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さっちゃん。

作者: さい





【さっちゃん。】










「お願いです。今夜は帰らないで下さい」









さっき杏が帰宅途中に拾った酔っ払いの若い男に肩をかして部屋まで送り届けてやったら、今夜は帰らないで下さいと土下座をされた。


五月荘と壁に書かれた小さなアパート。古くて幽霊でも出そうな感じの外観だ。地下には死体でも埋まっているのかもしれない。




帰宅途中に公園で隠れるように蒼白い顔で泣いている若い男を見つけた杏が大丈夫かと声を掛けたらさらに激しく泣いてしまう。顔がグチャグチャだ。



お酒を飲んでいるのかもしれない。どうやらこの男は泣き上戸らしい。




正義感の強い杏は泣いている若い男を放ってはおけず、声も出ないほど泣く男からようやく住所を聞き出し部屋まで送ってきたのだ。お酒の匂いはあまりしないが若い男は大泣きしていた。どうやらかなり酒に弱いらしい。


「なんだお前仮病だったのか。勘違いさせて悪かった。ちなみに申し訳ないが、私は今日は生理中だ。気が乗らない女性の断りの常套句ではなくマジな生理だ。疑うのならパンツを脱いで説明しようか。そもそも私は若い男と行きずりのセックスをする予定はないし、お前のシーツを血の海にしたくない」



土下座している男を、助ける必要なかったなと見下ろすのは遠野杏。アンちゃんだ。



「ち、ちがいます!脱がなくて良いです!脱ごうとしないで下さい!いや、ちょっと見たいけど本当にそういう意味じゃなくて!!とりあえずパンツから手を離して下さい!!」


夜遅くに若い男の部屋に上がっておきながら「今日私生理なの」なんて理由は説得力に欠けるだろうと思い、パンツを脱いで証拠を示し説明しようとする杏を若い男が泣きながら必死で止める。






どうやら。この男はセックスがしたいわけではないらしい。





今夜は帰らないでと土下座されたものだから、普通に部屋まで入ってきた女とやれると勘違いされたのかと思った。


若い男はまだ泣いている。杏は単純に困ってる人を放っておけない性格だった。根っからの長女なのかもしれない。杏には弟と妹がいた。


さらに杏は犬に吠えられて泣いていた近所のさっちゃんを救った事だってあった。人を助けるのは難しい。だから今回のようなトラブルもなくはないが、可愛いさっちゃんにありがとうと言われた時に、人助けも悪くないなと思ったのだ。




その色白の可愛い女の子はいつの間にかどこかへ消えてしまった。今頃はどこかでキレイな女性になっているだろうか。





もしその女性が今もどこかで生きているならば。





「違うのか。じゃあなんで帰らないでなんて土下座しているんだ」


「すみません。実は俺、怖いんです…」


怖いんです。若い男が何かに怯えた様子で、助けを求めるように杏を見上げた。杏は困ってる人を放っておけない。まるでこの若い男はそれがわかっているみたいだ。





「お前。何が怖いんだ?」





あ!ゴキブリ!




杏は反射神経が良かった。




杏は秒速で近くにあった雑誌を丸めて凶器にして物理的にゴキブリを叩きのめし、ポストに入っていたチラシをテキトーに使って、その辺に落ちていたコンビニのビニール袋にゴキブリの死骸を入れてしっかり結んでから指定のゴミ袋に入れた。外から見えないように周りをチラシで包むようにした。殺害現場も杏の鞄に入っていた消毒滅菌ウェットシートでキレイに拭き取った。




