二十五歳
二十五歳になったばかりの頃、私は当時勤めていた職場の上司に恋をしていた。
年齢は私よりも十歳ほど上で、仕事のできる優秀な方だった。対照的に、私は物覚えが悪い上に、なかなか仕事を片付けられない、できの悪い後輩だった。面倒見が良く、心根の優しい私の上司は、いつも親身になって私や他の同僚に対して接してくれていた。だから、私の他にも彼に対して秘かに恋心を抱いていた女性は、少なからずいたと思う。
彼は結婚していて、奥さんとの間に二人の子供をもうけていた。愛妻家で、よく仕事の休憩時には自分の家族のことを口にしていた。私は、彼の奥さんが羨ましくて仕方がなかった。かと言って、彼と不倫をするほどの勇気は私には持ち合わせていなかったし、私自身、彼から特別好意を寄せられているとも思えなかった。要するに、職場の上司と部下の関係が続いていただけである。
私は、時折、彼が携帯の画面越しに見せてくれる家族写真を、文字通り、指をくわえて眺めていたことを覚えている。
その年の夏の終わり、仕事の重なりで私は連日、夜遅くまで職場に残っていた。その日も晩飯をはさみながら、なんとか仕事を終わらせようと奮闘していた。職場には、私の他には彼しかいなかった。彼は、部下が仕事を終わらない内は、自分も決して帰ろうとはしなかったし、部下に仕事を一方的に押し付けて自分は楽をするというタイプの人間でもなかった。その時も、道理的に見て、本来は私一人で片付けなければならない仕事だったにもかかわらず、彼は私に寄り添ってくれ、一緒に仕事に取り組んでくれていた。
ようやく、一応の目処が立ったが、時計の針は既に夜の十時を回っていた。
休憩をしよう、と彼は言った。
そこで、私は、マグカップを二つ用意し、熱いコーヒーをそれぞれに淹れ、その一つを彼に手渡した。
私は、彼に謝った。自分の仕事が遅いがために、彼と彼の家族に迷惑をかけてしまって申し訳ない、と。
彼は、とんでもない、と言わんばかりに首を横に振った。
「君が遅くまで仕事をしなければならないのは、君の上司である僕の責任だ。謝りたいのは僕の方だよ。それに、家内も『亭主元気で留守が良い』と思ってるかもしれないしね。」
彼は、最後の所を冗談混じりに言うと、コーヒーを一口飲み、ふっ、と一息ついた。穏やかで温かな表情をしていた。彼のその表情が私に仕事の疲れを忘れさせてくれた。私もすっかり気を緩めていた。それで、話の流れから、普段、日中の職場では聞くことのできないような、家族に関するよりプライベートな質問を投げかけてみた。
「奥さんとは、学生時代からのお付き合いだったのですか。」
「いや、お見合いで知り合ったんだ。」
私は、彼の意外な答えに驚いた。彼は、明らかに女性から好かれるタイプの男だったからだ。お見合いなどしなくても、ひっきりなしに女性の方から寄ってくるに違いないのに。
私は、好奇心から失礼を承知でもう少し踏み込んでみた。
「私には、学生の頃からずっと女性には困らなかったイメージがありますよ。」
彼は、苦笑して「ありがとう。」と答えたが、特に言葉は続けず、口を閉じた。視線は、机の上のコーヒーに注がれている。心なしか、その表情には少し憂いが帯びているように感じられた。
私は、彼と彼の奥さんに対して失礼なことを言ってしまったと、すぐに反省した。彼に謝ろうと思って、急いで頭の中から適切な言葉を探していた時だった。彼は視線を私の方に向け、口を開いた。
「家内と出会う前、別の女性と付き合っていて、その子と結婚しようと考えていたけど」
彼の話すスピードは、普段のそれより落ち着いていた。
「でも、うまくいかなかったんだ。苦い思い出だよ。その子と別れてから、恋愛結婚はもうしないと決めたんだ。」
彼は、コーヒーをもう一度、口にした。味を濃くしたつもりはなかったが、彼には苦そうに感じられた。
「実際、話すのも恥ずかしいけれど、少しだけ聞いてくれるかな。」
彼はそう言うと、残りのコーヒーを一気に飲み干し、渋い表情で静かに昔語りを始めた。
