1,2
一カ月後。私は早めに移動図書館に到着していた。学校はテスト期間中のため午前中で終わり、正午には家に着く。普段は放課後立ち寄るけれど、一旦家に帰って着替えられるので、外に制服で行くのも妙だ。それに今回は人に会うことが分かっている。少しだけ、いつもより服装に気を使った。
といっても、雑誌のスナップとか、服屋のマネキンが着ているようなものでは決してない。そもそも私は普段ファッション誌を見ないし、服にも気を使っていなかった。トータルコーディネートなんて無理。やるしかないけれど。
焦りながらプラスチック製の衣類入れを引っかきまわした経験は初めてだった。シンプルなシャツに、色の褪せていないジーパン。白いパーカー。そして、真新しいナイロン性のかばんと、借りた黒いかばん。手持ちの服で一番ましなものを着て、変にどきどきしながら家を出た。
限度数まで借りた本をどさどさ返却し、適当に本を見繕いながら、かばんの持ち主を待つ。間違っても黒いほうには本を突っ込まないように注意した。
先月柑橘広場で会ってから、私と佐井くんは一言も言葉を交わしていない。クラスは一緒だけれど、部活も委員会も違う。席だって離れている。私はいつも一人で本を読んでいて、佐井くんは多くの人に囲まれている。話す機会も必要性もやってこない。
心臓がばくばくする。会うと分かっていても、人と会うのは怖い。いつも目を合わせられなくて、声が震える。
多分向こうは、よっぽどじゃない限り、相手に話をあわせられる。
けれど、こんな人間と話をやってられないと思われて、かばんを返して、ハイさよなら、とか。そんなのは十分あり得ることだ。
「羽瀬川さん」
背後からの声に、思わず持っていたものを落としてしまった。
ハードカバーの児童文学をなめてはいけない。私が持っていた海外原作の児童書、『バーティミアス』は、小学生向けの辞書くらいの厚さがある。重力に従った本の角が爪先に当たる。間の悪いことに、今日はいているのはキャンパス地のスニーカーだ。
つまり、防御力は期待できない。
「いたっ」
思わずつぶやくと、またも誰かが本を拾い上げる。
先月もあったデジャヴ。
「ごめん!びっくりさせちゃったみたい」
顔をあげると、待っていた人がそこにいた。
「待った?」
「ううん、そんなに……」
やっとのことでそう言うと、佐井くんはあちゃーという顔をした。
私の言葉は、『少しは待った』と言ったのと同じだから。
気を使わせてしまった。
「あの、これ」
早いほうがいい。私はずいっとかばんを差し出す。佐井くんの黒いスニーカーが目に入った。
「この前は、かばん、貸してくれてありがとう」
「あ、いいよいいよ、このくらい」
「…………それじゃ」
私はくるりと背を向けて、バスの車内へと小走りに進んだ。痛みをこらえ、さよならは自分から。
そうしたらあまり傷つかないですむ。
「羽瀬川さん!」
やや張った声が私を追いかける。次いで肩を優しくたたかれる。バスへと入るのを諦め、ゆっくりと振り返った。
「これ、借りるんじゃなかった?」
佐井くんが持っていたのは、さっき私が落とした本だ。
なんておっちょこちょい。これですっぱりサヨナラするはずだったのに。
「……ありがとう」
目を伏せて、顔を見ないようにして、本に手をのばす。受け取ろうとして、それを佐井くんは離してくれなかった。
本は私と佐井くん、二人の手に収まったまま、どちらのものでもない状態が続いている。
なぜ?