しかも丁寧な二度拭きだった。




ゴキブリの殺害容疑で鑑識が来ても、杏の犯行だと示す決定な証拠は出ない完璧な処理だった。


杏はゴキブリを「奴」とか「G」などと甘やかすような事はしない。正々堂々とゴキブリと呼び、正々堂々と物理的に仕留める。これが杏だった。






「ごめんごめん、話の途中だったな。それでなにが怖いって?」





ゴキブリが怖いんですなんて、若い男はもうそんなことは口が裂けても絶対に言えなかった。




その時だった。





もう子供はとっくに寝ているような遅い時間だというのに隣の部屋から大きな音が聞こえ始めた。テレビだろうか。すごい大音量だ。




若い男が怖いのはゴキブリだけではなかったのだ。




「……実は、このアパートは元々は亡くなった母が所有していたもので、今は俺が代わりに大家なんですけど。隣の部屋に住んでる人が、毎日ひどく騒いで困っているんです。どうにかして欲しいと他の住民の皆さんからも相談されているんですが、とても怖い人で…」


「なるほど。それはみんなが困るな。わかった」


若い男が呼び止める暇もなく、杏が部屋を出ていく。杏は決断力も行動力もあった。インターフォンを押すようなチマい事はせずに、隣の部屋のドアをグーでガンガン叩く。それはもう真夜中の借金取りレベルの訪問だった。



若い男もちょっと怯えた顔で杏の後ろについてきた。



「うるさいなぁ!!っんだよ?!」


わかりやすい金髪の、わかりやすい派手なダサいシャツの男が出てきた。誰がどこから見てもわかりやすいチンピラだった。


「おいチンピラ。うるさいのはお前だろ。正座しろ正座ぁっ!!」


「ひっ!」


ピシャリと叱られたチンピラが、悲鳴をあげて思わず正座する。こういう派手なシャツを着れば大概のおとなしい人達は怖がって言うことを聞くと勘違いして威張るような小物は、一回きちんと叱って誰がボスなのかを分からせてやる必要がある。


「お前名前は?」


「佐々木っス!」


すっかり小さくなったチンピラだった。犬のようだ。杏は犬のしつけは得意だった。杏は昔さっちゃんに吠えかかって泣かせた犬さえもしつけた事があるのだ。


「おいチンピラ」


「呼ばないならなんで名前聞いたんスか?」


杏は派手なダサシャツを着た奴のことはチンピラと呼ぶことに決めている。例外はない。これが杏だった。


「ここはお前の部屋であり、お前の部屋ではない。賃貸契約を甘くみるな。そして集合住宅には周りに気を使って生活するという地域に根付いた素敵な暗黙のルールがある。今後あまり周りに迷惑を掛けるな。お前はありふれた名前のくせに災害時に孤立したいのか」


「したくないっス!」


災害時のご近所の助け合い程ありがたいことはなかった。


「よし」




秒殺だった。すっかりチンピラは杏をボスだと認識したようだ。




「そしてお前の部屋は汚すぎる。今すぐ片付けろ。もちろん静かに、だ。近所に赤子が寝ている可能性すらある。細心の注意を払え。部屋を痛めないように生活しないと現状復帰が難しくなり敷金が返ってこない可能性だってある。お前は敷金減額されたいのか」


「されたくないっス!」




チンピラは庶民だった。敷金の減額ほど困ることはなかった。




物音を出来るだけ立てないようにチンピラが一生懸命部屋を片付ける。ビール缶は洗ってからちゃんと分別しろ、ゴミは指定されたゴミ袋に入れろ、不要なエロ本も雑誌類としてまとめてしっかり縛っておけ、トイレはこまめに掃除しろ、サボテンは玄関に置けと、杏が的確に指示を出すと、あっという間に部屋は片付いた。




最速で頼まれたこと以上の結果を出す。これが杏だった。




「よし。ゴミはきちんと決められた曜日に出せ、出す前にもう一回確認するのを絶対に怠るな。時間もしっかり決められた時間に、だ。ほんの少しの油断でゴミ袋カラスにつつかれたいのか」


「つつかれたくないっス!」


ゴミ袋の中身が散乱したらご近所に迷惑を掛け、プライバシーもダダ漏れになってしまう。近頃便秘気味のチンピラが毎朝ヨーグルトを欠かさず食べている事がご近所中に知られる可能性すらあった。