大学生になったばかりの頃、アルバイト先のカフェで僕はその子と知り合った。
「吉村」という苗字の子だった。
初めて彼女を見た時から、僕は彼女に夢中になった。文字通り「一目惚れ」だった。彼女は驚くほどの美人で、その人形のような容姿から時折見せてくれる笑顔は、まるで宝石のように美しくて綺麗だった。
ただ顔が綺麗なだけでなく、佇まいや立居振舞も落ち着いていて、周りに清楚な印象を与える子だったから、僕も、周りの男の子も、なかなか彼女にデートの申し込みをすることができなかった。
「高嶺の花」には、妙に声を掛けづらくなる、まさにあの心理だった。
そういうわけで、しばらくは、僕はただ遠くから彼女を眺めているだけだった。
彼女との距離が縮まったきっかけは、アルバイト先のカフェからそれほど離れていない、小さな本屋に立ち寄った時だった。
当時連載していた漫画の新刊が出たばかりで、僕はそれを購入する目的で店の扉を開いた。ふと、僕の視界に彼女の姿が映った。彼女は、漫画本の置かれている棚のすぐ隣の棚で、雑誌の立ち読みをしていた。雑誌にひどく熱中していたのだろう。彼女は、僕の姿が近づいてくるのに全く気がつかなかった。僕は好奇心から、彼女が何の雑誌に夢中になっているのか、少し離れたところから、その雑誌に目を向けてみた。
鉄道の雑誌だった。
それが当時の僕には、とても意外に感じられた。
まず、彼女の見た目の印象から、鉄道が好きな子だとはとても想像できなかった。次に、どちらかと言えば、この手の趣味は、女性よりも男性が持っているものという先入観が僕にはあったからだ。
僕は勇気を振り絞って、彼女に近付き、彼女の名前を呼んだ。
彼女は、誰の目にも分かるほど、ビクリと体を震わせ驚くと、急いで声のする方を振り返った。そして、声の主が私だと分かると、急いで雑誌を私の視界から隠した。顔は真っ赤に紅潮した。
「吉村さんは、鉄道が好きなの?」
彼女は、僕の質問にはすぐには答えず、しばらくの間、目をキョロキョロと泳がせていた。が、その場を誤魔化すことや、自分の趣味を隠し通すことができないと悟ると、静かな声で私に言った。
「…お願いだから、誰にも言わないでね。」
「言わないよ。それに別に恥ずかしがらなくてもいいじゃないか。」
彼女は、僕との会話にすごく苦しんでいるような感じだった。僕は、彼女に対して申し訳ないことをしてしまったと思った。ただ、このまま謝ってすぐにその場を立ち去ることも不自然な気がした。それで、僕はもう一度、勇気を振り絞って彼女にこう提案した。
「鉄道に乗るのが好きなの?それなら、今度、僕と一緒に鉄道デートでもしようよ。」
言った直後に、彼女に断られたらどうしようと、恥ずかしい気持ちで一杯になった。彼女に負けないくらい、恥ずかしさで顔が真っ赤になっていくのを自分で感じていた。
彼女は、僕の提案に一瞬、迷惑そうな表情を見せていたが、やがて僕の顔がたちまち紅潮していく様子を目にすると、急にプッと吹き出して、あの宝石のような笑顔を見せてくれた。どうやら、彼女は僕に気を許してくれたようだ。
「良いよ。じゃあ今度の土曜に一緒に鉄道デートしようね。」
彼女のその時の言葉や明るい表情が、今でも忘れられない。その時はまだ彼女と付き合ってもいなかったけれど、憧れの女性とデートができる、それだけで僕は幸せの絶頂にあった。
まもなく、僕の幸せな日々が始まった。
初めてのデートは成功に終わって、それからは、お互いが毎日のように連絡を取り合い、週末になると、必ず二人だけで時間を過ごした。待ち合わせ場所は、決まって駅だった。
不思議なもので、彼女の趣味は、たちまち二人の趣味へと変わっていった。列車の名前、時刻表、列車の窓から見える四季折々の景色...様々な知識や風景、印象、思い出が、僕の中で乾いたスポンジに水が染み込むように吸収されていった。
