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第四章

   4

 

 日が暮れて行き、太陽がその姿の内、およそ半分程度を地平線に食わせ始めた頃──つまりは黄昏時。


 あたしと副店長、ついに姿を現わした『上の人』達に加え、何人かの嬢が店長の死体が横たわる控え室に、集合していた。

 その中には、ベラ姉、りっちゃん、ちーちゃんの三人も含まれている。


 真相に気付いたあたしは、副店長にその事実だけを話した。これでだめなら、命をやるとまで宣言したのが功を為したのか、単純にあたしの迫力に気押されたのか──副店長は、あたしが関係者の前で、真相を解明することを許可した。


 そして、これまた副店長に依頼し、足の早い伝書鳩を用意して、嬢達にも連絡した。元々休日ということもあるし、全員集合とは行かなかったものの、七から八割程度の人数は集まったと言える。


 誰もが、怪訝そうな顔をしていた。まぁ、殺人犯(と思われている人間)が、真相を伝えると言うのだ。普通に考えれば、説得力のある言い逃れを思い付いたんだ、と考えるのが妥当だろう。


 だから、懐疑的に出られるのは別にいい。あたしは単に、真犯人に逃げ出されないために、上手く関係者の中に紛れさせるために、この状況を作っただけなのだから。

 

 ただ、流石にベラ姉達だけは、少し様子が違うようだった。


 ベラ姉は困惑気味でもあるし、心配そうでもあった。ちーちゃんに至っては──おそらく複雑な心境の成せる業だろうが──顔色が悪くすら思えた。微かに、その小さな胸の前で重ね合わせた両の手が、震えてさえいるようだった。

 りっちゃんは……あ、こいつ立ったまま寝てやがった。別にいいけど。


「皆、集まってくれてありがとう。これから、事件の真相を説明するわ」


 あたしは、多少の緊張を押し殺しつつ、そう宣言した。

 自然、場の空気が変わった。緊迫感が増し、ぴんと張り詰めたように感じる。

 りっちゃんですら目を覚ましたほどだ。まぁこいつは寝てていいのだが。


「まず、あたしは店長を殺してない。真犯人は別にいる。でも、それが誰か、という説明の前に、事件の概要から入らせてもらうわ」


 言いながらあたしは、店長の死体に近づき、店長を包んでいた毛布を剥ぎ取った。


 自然、腐敗が進み、かなりグロデスクになった死体が、露わになる。あたし自身、不愉快さの余り、思わず顔をしかめてしまった。

 嬢の内、何人かが短い悲鳴を上げた。


「店長が殺されたのは一昨日、閉店後の夜。そして、昨日の朝にあたしが発見した。これはいいよね、一昨日店長に会った人も多いだろうし」

 

 あたしの説明に、異議を申し出る人はいなかった。

 当然だろう。だからこそ、第一発見者であり、現場に普段に付けている物が落ちていたあたしが、真っ先に疑われたのだから。


「さて、殺害の方法だけど──まぁ、死体の傷跡からもわかるように、刃物による殺害だわね。決定打となったのは喉への一撃だけど、身体に付いた傷を見るに、相当争った後殺されたと見るのが妥当でしょうね」


 あたしの説明を聞いて、その場に居た人達は全員、店長の死体に注目した。誰もが、あたしの説明と死体の状態が相違ないことを、確認しているのだ。


 ちなみに、真相に辿りついた以上、言い争いの声を聞いたと言う、常連客の証言は必要ないと判断したので、彼には御帰宅願った。

 ……まぁ、あたしに振られて、トリックの解明の手伝いをした後は、何も会話することなく、自然とお別れになったんだけど。


「さて、ここからが一番の肝なんだけど──犯人は、店長殺害に使った凶器を、どうやって処分したか? 家に持ち帰ったか、あるいは店の中に隠したか──そこで、副店長」

「え? 俺?」

 

 唐突に名前を挙げられた事で、副店長は動揺しているようだった。まぁ、無理もない。

 ただでさえ副店長は気が小さい。その上、これだけ張り詰めた空気の中で、突然名指しで呼ばれたのだ。狼狽しない方がおかしい。


「副店長。昨日あたしが手錠のロープを切らないように刃物を隠した時、この部屋やキッチンにあった刃物は、全部隠したんじゃない?」」

「あ? ああ。当然、目に付いたものは全部隠したさ。お前に逃げられちゃ、たまらないからな」

「その中に、キッチンの包丁はあった?」

「包丁? さぁな、あの時は不安で慌ててたし……あったかもしれないし、なかったかもしれないな」

「……ありがとう」


 嬢や『上の人』達は、再び怪訝そうな顔をしていた。あたしの意図が、うまく読み取れないのだろう。

 