チンピラは、ボスの指示には素直に従う奴だった。きっと今まで周りにちょっとヤンチャな友達が多かっただけだ。玄関に置いたサボテンは悪い人間関係を絶ち切ってくれる効果がある。杏は風水にも詳しかった。


「あと、もっと地味なシャツを着ろ。派手なシャツは小さな子供たちがおびえる可能性が極めて高く危険だ。もし差し支えなければ金髪も黒く染め直せ。お前は正社員になりたくないのか」


「なりたいっス!」


「よし。良い子だ」


「はい!ありがとうございました!」




近所で赤子が寝ているかもしれないと気遣って、佐々木(地味なシャツに着替えました)は小さめの声でしっかり返事をした。


杏は良い子をきちんと褒めることも忘れないのだ。チンピラは見違えるように佐々木になっていた。


語尾に「っス」をつけるのはやめろよ、杏は最後にそう言って佐々木の部屋を後にして若い男の部屋に戻ってきた。


佐々木はこれからはご近所付き合いも気遣いもしっかり出来る、給与の安定した正社員になるだろう。




すっかり存在を忘れていた若い男も、杏にしずしずとついてきた。











「本当にありがとうございました」


「気にするな。ご近所付き合いはお互いさまだ。じゃあ私は帰るぞ。あんまり飲みすぎるなよ」



「ま、待って下さい!ついでに甘えてあれもこれもと申し訳ないんですが、実はあとひとつ、一番、怖いものがありまして…」





佐々木のせいで時刻はすでに丑三つ時だ。





「実はこの部屋、丑三つ時になると白い女の幽霊が出るんです。壁一面に血が浮かんできて、朝になるとそれが嘘みたいにきれいさっぱり消えるんです」


「それは一番大変だな。お前なんでそれを一番最初に言わないんだよ?」



ゴキブリのせいだった。そして、丑三つ時まで長引いたのは佐々木のせいだった。




いつの間にか部屋の中に、着物を着た白い女の幽霊が立っていた。全身が透けた姿は間違いなく幽霊だった。


風もないのにカタリと音を立てたのは杏がこの部屋に入ってきた時には気付かなかった小さな仏壇。




あ!仏壇。




部屋に上がって一番始めにご挨拶するべきだった。失礼な事をした。杏は常識的な人間だった。



ちーん。きちんと座って仏壇に手を合わせる。夜分遅くまでお邪魔しています、と。



小さな仏壇の奥に置かれた遺影には色白で透明感のある美しい女性が映っていた。おそらく若い男のお母さんなんだろう、とてもよく似ている。


息子思う気持ちが伝わってくるようなとても優しい笑顔だ。


そしてその顔はなんだかすごく最近どこかで見た顔だ。



そういえば。透明感といえば目の前に透けているのが立っている。



「あ!女幽霊さんもしかして、こいつのお母さんですか?」



杏は女幽霊に聞いた。



「えっ?母さん!?」




若い男は驚いて、今までは怖くて一度も直視出来なかった女幽霊の顔を見た。






すると女幽霊が「やっと気付いたわ」みたいな透明感溢れる優しい顔で笑った。







血が壁一面に浮かぶんです。若い男はそう言っていた。



どうやら言葉を話す事が出来ない母幽霊は、息子が心配でチョクチョク顔を出しては、置き手紙風に壁に血で文字を浮かび上がらせていたらしい。「おかえり」とか「ちゃんとお布団で寝ないと風邪をひくわよ」とか。



怖がりの息子には伝わらなかったが。




「おかえり」ならシンプルで比較的面積も狭いが「ちゃんとお布団で寝ないと風邪をひくわよ」になるともう血の海だった。特に「風邪」の漢字はよく滲み、ひらがなで書けばよかったと反省したそうだ。





ゆうしんが しんぱいで きちゃった





どっっろぉぉっとした血文字が壁に浮かび上がる。反省を生かしたひらがなの文章はとても読みやすかった。これは便利だ。だって幽霊の血文字はこすらなくても朝になればきれいさっぱり消えるらしい。