普段は大人しくて口下手だった彼女が、二人だけの時間、とりわけ列車の中にいる時は、いつもパァっと目を輝かせて嬉々とした表情で熱心に僕に話しかけてくれた。彼女のその可愛らしい姿を自分だけが独り占めできていたという事実が、僕には嬉しくて誇らしかった。
「前を向いて一生懸命に走っているところが格好いいの。」
これまでに鉄道の魅力を僕に語って聞かせてくれた彼女の言葉の中で、一番シンプルで僕の中で印象に残っているものだった。そこには、彼女が自分にはない魅力、自分の憧れの姿を鉄道に重ね合わせているように僕には感じられた。
彼女と交際を始めてから間もなく、僕は彼女が日本人でないことを知った。「吉村リナ」という名前は、いわゆる通称名であって、彼女の本当の名前ではなかった。
「両親は日本人じゃなくて、韓国人なの。」
デートの際に訪れた中華料理店で、彼女は私に話してくれた。
「だから、私は日本人じゃないの。生まれも育ちも、ずっと日本だけどね。」
後ろめたいような雰囲気ではあったが、彼女は自ら進んで、自分のルーツを正直に話してくれた。隠し事をしたくないという、彼女の正直な性格が表れていた。
「それに、私には父親がいないの。物心ついた時からいなかった。だから、私はお父さんに会ったこともないし、顔も分からないの。お母さんは私を産んですぐにお父さんと喧嘩別れしちゃったんだけど、その時にお父さんの写った写真は全部捨ててしまったの。」
沈んだ声で彼女はそう語った。表情もいつになく曇っていて哀しそうに見えた。
僕は、彼女のことを不憫に思ったし、彼女が自分の国籍や家族のことで後ろめたく思っているなんて、ばからしく思えた。
「そんなこと全然気にすることないよ。僕はリナがどこの国の子であっても、リナのことが大好きだよ。」
それは、当時の僕の嘘偽りない、正直な気持ちだった。僕は純粋な子どもだった。それだけに、彼女がなぜ哀しそうに自分の生い立ちを語ったのか、当時の僕には理解できるはずもなかった。
彼女は私の言葉を聞くと優しく微笑み、
「ありがとう。」
と一言だけ言った。そして、取り皿に鶏の唐揚げと野菜炒めを取り分け、それらを綺麗に盛り付けると、そっと僕に差し出してくれた。彼女はその場では、これ以上、何も話そうとはしなかった。
僕と彼女の交際は大学を卒業した後も続いた。就職先は、二人とも都内の企業だった。
週末になると相変わらず、二人で電車に乗っていろいろな場所を訪れた。出会ってからかなりの月日が経過しようとしていたが、お互いの愛情は薄れるばかりか、ますます深まっていたと思う。
二十五歳を迎えたばかりの頃、僕は彼女に結婚を申し込もうとしていた。
そして、学生の頃から、事あるごとに彼女との交際に反対していた両親にそのことを告げると、ここぞとばかりに、両親からは猛烈な大反対をくらった。
絶対にダメだ。許さない。結婚は家と家との繋がりだ、お前は日本人の「普通の」家庭の子と結婚しなければならない。どうしても結婚したければ、お前とは親子の縁を切る、と。
僕には、両親が差別的で古い考えを持った、時代遅れの人間にしか見えなかった。
それに、僕の人生は僕が決めることであって、両親が決めることではない。
親子の縁を切られても結構、僕には彼女がいる。彼女と二人で協力して頑張っていければそれでいい。僕の決意は固かった。
11月の半ば、僕は彼女の二十五回目の誕生日に、彼女にプロポーズをした。場所は都内のイタリアンレストランだった。1ヶ月前に購入していた婚約指輪は僕の目にはキラキラと輝いていて、宝石のような笑顔をもつ彼女にぴったりの代物だった。
僕は、彼女が絶対に首を縦に振ってくれると、僕のプロポーズの言葉に嬉し泣きの涙を見せてくれると、信じて疑わなかった。
だが、彼女は、優しく微笑を浮かべて一言、
「ダメよ。」
と僕に教え諭すように言った。
これまでの人生で経験したことがないほど、そして、今になっても決して言葉で言い表わすことができないほど、激しく動揺したことを僕は覚えている。
なぜ?
どうして?
リナは僕のことが好きじゃないの?
今さら何があったの?
