事後
一億の命をウェットティッシュで包んで、備え付けのゴミ箱に捨てた。
部屋の中は未だに熱っぽい。私の吐く息すらも湿っぽく思える。いつもより唾液の粘度が高い気もする。
途端に私は、口内に彼の唾液が残っているのを気持ち悪く感じて、綺麗に磨かれた洗面台に全部吐き落とした。
部屋はゆっくりと静かになっていく。
同じくして、私の理性もゆっくりと目覚めてきた。
蛇口をひねり、一杯の水を飲み干した。
「なんてことをしてくれたんだ、」と、微かなタバコの臭いの中で、理性は語り出した。
「寂寥と真夜中の反省会を恐れた結果がこれかよ、」シャワーの取っ手を捻れば、そうやって棘のある言葉を放つ。
「君がそんな人間だとは思わなかったよ。君は、可愛げも、淑やかさも、強さも、節操も、何もない、最低な人間だ、」シャワーの音よりも大きく大きく、そんな自責の念が頭を揺らしてくる。
それらを流してしまおうと、頭から湯水を被った。
全身を舐めていく41℃の温湯に、36℃の舌の感触を思い出す。不毛だ。
「なーにが”良かった”だよ、クソビッチ。」シャワーの音に紛れて、小さく罵倒が聞こえてくる。
自分の理性に、自分の心が泣かされてしまいそうだ。
…違う、彼は良い人だもの、優しい人だもの、
グシャグシャとシャンプーのついた髪の毛をかき回す。
酔った私をホテルまで送ってくれたもの、心配してくれて、ここに着いても暫く付きっ切りで世話してくれたもの、
…でも、そんな彼を引き止めたのは、夜を恐れた私だ、心が弱かった私だ、彼だって帰らなきゃならなかったのに、彼だってお酒に呑まれていたんだし、あぁ、なのに、私は、
背を伝う湯に、既に泡は浮かんでいない。
彼は、ごめんね、ごめんね、と呟きながら、ベッドに横たわる私に覆い被さって、そして、泣きそうな、余裕の無い表情で唇を重ねてきた。
舌の中に溶け込んだ甘いビールの味と、香ばしいタバコの味が、私の口内を侵していようが、私は抵抗もせずに、ボンヤリと彼を眺めていた。
その時、私はどんな顔をしていたのだろう。
彼が、私の表情を見て心を痛めていないか心配になるの。
カーテンも閉めずにシャワーを浴びていたものだから、湯槽前に敷かれているタオルカーペットが濡れてしまっていた。
足跡も残らなくなったその上に立って、ふと前を見ると、鏡の奥に口付けの跡に塗れた自分を見付けた。
……。ああ、
私はきっと、冷たい人間なのだ。
背中にべったりと張り付く髪の毛に、ドライヤーを近付ける。
暖まった身体では、その温風すらも冷たく感じてしまう。
さっきまでの行為を、思い出させまいとしているのだろうか。
私の脳は、ただただぼうっと、鏡の奥の、湯船のフチとか、未使用のまま端に寄せられたカーテンとか、鎖骨にある赤黒い跡を眺めていた。
ふと、目の前の女の口元が三日月型に歪んだ。とても、綺麗とは思えない形だ。
「馬鹿じゃねーの?」私はぼんやりと、彼女のヒクつく唇の端を見ている。
「本当に、アンタ、どうしようもねーよ。」彼女の口から発しているはずの声は、私の舌が紡いでいた。
彼を良い人だと思っていた。いつも彼は優しかった。
彼は自己犠牲を厭わなかった。寧ろ、それすらも彼は享受し愛しているようにすら見えた。
そんな優しい彼の事だけなら愛せると思った。自分を愛せない自分が、初めて人を好きになれたと思っていた。
そんな彼が、自分の意思を、欲望を、衝動を第一にして、行動したのだ。
私の、心や、事情も聞かずに、だ。
そうだ、彼は、勝手な行動を起こしたのだ。人が傷付くであろうことを行ったのだ。
……。
…………。
ドライヤーが足元で送風を続けている。
シャワーヘッドからは時々水滴が落ち、浴槽で音を奏でている。
ビールとタバコの残り香は既にない。
ただただ無機質な時間が流れていた。
彼は行為に満足したのか、すぐにここを出て行った。夜が怖いと甘えた私を一蹴して、だ。
そんな人だったなんて、想像すらしなかったし出来なかった。
…もしかして、そうやって私を騙したのだろうか。
「やるせないなぁ、情けないなぁ、」
目の前に映る女は、ずっと泣きじゃくっていた。ああ、慰めてあげなきゃ、泣いている人なんて、見たく無いもの。
私の前にいる時だけでいいから、人には明るく笑っていて欲しい。
鏡に映った不細工な女に、静かに口付けをしたあと、私は堪らなくなって泣き崩れた。