お婆ちゃんの梅干し
歩の家の台所には、床下に三十センチほどの高さの壺が置いてある。
冷蔵庫の前の床に一メートル四方の蓋があり、それを開くと中に梅酒の入った瓶や味噌樽と一緒に並べてある。
味噌樽の中身は既に空っぽである。
数年前に家を訪ねてきた味噌屋から買ったものだ。遠方からわざわざ来て、一軒一軒訪問し、売り歩いていると言う。父がどんなものかと味見してみると、普段、スーパーで買う味噌とは比べものにならぬくらいに美味しい。母も味見して、気に入ったので、黒っぽいのと赤いのをそれぞれひとつずつ買うことに決めた。分量が多く、値段は少々張るが、百グラム当たりの値段はスーパーの味噌よりも割安だというおじさんの声にほだされ、つい二つ買ってしまったのだが、実際に美味しかったので、家族の誰からも文句は出なかった。毎日、使っていても二樽もあれば、二年くらいは十分に保つ程だった。
中身が減ってきて、底を尽きそうになった頃、確か取り寄せができる筈だったと、おじさんが樽と一緒に置いていったチラシにあった番号に電話をかけようとしたが、いつの間にかチラシは失せていた。店の名前も忘れてしまい、インターネットで調べてみたが、どの店か分からずじまいだった。確か、名古屋の方の店だったが、その辺りは味噌屋が多くどの店だったかまるで見当もつかなかった。どうせ味噌などどこも同じようなものだろうと、当てずっぽうで電話してみることも考えたが、やはりあの味でなければという意見でまとまり、買うことができないままとなった。
そのうち、すっかり味噌はなくなり、空っぽになった樽だけがそのまま床下に眠っているのだ。
暫くは、時々、父も母もそして歩も床下を開け、口惜しそうに樽を眺めては、
「美味しかったなあ。また、おじさん、やって来ないかなあ。」
などと呟いていたが、スーパーの味噌に戻って、その味に慣れてしまうと、そんなこともいつしか忘れてしまった。
味噌がなくなると、家族の誰も滅多に床下を覗くことはなくなった。
酒好きの父も、梅酒は余り好まないのか、何かの折に気が向いてソーダ割をしたりして飲む程度で、それも年に数度のことである。梅酒を好む祖父が毎年、作っていたのだが、祖父とあまり折り合いが良くなかったこともあって、飲まないのだろうと言うことを母は知っていた。
祖父が亡くなってから、
「親父の梅酒はいつも味が変わる。」
などと零しながら、申し訳程度に飲む父の姿を母は見て見ぬふりをしていた。
床下にはもう一つ収納庫があり、歩が五つになる頃までは野菜を入れるようにしていたが、家の近所に大きなスーパーができ、さらに冷蔵庫を買い換えるとその中の野菜室が大きく便利なので、床下に入れておく必要がなくなった。
滅多に用のなくなった収納庫は樽や瓶や壺が並ぶだけで、そんなことも意識せず、父も母もその上を無造作に歩くだけとなった。
ただ歩だけは床下にしまってある高さ三十センチの壺が気になって仕方がなかった。
壺には蓋がしてあり、それには軽く紐が結わえてあった。
中には何が入っているのだろう。
父も母もそれについては教えてくれない。教えてくれないから余計に聞けない。父も母も教えようとしないのは何か曰くがあるのだろう。子どもに教えないくらいだから、その曰くとは余程のものだろう。子どもながらに思うその心が、歩の口を阻むし、こっそり覗いてみようという好奇心の扉を塞いでしまう。
梅雨のある日曜日、歩が目を覚ますと、両親は黒い服を着て何やら忙しそうにしていた。
「歩、あんたも早く顔を洗って、制服に着替えなさい。テーブルに朝ご飯用意してあるから、自分で食べてね。」
母は早口で言った。
歩はキョトンとした。今日は日曜日で学校はない筈なのに、どうして制服を着るんだろう。不思議そうにしていると、
「ぼんやりしてないで、さっさと顔を洗いなさい。今日はお婆ちゃんの十三回忌だって言ってたでしょ。」