疑問に思って顔をあげる。佐井くんと目が合う。本にかかっていた手が離され、ハードカバーは私の手に抱えられる格好になった。ちょっとふざけた、という意味合いの表情は浮かんでいない。
「怖い?」
「……?」
唐突に発せられた言葉を受け止めるのに時間がかかった。
「あんまり僕と話したくなさそうだったから、僕のこと、怖いのかなって」
少しだけ下がった眉は、悲しみなのかもしれない。
そんな顔をしてほしいわけじゃないのに。
「違う……!」
「じゃあもしかして、僕のこと苦手だったり嫌いだったり?」
努めて明るい調子の佐井くんは、私の態度でこんなふうになっている。間違いなく私が傷つけた。
思いきり首を横にする。
怖々と見ると、ややほっとした顔になった。
「それならよかった。って、なんか無理矢理言わせたみたいだけどさ」
「違う……」
絞り出すように、声と勇気を振り絞った。
そうしないと、なにかが取り返しがつかなくなると本能が察知して。
「私と話しているの、佐井くんは嫌かなって、思った……から」
盗み見ると、同級生は、眉間にシワを寄せている。無言で道のはしっこに誘導されて、私はそれに流されるまま従った。横に立った佐井くんの顔を、私は見ずに済んだ。
「…………どうして?」
その問いかけは詰問ではなかった。だからか言ってもいいと思えた。
「かばん、来月でいいって、言ったでしょ?学校で返されるのとかが嫌なのかな、って。キャラ、違うし」
つっかえつっかえながらも伝える。横の人は黙ったまま。
「――ちょっとは当たってるかもしれない」
おもむろに言われた言葉は、思いの外私の心に突き刺さった。
どこかでそんなことはないと信じていた。
「確かに、学校では返してほしくなかった」
やっぱり。私と話しているところを見られると、佐井くんは、恥ずかしいと思うんだ。予想の範囲内ではあるけど、苦しい。
弾かれていると感じるよりも、直球でいらないという意味合いをぶつけられている。そのほうが、息をするのが苦しくなる。
「…………こういうこと言うの恥ずかしいんだけどさ」
「……うん」
「羽瀬川さんとまた本の話をしたかった、っていうのは、理由になる?」
寒くないのに、全身が震えるのを感じた。
吸いこんだ空気は新鮮だった。
期待しても、いいのだろうかと。
「学校で返してもらってもいいけど、そしたらもう終わっちゃうかもって。本の話できないかもなって。そんな計算したら、口が勝手に来月でいいよって」
ちらりと横を見ると、佐井くんも視線に気づいた。
まともに顔を見て、また伏せた。
「私でも、いいの?」
「なにを?」
「本の話をするの」
横から正面に、立ち位置が変わった。
佐井くんは少しかがんで、私の顔を覗き込む。
「うん、羽瀬川さんがいい」
息が苦しいのなんていつのまにかなくなっていた。
認められた気がした。救われた気がした。
私はいてもいいよと許された気がした。
ヒエラルキー、っていうのは部活でもわかると思う。佐井くんはバレー部で、私は百人一首かるた部だ。雰囲気もメンバーも、活動量だって違う。週一で集まるかどうかのかるた部に比べ、バレー部は毎日練習している。だから移動図書館に佐井くんが来れないことが多かった。運動部なんて滅多なことでは休めない。移動図書館で顔を合わせるのは、バレー部の活動がないか早く終わる日に限られる。せいぜいテスト期間とか、夏休みや冬休み、そのくらいだ。中一の春に移動図書館でばったり会って、一緒に本を借りた回数が増えたと思ったら、あっというまに二年生になっていた。
佐井くんは人当たりもよく、信頼されている。いろんな人から期待されているようで、会うたびに忙しそうに見える。そんな素振りは見せないけれど、本を借りる冊数は減っていた。それでも本を読むことは好きみたいで、読みたいという気持ちは常にあったらしい。あまりにも間隔が空くからなのか、佐井くんは暇を見つけて学校の図書室に顔を出すようになった。