明るくて良いお母さんだ。どこからどう見ても地獄のように禍々しい血文字なのにその優しい人柄が伝わってくる。


死んでいても反省はしっかり生かす。きっと頭も良いのだろう。


「ゆうしんって、お前の名前か?」


「はい。勇ましい心と書いて勇心です」


「全然勇ましくないなお前」


「うぅ……」




ぐうの音も出ないTHE名前負け。コンプレックスのようだ。泣き虫で怖がりの勇心。お母さんが心配するのも分かる。





あんちゃん ひさしぶり





どっっろぉぉっとした血文字でお母さんが話しかけてきた。




幸いにもこいつのシーツは血の海にならなかったが、白い壁は血の海になっていく。急いで読まないと垂れてきてどんどん文字が潰れてしまう。血だから壁に付いたら垂れてくるのは当たり前だった。



おそらく勇心は女幽霊が怖くてすぐに壁を直視出来ずに、垂れて地獄絵図になった壁を見たのだろう。どんなにほっこりする内容が浮かんでも垂れたら読めない。血の筆談は時間との勝負だったのだ。そして今この部屋は、他のどこの殺人現場よりも殺人現場の様相を呈している。壁のほとんどの面積は血に染まり、もう空いているのは天井くらいだ。天井にまで文字が浮かんだらいよいよ地獄感が極まりそうだ。




「ひさしぶり?お前たち、私と前に会ったことあるのか?」



「はい。俺のこと覚えていませんか?犬に吠えられて泣いていたのを助けてもらった…」





いつの間にか。どこかに消えてしまった。犬に吠えられて泣いていた色白の可愛い女の子。






「…お前、さっちゃんか!」





犬に吠えられて泣いていたさっちゃんと、散々泣いていた若い男の顔が重なる。泣いてぐちゃぐちゃだった時には分からなかったが、よくよく見れば確かにさっちゃんの可愛い顔の面影が勇心にはあった。



たしかこのアパートの名前は五月荘だった。



「はい。五月勇心です。お久し振りです」



五月だから、さっちゃん。杏は色白で可愛い顔のさっちゃんを女の子だと思っていたが、あれは幼い頃の勇心だったのか。




「はい。杏お姉ちゃんは俺のヒーローでした。さっき怖くて部屋から公園に逃げていた時に杏さんが大丈夫かって現れて驚いたんです。ずっと会いたかったです」



ちなみに幽霊出現は丑三つ時限定イベントだ。あの時本当はゴキブリが怖くて逃げていたという事を、勇心は口が裂けても絶対に言えなかった。



ずっと会いたかった。だから公園で杏が声を掛けた時に勇心は杏の顔を見て泣き出したのだ。顔を見て杏に気付いた勇心は、ずっと待ち望んだ再会に嬉しくて泣いたのだ。確かに勇心に肩をかした時に全然お酒の匂いはしなかった。




「お願いです。あなたに会いたくてずっと探していました。俺と付き合って下さい!」




そう言って勇心が必死に土下座をする。




可愛いさっちゃんを助けた時に「ありがとう」と言われ、人助けも悪くないなと思った。杏はあの瞬間に、これからも人にきちんと優しく出来る、強い人間になろうと決めたのだ。






「それも悪くないな」





必死に土下座する泣き虫で怖がりの勇心を見下ろしながら、杏はそう言った。その言葉を聞いてまた勇心がボロボロ泣いている。お母さん似の可愛い顔が台無しだけど、きっと勇心は嬉しくて泣いているのだ。



杏と一緒にいれば、もう怖いものは何一つないと勇心は思った。泣き虫で怖がりのさっちゃんを助けてくれたあの日からずっと、杏は勇心のヒーローなのだから。









母幽霊は、いつの間にか静かに消えていた。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 私はGは名前を呼ぶのも嫌でG呼びですが 杏ちゃんみたいに勇ましくやっつけられないので憧れます。 [一言] こちらも未読でした… でもカッコいい杏ちゃんと、可愛いさっちゃんのお話いいですね。…
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