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前 黒色の夜

 その夜、エラは暖炉の前で震えていた。



『  エラへ


   卒業式が終わりました。女王誕生祭の夕方に帰ります。


   アンドリュー  』




「明日だ……明日だ……」


 明日エラの婚約者が帰ってくる。隣国の学院から、六年ぶりに帰ってくるのだ。


「明日よ、明日……」


 二週間前に届いてから何十回も読み返した手紙をまた読み返す。流麗な文字で、しかし一行しか書かれていない簡潔な手紙。


 手紙が来てから三回も家中大掃除をした。

 卒業祝いの買い物に町中を歩き回った。

 髪型と化粧の仕方について研究した。

 一番上等の服にレースを追加した。


 十一歳までのあの子は、いつも「エラは世界一綺麗だね」ときらきらした目で言っていたから。


 でも。


「アンディー……」



 エラは明日彼に振られるのだ。




 *・*・*




 エラがアンディーと出会ったのは、彼女が八歳、彼が六歳のときだった。


『アンドリューだよ。仲良くしなさい』


 ある日父親が遠い町から連れてきた、遠縁の子だという男の子。にこりともしない、びっくりするほど青い目をした小さなその子は、言葉もほとんど喋らなかった。

 エラの歳の離れた兄はすぐに彼に興味を無くしたが、彼女はよく小さな彼を構った。一緒に遊び、一緒に眠り、一緒に町の図書館に行って。やがて笑顔を見せたアンドリュー、ちっちゃなアンディー。


『エラ?』

『こっちよ、アンディー』


 町の図書館の職員をしていた父親のおかげで、エラは幼い頃から図書館に入りびたり、たくさんの本を読んでいた。数々の童話、神話、詩、物語……。

 最初字も読めなかったアンディーは、エラに教わり、どんどん本を読めるようになった。


『エラが読んだ本、みんな読みたいな』


 薄暗い図書館、書見台の、蝋燭の火に照らされた本、羊皮紙。長く黒いまつ毛に囲まれた青い瞳が文字を追う。エラは隣りに座ってそれを見るのが大好きだった。


『強くて賢い子になってね。アンディー』


 エラが何かの用事でいないときは、転んでも、町の子供たちにからかわれても、年上の少年たちにいじめられても彼は泣かなかった。エラの兄が救い出しても泣かない。

 ただ、帰ってきてから傷を見つけて叫んだエラに抱きついて、「痛い」とつぶやき、ようやく涙を零す。そういう子だった。


 可愛いアンディー、悲しいアンディー。


 だから、いつもエラはアンディーに呼ばれれば振り向いた。


 エラ、エラ、エラ……。

 なあに、なあに……。


 幸せな五年間は穏やかに過ぎた。変わらず小柄なアンディーはただエラだけに懐き、エラは彼を慈しむ。

 ……けれど、すでに彼はその非凡さを現していた。


 十一歳になったアンディーは、とっくにエラが今まで読んだ本など読み終え、大人用の本どころか他国語で書かれた本にまで手を出していたのだ。



「ねえエラ……」

「どうしたのアンディー」


 その日は、よく晴れた、きれいな空の日だった。


 図書館で物語の棚を見ていたエラに小声で話しかけたアンディーの背後に、見慣れぬ紳士が立っていた。


「君がエラくんかね」

「そうですけれど、なにか……?」

「このアンドリューくんをユーリーの国立学院に入れる許可がほしい」


 隣国ユーリーの国立学院、学術都市の中心、最高学府。紳士はそこの教師だと名乗った。この町を含むここら一帯の領主の血筋だとも。


「この子は天才だよ。数理科学、歴史学、地理学、法学、その他すべて独学だと聞きいたがね、いやはや、この年齢で。天才だとしか言いようがない。天才と呼ばれる人間は我が学院に何人もいるが、その中でもこのアンドリューくんはずば抜けている」


 ぽかんとするエラに紳士はまくしたてた。


「こんなところで埋もれるにはあまりに惜しい才だ。学院で六年過ごした後は、どこの国もこの子を欲しがるだろう。一国の宰相とて夢ではない。……だが、この子はエラという少女が何と言うか聞かないと返事はできない、というのだ」