かるた部は図書室で活動している。週一で集まり、みんなで百人一首をするのが主な活動内容だ。部員は練習のために放課後の図書室を使えるけれど、私以外ほとんどこない。文化部のなかでもゆるい部類で、自主練なんてする人は稀なのだ。必然的に、放課後の図書室は私が独占していることになる。そんなわけで、実質私が一人で本を読むか自主練習をしているところに、佐井くんはひょっこりとやってくるのだ。
「お邪魔しまーす」
六月くらいだったと思う。
掃除が終わってすぐくらいの時間。体操服姿で佐井くんは現れた。すらりとしている体つきが制服と比べて強調されていた。昨年に引き続きまた同じクラスになって、見慣れてはいる。それでもやっぱり、やっぱり佐井くんは、客観的にみてさわやかで、かっこいい。数々の女の子が恋をするのもわかる気がする。
「あ、いらっしゃい」
抵抗なくぺたぺたと入ってくる姿に、もはや違和感はなくなった。本当にこの人は、スポーツと勉強ができて本が好きで。なにを持ってないのかなあというくらい。嫉妬する気にもならないのがまたすごい。それは私だけではなく、同級生や、先輩後輩も同じはずだ。
「なんかオススメのやつある?」
図書室はオレンジを基調とした室内で、他の特別教室とは一線を画している。明るく、暖かさを感じられるようにとの意図があるらしい。
そんな部屋に明るい人が入ってきたのだから、場は華やかになる。問いかけを受け、最近読んだ本の中から、候補をいくつか絞り込んだ。
「青春モノなら『ビートキッズ』。バンドの話で、物語が関西弁で進むのが特徴かな。冒険ものなら『ブレイブストーリー』が読み応えあった。こっちはハードカバーの上下だから重いけど」
「ありがと、今度借りてくよ」
「うん、部活、頑張って」
「もちろん!」
佐井くんは笑いかけて、体育館へと走っていった。二人だった部屋は一人ぼっちになった。心なしか室内の明るさが一段階落ちた気がした。
私に対して、学校でも他の人にするのと同じような雰囲気で話しかけてくれる。仲がいい人とそうでない人で露骨に態度を変えるなんて絶対にしない。そこは人から好かれる大きなポイントかもしれない。
図書室に来てくれるたびに話す内容は、大体は本のこと。今この瞬間にも本は増えるし、私たちだって読み終えた本は多くなっていく。話すネタは尽きない。慣れもあったからか、この頃には佐井くんと普通に話せるようになっていた。
それにしても。なんとなく、部活が始まる前のわずかな時間で来てくれているのかな、と思う。滞在時間はいつもこんなところだ。
私と話すことにいくら抵抗がなくても、言葉は悪いけど、こう、ちょこちょこ来てくれていると、佐井くんにとってよくないことが起きるのではないだろうか、とか。そんなことを恐れては怖くなる。個人的には。来てくれて、とても嬉しいのだけれど。
「佐井、お前最近部活前にどこ行ってんの?」
次の日の朝、教室に行くと鋭い言葉にびくりとした。佐井くんが男子バレー部の部員に詰め寄られている。他のクラスメイトもちらちら注目している。露骨な視線を向けない人も仲良し同士で上の空なおしゃべりをしつつ、バレー部員をそれとなく気にしているようだ。
私も倣って様子をうかがってみる。男子バレー部の結束は他の運動部よりも強いことで有名だ。いつものように和気あいあいとしているのかと思えば、違う。ストレートにいえば雰囲気が悪い。
外では雨が降っていて、教室は電気がついているけれど、元々の暗さは誤魔化せない。雨特有の嫌な空気。
私は男子グループの様子を、見ないふりをしながら遠巻きに耳をそばだてる。
「えー」
詰問に対してにっこりしていても、火に油をそそぐことになったようだ。
少し湿った制服は、なぜだか熱を持って、暑さを感じてしまう。 雨の日の登校時にありがちなこと。濡れた靴下がやや気持ち悪い。
「はぐらかすなよ、ちょくちょく部活前にいなくなってさあ」
「そうそう、なんか四階?で見たとかいう人がいるんだけど」
「あのへんなに?図書室くらいしかなくね?」
やばい、と思ったときには遅かった。一人の視線が席へ向かっていた私を見つけた。
「もしかしてさ、佐井。かるた部の誰かとつきあってんの?」