僕は我を忘れて必死に彼女を問い質した。
彼女は、この日がいつかくることを、ずっと前から覚悟していたかのような、落ち着き払った様子で、僕の目を見て言葉を続けた。
「嫌いなわけないでしょう。今までで出会った男の子の中で、あなたのことが一番好きよ。でも、恋愛と結婚は、別よ。あなたのお父さんとお母さんは、あなたに何て言ったの?ご両親に何も報告してないわけはないでしょう?ご両親の意見を私に聞かせて。」
「親の意見なんか関係ないよ。僕とリナがお互いのことをどう思ってるか、そこが一番大事だろ。」
「子供みたいな甘いこと言わないでよ。結婚はお互いの家族を結び付けるのよ。親の意見を無視して良いわけないじゃない。その様子だと、やっぱり、ご両親は結婚には反対のようね。」
激しく取り乱している僕と、落ち着いている彼女。まるで、子供と大人のようだった。
「分かった。それなら親を説得させれば良いんだね。今日はタイミングが悪かった。両親を説得できたら、すぐにもう一度君にプロポーズするから。だから、もう少し待っててよ。」
彼女は、顔を動かさず、視線を右に向け、口元を歪めた。これは、彼女が嘘をつくときに必ずと言っていいほど見せる仕草だった。
「無理よ。あなたのご両親が嫌々承知したところで、私のお母さんはあなたとの結婚に反対しているわ。私のお母さんは頑固な人だから、説得することなんてできないわ。
それに、私は私で、最近、あなた以外の別の男の人と付き合おうと考えていたところだったの。」
その言葉が嘘だと分かりきっていたのに、いや、嘘だと分かっていたからこそ、僕は彼女に激昂して、怒鳴り散らした。
「さっきの言葉は嘘だったんだな。僕のことが今までで一番好きだったっていう、さっきの言葉は!」
「嘘じゃないわよ。『今までで出会った中で』って言ったじゃない。その人とは今度、職場の同僚の紹介で会うことになってるけど、話に聞く限りは、あなたなんかよりもずっと大人の人らしいから、すぐにあなたのことよりも好きになるでしょうね。」
僕は、もう我慢ができなかった。席を立ち上がって、勘定に向かい料金を支払うと、鞄とコートを取りにもう一度テーブルに戻り、彼女に一言述べた。
「もう金輪際、君とは関わらない。人を馬鹿にしやがって!」
僕は、そう彼女に言い放つと、真っ直ぐ店を出た。彼女は黙っていた。心なしか、彼女は泣いているように見えた。外を出ると冷たい風が僕の頭を叩きつけていた。僕は、下を向いて11月のすっかり冷え切った夜の東京の街をあてもなく歩き続けた。
「それで、吉村さんとは、それから一度も会っていないのですか?」
彼が話し終えて一息つくと、私は彼に尋ねた。
「いや、二年前に一度だけ、品川の駅でばったり会ったんだ。」
「どうでしたか?…その、彼女はお元気でしたか?」
「元気かどうかは、本当のところは分からなかった。ただ、相変わらず、目を見張るような美人だった。宝石のような笑顔も健在だった。」
「吉村さんとは、どんなお話をされたんですか?」
「僕は彼女と再会した時、昔の思い出が一気に蘇った。楽しく幸せだったあの頃の記憶、彼女を一途に思い慕っていたあの頃の感情。一瞬で昔の自分に戻ったような気がしたよ。彼女も同じだったと思う。彼女の雰囲気から、それが分かったんだ。相変わらず、正直な気質を持った女性だったから。
同時に、彼女と別れたあの日の夜、彼女がなぜ、あんなことを僕に言ったのか、僕にはもう充分過ぎるほど理解できる年齢になっていた。僕はあの時、彼女にどう接するべきだったのか、そのことも、この頃になってようやく分かってきた。
でも、そうしたことを彼女と話し合うことはなかった。僕の隣には妻子がいた。対して、彼女は一人だった。家内は、それとなく悟ってくれて、その場から子供二人を引き連れてお手洗いの方に向かった。家内の姿が見えなくなると、僕は彼女に尋ねた。
『元気だった?』
『うん。あなたの方もお元気そうね。』
『ああ、これから横浜の方に遊びに行こうと思ってね。』
『そう。素敵な奥さんと息子さんね。』
『君の方こそ相変わらず美人じゃないか。それに駅で出会うなんて、本当に昔の頃を思い出すよ。鉄道の方はどう?今もよく乗るの?』
僕は、勇気を振り絞って彼女に尋ねた。
彼女も、僕の質問から、僕が彼女の何を知りたがっているのか、ちゃんと理解していた。
彼女は、顔は私の方に向けたまま、視線を右に向け、口元を歪めた。
『鉄道趣味は、もう卒業したわ。だから、電車に乗るのは久しぶりなの。これから、大阪出張に行っている夫に会いに行くの。2週間ぶりだけど、どうやらあっちは私のことが恋しいみたい。』
彼女は笑って、そう答えた。
『じゃあ、お元気で。』
彼女はそう言うと、最後にあの宝石のような笑顔を見せて、一人改札口の方に向かって去って行った。
彼女とは、それっきり会っていないんだ。」
それから一時間後、私と上司は会社を出てそれぞれの自宅へと帰っていった。
私は、改札口をくぐり、地下階段を下り、地下鉄が来るのを待った。
やがて、「敷かれたレールの上」を走って地下鉄が私の目の前に現れ、停止した。
私は重い足取りで、地下鉄に乗りこみ、空いている座席に座った。間も無く地下鉄は再び動き出した。
地下鉄は、変わらずレールの上を走り続けている。私が降りる駅まで、あといくつ駅を通過するのか、そして私は何分後に地下鉄を降りるのか、全て把握していた。
私は、気が遠くなるほど哀しい気持ちに駆られた。