「それは……」


 エラは青い目が自分を見ているのを感じていた。まだ十一歳でしかない子。でも、彼は嫌だとは言わずに、エラに聞くと言ったのだ。


「エラ、僕行きたい。エラは言ったよ『強くて賢い子になってね』って。僕はそれになりたいんだ」


 かすれ声に近い、けれど強い意思表示。なのにエラがだめだと言ったら素直に諦める用意をしている声。

 彼女は紳士に聞いた。


「この子は学院でちゃんとやっていけますか?」


 アンドリューくんは天才だよ、と紳士は繰り返した。学院はアンディーより十は年上の人たちばかりだろうに、そんなことにはひと言も触れず、ただその才を褒めそやす。

 彼女は小柄な彼女よりもさらに小さな彼を見た。


「本当に行きたい?」


 彼は大きな青い目で彼女を見上げて頷いた。


「エラ、行かせて」



 それから話はトントン拍子に進んだ。お金も紳士が出してくれると言えば、エラの両親は何も言わずに喜んだし、そんな子供を持った彼らを町の人々は羨んだ。


 エラだけがひとり暗い顔。


 出発の前の日の夜、ベッドでぐすぐす泣いていたエラに、アンディーは言った。


「ねえエラ泣かないで。僕は戻ってくるよ、僕も本当はずっとエラといたいけど、それじゃだめなんだ。エラは綺麗だから、いずれ領主の息子にだって求婚されるよ。僕は誰にも負けられないんだ」


 泣かないで、エラ、泣かないで。待っていて。


 戻ってくるから、待っていて。


「帰ってきたらずっと一緒にいよう」


 やけに大人びた眼差しで彼はエラの手をとり、そこにキスして、涙に濡れた金の睫毛にも口付けた。


「ね、エラ?」

「……待ってるわ」


 そうして、エラの小さなアンディーは行ってしまった。

 結婚の約束だけのこして。


 六年の長く寂しい時間、彼は一度も帰ってこなかった。手紙は短いものがひと月に一通。


『エラ、元気ですか。僕は元気です』

『風邪が流行っているそうです。気をつけて』

『こちらの夏は少し暑いです』


 学院や勉強のことにはほとんど触れない、ひとこと日記どころか、ひとこと()記のような手紙たち。けれどエラはその全てを青いリボンで結んで、大切に保管し、何度も何度も読み返していた。

 二年前、エラの兄が王都で商売に成功し結婚したと手紙が来て、両親も王都で住むことになった。成人していたエラは町に残り、それから図書館の職員をしたりして、一人で暮らしている。


 家の中はアンディーが行ってしまってから、ほとんど変えていなかった。彼女自身もほとんど変わらなかった。変わったのを見て、アンディーの青い目に悲しげな光がよぎるのは、エラにとって耐えられないことのように思えた。


 アンディーとの婚約を承知で求婚してくる人々の前で扉をピシャリと閉め、情け顔で「学院に行くような偉い人間にあんたは釣り合わない」と言い別の縁談を持ってくるような人々からは逃げ回り、彼女はずっと待っていた。

 なのに。


『アンドリューを巡って二つの国の姫君が争っていて、勝ったほうと結婚して、その国に仕えるという噂だ』


 と、王都の兄からの手紙に書いてあったのは、一年前のこと。そのときは信じなかった。アンディーはエラのところに帰ってくるのだから。

 けれど、それからその噂はちょくちょく彼女の耳に入ってきた。その上ある日アンディーを学院に連れて行った紳士が、領主に用事があったとかで町に来て、エラの前で同じ話をしていった。


「片方の姫君は朗らかで大陸で一番美しいといわれる方、もう片方の姫君は慈悲深く聡明なこれまた美しい方でね。お二方ともそれは素晴らしい姫君だ。アンドリューくんが卒業したから、どちらかと結婚することになるだろうね」


 紳士にまで言われて、エラはようやくその二人の姫君の話を信じたが、アンディーが約束を破るだろうとは思わなかった。たとえ百年たっても彼の誠実さは変わるまい。

 けれど、変わったことも多いだろう。

 エラは紳士の話すアンドリューが、彼女の知る小さなアンディーとだいぶ違うことに気付いていた。黒髪に青い瞳の代表学徒。どんなに大人になったことだろう。


「アンドリューくんの才知には教授たちも舌を巻く。君のような話し相手じゃもう満足できまいよ」


 そうかもしれない、とエラは思った。帰ってきたアンドリューは不平不満を現さず、約束通り結婚してくれるだろう。それでも、表さないだけできっとその気持ちはあるだろうし、きっと私はそれに気付いてしまうのだ。

 待っているなんて言わなければ良かった。町の人たちの言う通り、小さな約束で彼を縛るのは愚かなことだった。

 変わらないで待つほうがいいなど考え、何も成長しない自分は、なんと子供だったことだろう。



 紳士は帰り際、自分の甥である領主の末息子との見合い話を置いて行った。彼はこの国の王都にある学院を今年卒業するそうで、会うのはそのだいぶ後、女王誕生祭を少し過ぎるころだという。エラは何となく断れなかった。

 アンディーから帰るという手紙が来ても、忘れられなかった。


 それからのエラは心の半分でアンディーとの再開を待望し、もう半分で嫌厭して過ごした。だから彼女は彼が帰ってくるという前日、この夜、眠れない。


『エラ、エラ……』


 遠い声が耳の奥でエラを呼ぶ。

 暖炉の火はパチパチ燃えていた。

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