母は寝ぼけ眼でいる歩を急かした。
そう言えば、半月ほど前に、そんなこと聞かされてたっけ、歩は思い出したが、十三回忌が何たるものか知らない歩は気にも止めなかった。何か用事があるのだろう、くらいのことで、歩自身には関係のないことだと思っていた。
「あ、そうそう、衣替えした後だけど、白いシャツだけじゃ駄目よ。ちゃんと上着も着るのよ。」
訳も分からぬまま、母の言葉にせきたてらえて、歩は顔を洗い、制服に着替え、それからテーブルに載ったトーストとハムエッグを口にした。
「お母さん、これだけ。」
歩は少し不満そうに言った。
「ゴメンね。いろいろ準備があって忙しいから、それだけにしておいて。」
母が言うと、歩は聞こえないようにそっと舌打ちした。冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、コップに注いでテーブルに置き、食べかけのパンにまた口を付けた。
「お母さぁん、パン、もう一枚焼いて良い?」
「ええ、良いわよ。でも、早くしてね。あんたにも手伝って欲しいことがあるんだから。」
そう言われてもさっぱり合点のいかない歩は、焼きたてのパンを頬張り、ハムエッグを詰め込むように食べ、牛乳を一挙に飲み干した。
食事を終え、歯を磨くと、歩は仏壇のある部屋を掃除する母の元に行った。
「綺麗に掃除したばっかりなのに。」
歩は首を傾げた。
昨日、学校から帰って来ると、母に命じられて部屋においてあった歩のものは片付け、乾いた雑巾で畳を乾拭きするのを手伝ったところであった。
歩の疑問に答えるように、母は
「法事でお寺さんや親戚の方がいらっしゃるでしょ。だから綺麗に綺麗にしとかなくちゃ。お婆ちゃんだってその方が喜ぶでしょ。」
じゅうさんかいき?ほうじ?お婆ちゃん?一体何のこと?
歩は分からない事だらけで戸惑っていた。
「ほうじって、お母さん、ほうじ茶のこと?」
「あんた、そんなことも知らないの。ほうじ茶と法事とは違うの、法事と言うのはね、、、ま、良いわ。後で説明して上げるから、あんたも手伝って。昨日、畳拭いてくれたでしょ。今度は仏壇の中を掃除して頂戴。仏壇の中のものも一つ一つ取りだして、拭いてね。」
歩は何が何だかさっぱり分からなかったが、母に言われるままに仏壇の中を掃除し始めた。母はその間、玄関と家の周りを掃除した。
歩が仏壇の掃除を終えた頃、母は中に入ってきて、今度は、椅子に上って鴨居の上に駆けてある写真を下ろした。
「歩、お爺ちゃんとお婆ちゃんの遺影の硝子、拭いてくれる。」
いえい?また、知らない言葉だが、とにかく、この写真のことを「いえい」というのだなと思いながら、歩は母から差し出された布と硝子用洗剤を使って、遺影を拭いた。
「ねぇ、お母さん、お父さんはどこ?」
「お父さんはね、注文してあったお餅と饅頭を買いに行ったの。」
歩の頭の中では、餅と饅頭がひとつずつぽつりと置かれている光景が浮かんでいた。そんなものどうするんだろ、しかし、それ以上は深く考えなかった。初めて聞くことが多くて、一つ一つに智恵を巡らせている暇がなかった。それに何より興味もなかった。
そうしているところに父が帰ってきた。
「ただいまぁ。歩、いるかぁ。」
「お帰りぃ。今、写真の硝子、拭いてるとこ。」
歩が言うと、母が
「お帰りなさい。お持ちと饅頭を持って入るんでしょ。歩をそっちに行かせるわ。」
と玄関にいる父に声を掛け、今度は歩に
「さ、お父さんを手伝っておいで。」
と言った。
歩が玄関まで行くと、父は沢山の餅が入った袋を提げて上がり框にならべているところだった。
「お餅の袋と饅頭の袋を置いていくから、これを仏間に持って行って欲しいんだ。」
「ぶつま?」
父の口からもまた初めて聞く言葉が飛び出した。
「仏壇のある部屋だよ。」