 しかし、あたしは事が予想通りに行った事で、内心で少し胸をなでおろしていた。

 副店長のこの証言は、あくまで補助的な役割を担っているだけ。次の説明に対する、ステップに過ぎないのである。


「さて、ここからはお立会いね」

 あたしは、その場にいる全員が固唾を飲んで見守る中、店長の死体に対して、一歩、また一歩と、ゆっくりと近づいて行った。


 その間、あたしの心臓はずっと、普段よりも早めの鼓動を奏でていた。

 先程常連客に手伝ってもらい、一度は上手く行ったことではある。自信もある。だが流石に、緊張と高揚を完全に拭いきるには、至らない。

 

 そして──手を伸ばせば触れられる距離まで近づいた所で、あたしは再度口を開いた。


「ごめんね、店長」

 あたしは、死者に礼を払った上で、その冷たくなっている身体に手を伸ばし──全身に力を入れ、自分の肩に担ぐ形で、店長の身体を持ちあげた。


「っ!」「おい!?」「きゃっ!」「な、何?」

 あたしの取った行動が、完全に予想の範囲外だったのだろう。嬢達も副店長も、そして『上の人』達さえも、眼を丸くしていた。

 

 その視線は、糾弾めいたものにも感じられた。当然だろう。死者に鞭を打つような真似は、どの世界のどんな宗教だって、肯定はしていない。

 

 しかし今この時、観客達の批難に、逐一構ったりはしていられない。

 あたしは、他の誰でもない、あたし自身のために、あたしの願いを叶えるために、戦っているのだから。


「んぎ、が!」

 掛け声をかけて、気合いを入れる。太股の筋肉を痛めつけるように使い、ふんばりを効かせ、一歩ずつ歩みを進める。

 

 成人、しかもかなりガタイのいい男の死体は、女のあたしにはかなり重い。たった数歩歩いただけで、身体のあちこちが悲鳴を上げていた。

 

 ついでに言えば、腐敗の進んだ死体からは、吐き気を催す腐臭が漏れ出ていた。匂いが鼻腔を刺激するたび、生理的な拒絶感を催した。


 精神的にも肉体的にも感覚的にも、かなりきつい作業だった。しかし、ここで歩みを止めてしまっては、何のためにここまでお膳立てを整えたのか──何のために、孤独感に苛まれる中、たった独りで捜査を断行し続けたのか、わかりはしない。


 あたしはずるずると、店長の足を引きずるようにして死体を運び、なんとかお目当ての場所──採光用の窓に近づいて行く。

 無論、本当の目当ては、その手前──開かずとさえ謡われた、この店自慢の金庫である。


「ぜー、はー、ぜー、はー……」

 

 歩いた距離は、本当にわずかではある。しかし、金庫の手前まで辿りついた時点で、あたしは息も絶え絶え、全身から汗が噴き出てすらいた。

 なれど、ここで説明を止めるわけにはいかない。自分自身が掲げた正義と意地が、あたしを突き動かして行く。


「さて、注目ね。先に言っとくけど、これは魔法じゃないよ。これは──技術だよ」

 言いながらあたしは、心の中でもう一度店長に謝罪する。


 ごめんね、店長。


 死んだ後も働かせるなんて、例え働き者の国として知られていた、あたし達が元々居た国であっても、非道とされる事だ。ましてや、この世界では、なおさらだ。

 けれど、今この場だけは、敢えて苛虐を断行する。


 あたしは、店長に対して申し訳ない気持ちを抱きつつも、冷たく成り切っていた店長の顔に触れ──その半ば閉じていた瞼を、強制的に全開にした。


「お、おい、さっきから何やってんだ!?」「きゃっ!!」「ハナちゃん!? 何をするつもり!?」


 あたしのやろうとしている事が、礼を失するどころか、明らかに死者を貶める行動だと知ったためだろう。観衆の驚きと批難が、声となった。

 

 しかし、制止の言葉は、当然無視する。ここまで来れば、覚悟すら無用だ。

 