教室中がざわめく。嫌な感じのシャワー。好奇心旺盛な男子の目。大事なものをとった!と言わんばかりのリーダー格的女の子達のにらみ。
背中を汗が伝う。
口の中がからからに渇く。
立ちまわり方がわからない。
なにをしたらいいかわからない。
頭の中と、目の前がぐるぐる。
「違うよ」
冷静な声が聞こえた。あくまでものんびりとした感じの。
はっとする。私はここに立っている。
「図書室でさ、読書感想文用の本探してた」
さらりという佐井くんに、周囲は「は?」という顔になった。
それはそうだ。なにマジメぶってんだよ、となるのがオチ。佐井くんはテストで安定した成績をとっている。全科目平均点以上は楽々とキープしているけど、ガリ勉キャラじゃない。突拍子のない発言に周囲は警戒している。こいつはなに言ってるんだって。
でも、佐井くんはそれを感じていないように見える。
「ほら~、一年生さ、課題の提出してなくて、先生がブチキレてたじゃん。宿題できなかった理由に部活って答えた話。これで夏休みもなんかやらかしたら俺らにまでとばっちりが行くかもしれないからさ、図書室でよさそうなの見繕ってたの。ちょうどかるた部の自主練してた羽瀬川さんに許可もらって。ね?」
そう私に水を向けられる。半信半疑のバレー部メンバーの顔。追撃を緩めてくれない一部の女の子の視線。あくまでもにこやかな佐井くんに、私は励まされた。
口を開いてもひゅーひゅーという音しかでないから、首を縦に、こくこくと振った。
「な?」
佐井くんがだめ押しをしてくれたけど、まだバレー部のメンバーは半信半疑だ。
「じゃあどんなのがオススメか、教えてよ」
私はそう言ってきた人を見つめ返した。私はそれを受け止める。
本のことなら、私はこの人に負けない。
「『カラフル』、『ダイオキシンが降った町』、エミリー・ロッダの『ローワン』、『バッテリー』、『地雷ではなく花をください』、『西の魔女が死んだ』、『モモ』、『アルジャーノンに花束を』、『ニルスの不思議な旅』」
とめどなく思い浮かんだ児童書を次々とあげた。まだまだあるけどひとまずこのくらいで。淀みなく言ったからなのか、聞いてきたバレー部員は唖然としていた。
「どんな感じのものがいいか教えてくれたら、もう少し絞り込めると思う」
その付け足しに、我に返ったようだった。
「な?すげー詳しいの」
さりげなく誉められて、私はうつむいた。
お礼や謙遜のさじ加減がいまだにわからないから、安全策として、黙る。すでにこの場の主導権は佐井くんのものだ。
「みんな、黙っててごめんな?まだ全員分は絞りこんでなかったから、誰にも言ってなかったんだけど」
「いや、俺たちこそ……」
佐井くん達は、仲直りをはじめたようだ。
そしてこちらは。
「ねえ羽瀬川さん、私たちにもおすすめ本教えてもらっていいかな?」
先程まで私を睨み付けてきたグループがそう言ってきた。
本の情報を持って佐井くんと話したいのかもしれない。
まあいいか、と思いながら、私は慣れない会話をした。
「――――さっきはごめんね?」
当たり障りのない声と口調で、佐井くんは、堂々と私に話しかけてきた。私も当たり障りなく、ううんと答えた。会話はそこで終わった。
その日から、学校で話すことはほとんどなくなった。
誰も来ない放課後の図書室で、私は一人本を読んだ。たまに扉が開くたびに期待した。全部顧問の先生だった。がっかりしなかったといえば嘘になる。だけど戻っただけだ。
それでいいと思う。味方でいてくれただけで十分。少し、寂しかったけど。私たちはお互いに立ち位置というものがある。
私と話していると、佐井くんに迷惑がかかる。佐井くんが私に話しかけてきても、私は女子グループに睨まれる。それを佐井くんは、わかってくれたのだと思う。ただ、移動図書館で会える日は変わらずに、意気投合して、話をした。
半年以上、そんな感じだっただろうか。
連絡先も知らない。メールなんてもちろんしない。それでも移動図書館で会える日を、なによりも楽しみにしていた。
それだけでよかった。