歩は了解して、仏間に袋を運んだ。全部、運び終えると、父は
「お母さんに聞いて、この餅とか饅頭とかを仏壇の前に並べて欲しいんだ。」
と言った。仏間にいてその言葉を聞いていた母は、歩が来ると、小さなテーブルに白い半紙を敷き、その上に餅と饅頭を綺麗に並べるようにと歩に命じた。
何のためにこんなことをするのか疑問には思うが、歩はいちいち考える事をしないで、言われるままにした。
やがて、作業が一通り終わると、父は餅と饅頭を買ってきた和菓子屋でついでに買ってきた柏餅を出して、
「これでも食べて休憩するか。」
と言った。
母が淹れてきた茶を啜りながら、三人は柏餅を食べた。
食べ終えると、座敷に座布団を並べた。襖を外し、十畳の仏間と隣の八畳の部屋の間の仕切りを取って十八畳の部屋にしたが、三十人分の座布団を並べるとびっしり埋まってしまった。
「何とか間に合ったな。」
父は何か感懐を噛みしめるように言った。
両親はともに黒い服に着替えた。仏壇の抽斗から数珠を取り出し、服のポケットにしまい込むと、歩にも小さな数珠を渡した。
それから半時間ほど経って、見覚えのある顔が次々に集まってきた。お婆ちゃんの弟だか妹だかが来て、お爺ちゃんの兄弟姉妹、それに両親の兄弟姉妹が来た。両親の兄弟姉妹は歩にも分かるが、祖父母の兄弟姉妹に至ってはぼんやりと顔の区別が付くくらいで誰が誰やらさっぱり分からない。そもそも、どうしてこれだけの人が集まるのかが分からないのだ。
時計が十時を指す頃、袈裟を羽織った住職がやって来た。毎月、第一日曜日には仏壇にいらっしゃって下さっているから、歩も良く知っている。
住職は、
「今日は制服だね。」
と歩の頭を撫でながら言った.
歩は照れ笑いした。
皆は座布団に座り、その間をすり抜けるようにして住職は仏壇の前に座ると、手を合わせ一礼した。
住職は後ろを向き、
「皆さん、おはようございます。これから、こちらのお婆さまの十三回忌を営ませて頂きます。」
そう言って、また仏壇に向き直り、読経を始めた。
「あー、一段落したわね。」
「そうだな。お袋の法事のことがずっと気になってたからな。」
「そうね。」
「お袋が亡くなってから、十二年になるんだな。早いもんだな。お袋、還暦を迎える前に亡くなったんだな。俺もあと十五年でお袋が亡くなった歳になるんだ。まあ、まだ先だけど、あっという間だよ。ここまでもホント直ぐだったからな。」
「歩が産まれたすぐ後だったわね。お義母さん、愉しみにしていたのに、この子の顔を見る前に意識がなくなっちゃったから、気の毒だったわね。」
「ああ、そうだな。」
法事の後、上がりの膳を食しに、馴染みの料理屋に出かけ、戻って来た両親は仏間で寛いだ。お酒を飲んだ父は顔を紅潮させ、それでもまだ冷蔵庫からビールを取り出し飲んでいた。母も少しお付き合いすると言って、飲んだ。供え物のお下がりの中からお菓子を取り出し、おつまみにし、歩にもジュースを与えて、仏壇を前に三人並んでそれらを食べて飲んだ。
「今日は晴れて良かったな。」
「このところずっと降り続いていたからね。」
「ああ、梅雨だから仕方ないけど、二週間近く続いたからな。今日も雨かなって心配だったんだ。」
「お義母さん、亡くなった時も雨だったからね。」
「そうだな、涙雨だ、とか言ってたよな。」
二人は十二年前のことを思い浮かべていた。
「歩、お婆ちゃんのこと覚えてるか?」
産まれたばかりで、そんなことある筈もないことを承知で父は訊いた。
歩はどう答えて良いか分からなかった。嘘でも、覚えてるよ、と言えば、父は喜ぶような気がした。けれど、そのような見え透いた嘘をつく気にもなれなかった。遺影だけでは祖母の実感などまるでないのだから当然のことである。
祖父のことなら、一昨年まで生きていて、一緒に風呂に入ったりして良く覚えているが、祖母となると存在さえも危うい。だが、どうやら、父は祖父とは合わなかったらしく、祖父の話をするのは好まないようなのだが、祖母の話は懐かしそうにする。
