ギター
夜、沙弥香も拓海の夕食を用意して帰った後、拓海は壁際に置かれたギターケースを引き寄せた。
うっすらと埃を被ったそれは、もう何ヶ月も向き合うことを放棄した現実だった。
前のようにこれを弾くことなどできない。
それが拓海の下した結論だったが、答えは日々変化した。
盲目の音楽家と言われる人もいるじゃないか、そう自分に言い聞かせて向き合おうとした時もあった。
しかし、自分がどれほどのものなんだと、自分に前以上に音楽を奏でることができるのかと絶望が語りかけ、手に掛けたギターを手放させる。
無理からにケースからギターを引き出した。
流麗なホルムが拓海の手にずしりと乗る。
こんなに重かったのかと今更気付くが、それが何になるのだろう。
拓海は滑らかなボディをそっと撫でてみた。
弦に触れなくても聞こえるあの日々のメロディ。
「もう、終わりにしてくれよ。俺はもうこいつを弾けないんだ。弾く資格がない……」
ぐっと唇を噛み、拓海は頭を垂れた。
しんっと静まり返った暗い室内にたった一人。
頭の中に響く、慣れ親しんだ音。
瞼に浮かぶメンバー達の顔。
「俺だって忘れたくないんだ。本当は、ずっとお前達とバンドやっていきたいんだよ。まだ一緒に馬鹿やってたいんだ!」
爆発した感情をそのままに、部屋に響く絶叫を上げると拓海はギターに手を掛けた。
思いのままに弦を弾き、ギターをかき鳴らす。
チューニングも出来ていない、うまくネックをつかめない。
拓海の感情をそのまま表したかのような不協和音が時に悲しく、時に激しく部屋を駆け回る。
拓海の無性にギターを弾き続けた。
直接弾いている所為で指先が痛い。
血が滲んでくる。
それでも拓海の感情は止まらない。
全力で弾き続ける。
今まで弾けなかった分を取り戻すように、狂ったように弾き続ける。
どれだけの時間が経ったか。
血に濡れた拓海の手から零れるようにギターが滑り落ちた。
ゴトンッー。
重い音がいやに大きく拓海の耳に届いた。
フローリングに余韻が響く。
暗闇が一気に沈黙する。
痙攣するように震える指先はもう限界で、ギターを拾うこともできない。
自分の手から落ちていったのは果たしてギターだったのだろうか。
「うわぁぁぁ~!!」
拓海は血の滲んだ手で床を叩いた。
やっと一縷の光を感じた瞳に千の雨が降る。
その雨を打ち消すように拓海は床に落ちたギターを掴むと壁に向かって投げ付けた。
―捨てきれない。だからいっそ壊れて消えてくれ!
壁にぶつかったギターが弾かれ、激しい音をたて床に落ちる。
衝撃で弦が切れた。
無様な姿になったそれを拓海は拾うことが出来なかった。
いや、拾いたかった。
手に取ればきっと抱きしめて、それにすがり付いてしまう。
相反する感情が拓海を追い込む。
「もう嫌なんだよ!」
拓海は部屋を飛び出た。
暗闇を突き破るように走り出す。
感情のままに叫ぶその声は何よりも悲痛で、壊れたギターが残された暗い部屋に僅かに響いた。
身についたマンションから公園までの道のり。
無意識でも体はいつものベンチに拓海を導く。
夜気に冷やされた冷たい風に混じってぽつりと雫が拓海の頬を叩く。
あんなに陽気だった昼下がりからは想像もできない。
いつの間にか曇りだした空から、後から後からぽつりぽつりと雨が続く。
「何で、何で……」
絶望した人の多くがそうする様に、先を失った拓海はその場に膝を折った。
湿気を含んだ砂の上に手をつく。
その背に無情な雨がその雨足を強く降りかかる。
暗い瞼の裏に雨が降る。
けして止まない、あの日の雨。
消してしまいたいのに、瞳から零れることも脳裏から消えることもしない。
あの日からずっと立ち尽くしたまま。
冬の冷気に包まれ、拓海はあの事故の現場から離れられない。
一滴一滴の雨が徐々にその数を増やし拓海に降り注ぐ。
それは絶望に似た雨。
「もう二度と…俺は……」
零れる嗚咽は雨の音にかき消された。
薄手のシャツに雨が沁みこんで、拓海の体を冷やす。
それでも立つことすらできず、拓海は絶望の淵で震えていた。
じゃり――。
濡れた砂を踏む音にも拓海は気付かなかった。
ただ、降り続ける雨が不意に止んだ。