き、ぼくの感情を波動させる。この期に及んでも、己の立場を鼓舞したいのか。

「昨日あなたは、ぼくに仕事を振った。すでに報告済みの案件を、再度書面にしろという手間をかけさせ、おまけにあなた自身は仕事を振るだけ振って帰った。悪びれた様子もない。ぼくは仕事をして、指示通りの報告メールをしたのに、返信すらしない。感謝の言葉もない。戻ってくるなり、ぼくが何かしでかしたかって、冗談はその肌の黒さぐらいにしておけ。ぼくはあなたにできないことをしただけだ」

 黒田部長に言葉を浴びせるにつれて、ぼくの感情の皮がまた一枚剥がれ落ちる。どうしてこんな男に、ぼくは振り回されないといけないのだ。怒りが震え始め、悲しみの色に染まった。

「昨日のことか。そんなことぐらいで……」

 ぼくの両目から、何粒もの雫が溢れ出す。

 雫が通った後の冷たさに、身体が小刻みに揺れた。

 ――そんなことぐらいで。

 ぼくは三年も、そんなことぐらいしか、していなかったのか。

 そう、思われていたのか。

 黒田部長がぼくを見ながら立ち上がろうとする。ぼくはデスクのノートパソコンを右手に持ち、黒田部長の動作を見守った。

「課長! 何をする気ですか――!」

 視界に佐藤が波を打つ。木下は、嘉山は、吉田は、細山は――フロアにいるスタッフは、いまどんな顔でぼくを見ているのだろう。ぼくはいま、どんな顔をしているのだろう。

 ノートパソコンで黒田部長の頭を叩く。視界の水圧が高くなり、的確に狙えているのかはよくわからない。ぼくは振り子のように、ただただノートパソコンを振り下ろした。

「もう止めてください――!」

 誰かがぼくを後ろから羽交い締めにした。身体が思うように動かない。ノートパソコンを投げ捨て、目を閉じる。暗闇の中で、色々な声が聞こえる。きっと、ぼくがしでかしたことの処理をしているのだろう。

 全身の力が抜けた。

 ――みんな、ごめん。

 

「六五二番、藤崎拓巳、面会だ」

 声がする方に目を向けると、刑務官がぼくを凝視していた。未だに称呼番号とぼく自身が紐づかない。躊躇い、反応が遅れてしまうと、刑務官に怒鳴られる。

「六五二番、藤崎拓巳、面会と言っているのが聞こえないのか!」

 また怒鳴られてしまった。これで何度目だろう。知っていても意味がないことに、思考が出掛けてしまう。

 刑務官に連れられ、面会室に向かう。ぼくに面会をしてくれる人がいるのか。塀の向こうの人との接点があまりにも少ないから、その事実だけで驚きを隠すことができない。

 面会室に入ると、パイプ椅子への着席を命ぜられた。アクリル板を挟んだ先に、俯いたまま顔を上げない人がいる。肩まである黒髪が顔にかかり、誰なのか判別できない。

 ぼくから声をかけていいのかもわからず、目の前の人と同じように、ぼくも俯く。お互いの呼吸音だけが、規則的に耳を通過する。

「……拓巳」

 名前が呼ばれた。反射的に顔を上げると、目の前の人もぼくを見ていた。前髪が長すぎて、目を捉えることができない。

「拓巳……拓巳……」

 その人が目にかかった髪を耳にかきあげた刹那、ぼくを真っ直ぐ捉えて離さない目が、目の前の人を明美だと認識させた。明美だと認識しても、言葉が出てこない。何のために話すのか、理由が見つからない。

「……何してんのよ。不気味に笑い続けて、勝手に家を壊して、気づいたらもういなくて。次に会うのがここだなんて、思いもしなかったわよ……」

 目に涙が浮かんでいるのに、声に寂しさを感じない。どんな心持ちで、ぼくは明美の話を聞けばいいのだろう。いつも自分勝手に、好き勝手に、ぼくを惑わせていた人だ。

「あれから私がどんな目にあったかわかる? 仕事から家に帰ったら、突然カメラやライトを向けられて、意味がわからない言葉を浴びせられて。未だに素性もわからない誰かにつけ回されて、人殺しって言われて。私のせいじゃないのに。全部、拓巳のせいなのに――!」

 どうしてぼくのまわりの人たちは、自分に非があることを認めないのだろう。申し訳ない、ごめんなさいと、言えないのだろう。全部をぼくのせいにしてくる。ぼくのしたことが、全ての根源なのか。

「それでも……それでも……あなたを、拓巳を、失いたくない私がいるのよ……何なのよ、これ……説明してよ!」

 明美が語尾と一緒にしゃくりあげた。地面に真っ直ぐ伸びる髪が乱れながら不揃いに流れる。ぼくは明美を見ながら、彼女は何を言っているのだろうと考えた。怒ったり、泣いたり、ぼくを求めたり。人は、どんな状況でも、独りよがりから抜け出すことができないものなのか。

 ――そうだとしたら。

 もう、動くことがないと思っていたぼくの感情が、ミリ単位のスピードでゆっくりゆっくりと剥がれていく。痛みも、悲しみも、愛しさも、安らぎも、何もかもが倒壊していく。どんなに関係があっても、どんなにわかりあったとしても、最後はぼく一人しか残らない。

 顔を上げない明美を視界から消す。

 アクリル板に反射して映る顔に、ぼく自身が戦慄した。

 ぼくの知らないぼくが、そこにいる。

 

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