度々、祖母の話を聞かされることがあったが、それでも祖母は父の口から出る話の中の人でしかなく、それは物語の登場人物と何ら変わりがない。どれだけ、父が生き生きと話したところで、歩の頭の中では食べ物を消化するような訳にはいかないのだ。食堂の前に飾ってある食品サンプルのようなもので、口にすることもできなければ、当然、何の味もしない。それが歩にとっての祖母の印象でしかない。
「そうだ、母さん、あの壺開けてみようか。」
父がふと思いついて言った。
「そうだったわね。ちょっと待ってて、私が取ってくるわ。お父さん、酔ってるからあ途中で壺落としちゃったらいけないからね。」
「すまんな。」
母は台所に行って、床下の収納庫から、蓋を軽く紐で結わえた壺を取り出し、仏間に持って来た。
二人の会話をつまらなさそうに聞いていた歩の目が急に輝いた。
「さあて、どうなってるかな。」
父は楽しそうに言って、壺の蓋に結わえてあった紐を解いた。
「十二年ものよ。しっかり熟成してるんじゃない?」
「もしかしたら、もう黴びちゃってて、駄目になってるかもな。」
「そんなことないわよ。この間、テレビを見てたら、五十年もののもあったよ。」
解いた紐を壺の脇に置くと、父は
「さあ、蓋を取るぞ。」
と言って、蓋に手をあてた。まるで、大切にしていた宝箱を開けるようだった。
歩も小さな頃、河原や野道で拾ってきた小石を木箱にしまってある。ピンク色のや赤、黄、青、色とりどりの石や、変わった形の石を持ち帰っては、その箱にしまっておいたのだ。小学二年の頃まで続いたが、他に興味が移って、それはいつしか止めてしまったが、小石の入った木箱は捨てるのが惜しくてそのままにしてある。部屋の押し入れの奥に眠っており、時々、ふと気になることがあるが、開けてしまうのが勿体ない気がして、この四年間、押し入れの肥やしのようになっている。尤も、それで押し入れの中身が増えることも良くなることもないのだが。歩は、その木箱をいつか開けてみたいと思っているが、その時はきっと何かが起こるような気がして、胸をときめかせている。
歩はそれに似た気持ちだと何となく感じながら、両親の間に割って入り、
「僕にも見せて。」
と言った。
壺には一体、何が入っているのだろう。
父も母も全く関心がなくて放ってあるのだと思っていたのに、どうして今頃、開けてみようと言う気になったのだろう。
じゅうさんかいき、ほうじ、おばあちゃん、そして壺、歩にとっては気になることばかりが続き、興味津々であった。
父は、
「さあ、どうなってるかなぁ。」
と勿体をつけ、そーうっと蓋を開けてみた。
蓋を取ると、中から酸っぱそうな香りが漂って来た。
「へぇ、こんなに小っちゃくなってるのかぁ。」
父は感心して言った。
「確か、お袋が漬けた時は、これくらいの大きさだったよな。」
と右手の親指と人差し指で輪を作って見せた。
歩が中を覗き込むと、中に入っていたのは赤黒くなった沢山の梅干しのようだったが、歩にはその確信がない。梅干しのように見えるだけで、別の物かも知れない。そのような気もして、壺の中を指差し訊いてみた。
「お父さん、これ何?」
「何って、見ての通り、梅干しに決まってるじゃないか。」
父は事も無げに言った。
その言い方が小馬鹿にしたように聞こえたので、歩は少し癪に障ったが、思った通りでもあったので、何となくホッとした。
「酸っぱいと言うより、ちょっと辛いかなあ。」
酸味の香りの中に塩味の利いたおむすびのような匂いが漂ってくるような感じがして、父はそんなことを言った。
「食べてみましょうよ。」
と言って、母は立ち上がり、部屋を出た。戻って来ると、小皿とそれぞれの箸を手にしていた。母はそれぞれ父と歩に渡すと、
「どんな味なんでしょうね。」
と言って、自分からまず、壺の中に箸を突っ込み、梅干しを取り出した。そして、改めて箸を突っ込み、もう一粒取ると、歩の小皿に乗せた。
「まだね、三人で一斉に食べましょ。」
と言って、父に早く梅干しを取るように促した。
それぞれの小皿に梅干しが乗ると、父は
「じゃ、食べてみようか。」
と言った。
「うわぁ、これは辛い。思った通りだ。」
「本当、辛いわぁ。酸っぱ辛いというのかな。でも、酸っぱいより辛いのが勝っちゃってるわね。」
「へぇぇ、十二年も放っておいたら、こんな風になるんだな。」
「でも、口に入れていると、慣れてきて、何だか不思議な味がしてくるわ。」
「そうだな。案外、美味しいかもな。」
両親がそう言い合っている間に挟まって、歩は必死になって涙を堪えていた。大人には不思議な味がして美味しく感じるのかも知れないが、子どもの歩にはただ辛いだけで、口の中が焼けたように感じ、自然、涙が滲んでくるのだった。
「これ何ぃ。普通の梅干しじゃないよね。」
歩は不満をぶつけるように言った。
「ふ、ふ、ふ、この味は子どものお前にはまだ無理だな。」
父は冷やかすように笑って言った。
「そういや、本来のお袋の梅干しって、どんな味だったか忘れちゃったな。これはお袋の味に年季を重ねていってできた味だからな。」
父はぼそりと言った。その目は天井を見上げながら、何処か遠くを見ているようであった。
「どうだったかしら。何せ、お義母さんと一緒に暮らしたのは一年にもならなかったから、お義母さん自身のこともよく知らないままだし、分からないなあ。でも、食卓にはよく梅干しが並んでたわね。それは良く覚えてる。どおんな味だったのかなあ。」
「そうだったな。お袋、自分で漬けた梅干しを食べるのが好きで、ほぼ毎日食卓に出してたよな。そのために、どっさり梅干し漬けてたからな。多い年はこの壺が五つほど床下においてあったことがあったくらいだ。」
「へぇ、私がお嫁に来る前のことね。」
「ああ、」
父は気のない返事をして、口を噤んでしまった。そして、壺の中からもう一つ梅干しを取って口に入れた。
「お義母さん、この梅干しを漬けてすぐに入院したのよね。」
母はそう言ってから、歩の方に向き直り、
「お婆ちゃんが入院して半月後に、歩が産まれたのよ。その頃のお父さんは大変だったのよ。入院しているお婆ちゃんの付添に行かなきゃならないし、産婦人科に入院しているお母さんのところにも来なきゃならないし、それにお母さんの代わりに家事は全部、しなきゃならないし、よく頑張ってくれましたね、お父さん。」
「は、は、そうだったな。」
「お婆ちゃんに、孫の顔を見せてやりたいんだ、って、お父さん、頑張ってらしたものね。でも、結局、あんたの顔を見ないうちに、お婆ちゃん、亡くなっちゃったのよね。気の毒なことでしたね。」
歩がこれまで何度も聞かされた話だった。しかし、いくら聞かされても、見知らぬ祖母のことは、その話以上にイメージが膨らむことはなかった。
「お葬式の時にね、お棺の中にいるお婆ちゃんに歩の姿を見せてやったの。あんたは眠ってるだけだったけどね。」
この話も歩は何度か耳にした。この話の度に、父の顔が曇ることも、歩は良く知っている。
「ホント辛いなあ。」
暫く口を噤んでいた父が殊更のように言った。父の目にはうっすらと涙が浮かんでいるのに気付いた。それが決して、梅干しのせいでないことは歩にも分かっていた。
「時の経つのは早いものね。」
その場に相応しくない言い方に聞こえたが、それは沈みそうになった空気を軽くするために、母がわざと言ったことであることも歩には分かった。
「次は十七回忌ね。」
母の言葉に、父はコクリと頷くだけだった。
いつしか太陽は西に傾き、光の尾が仏間に差し込んできた。壺を囲んだ三人の影が隣の和室の隅まで延びていた。
完