 あたしは、露わになった店長の瞳を、金庫の前にさらけ出す。

 すると金庫は、組み込まれたアルゴリズムに従って、自身を動かして行った。


 取っ手の上側に装着された小さい窓が両側に開き、更に小さいランプが顔を出した。次いでランプから、横一直線上の光を照射される。

 店長の顔に当たった一線の光は、一か所に留まることなく、眼前に置かれた店長の瞳を、撫でるように上下して行った。


「な、なんだそりゃ……!?」

 言ったのは、副店長だっただろうか。店長の顔──とりわけ、瞳の部分──に、照射されている光を当てる事に集中しているあたしには、発言者を確認することは出来ない。

 

 だがおそらく、その場に居た誰もが、困惑と驚愕、そして幾ばくかの恐怖に襲われているのだろう。

 今までに見たこともなければ、想像したことすらない現象を目の当たりにしたために。


『認証を完了しました。ロックを解除します』

「おお!?」「え、誰、今の?」「何……何の声……?」


 その場に居る誰の声でもない、機械的に合成された声──この世界では、考えられたことさえない技術──が場に響いた事で、あたし以外の誰もが、驚愕を声にしていた。

 

 一方あたしは、無罪の証明、その一番肝要な部分が無事に行われたために、やはり少しだけではあるが、安堵のため息をもらしてた。

 だが、ここで気を抜き切ることは、有罪の可能性を許してしまう事にも繋がる。最後までやり通すと、再度自分に言い聞かせた。


 大した間もなく、達人級の魔法技師でさえ壊すことが困難とされる金庫が、その扉を開放した。


 中には、本来なら多額のものがあったのだろうが、現金は一切入っていなかった。

 代わりに、普段は簡易キッチンに備え付けられている包丁が、血にまみれた状態で、その姿を現わした。


「お、おい……ちょっと説明しろ。それは一体、なんなんだ?」

 と、副店長。『それ』と言うのがどれを指すかあまり定かではないが、状況と文脈から推察するに、おそらくは金庫の事だろうと当たりをつける。


「虹彩認識だよ。ウェーブレット変換って言う、フーリエ解析を元にした数学を応用した、生体認識技法の一つ。認識した画像から虹彩部分を抜き取って、それをビット列に変換して──って言っても、わかんないか」

 

 あたしは、言いながら、金庫の上部を軽く小突いた。そこに、分厚いガラスに守られる形で収められていた、充電用の太陽電池を、である。


「な、何を言ってるんだお前は……!?」

 副店長は、驚愕を通り越して、摩訶不思議なものを見る目であたしを見ていた。他の面々も似たりよったりである。


 ほんの一瞬、始めて魔法を見た時、あたしもこんなだったかな……と、懐古の情に捕らわれ、微笑んでしまいそうになった。

 しかし、やはり気を抜きはしない。否、出来ない。そんな余裕は、どこにもない。

 

 あたしは再度、顔と気を引き締めた。

 思い出に耽るのは、この件が片付いてからでもいいのだから。


「あたしと店長が同郷の人間なのは知ってるよね? こいつは、あたし達の故郷で開発されたものだよ。テクノロジーって言う、あたし達の世界での魔法みたいなもん。十中八九、店長が自分で金庫に組み込んだんだろうね」

 

 店長は、あたしと同じく、神隠しによってこの世界にやって来た人間だった。

 元々電子・情報系の技術者として働いていた店長は、得意先に虹彩認識を用いた電子ロックを使用した装置──その試作品のプレゼンをしに行く途中で神隠しに遭い、この世界に飛ばされたのだ。

 あたしは以前、店長自身からそう聞かされていた。



 店長の、頭の周辺部を覆う黒髪は、あたしと故郷が同じであることを示している。その事が縁となり、店長はあたしを『乳揉み酒場』で働かせてくれていたわけだ。

 

 身寄りも何もなく、言葉すら通じない世界で──それも、科学技術というものが全くない世界で──元通り技術者として働くことは、当時の店長には不可能だった。例え今であっても、同じかもしれない。


 仕事を選んでいる余裕もなかった店長は、結局水商売の裏方から、新しい人生をスタートさせたのだ。

 

 それでも、苦労に苦労を重ねて、彼は一店舗の店長にまで上り詰めた。

 そんな彼が、未だに自分が携わっていた工業機械を、店を守る装置として使っていたと言う事実は──多少とも、心を動かされるストーリーだった。

 きっと、神隠しから何年も経過し、故郷を振り返ることさえ無くなりかけていても、店長に取ってこの装置は、心の支えだったのだろう。

 

 そんな店長が、件の金庫を、自身を殺害した犯人に、トリックとして利用されるというのは、皮肉が過ぎる。

 

 あたしは、他人のために他人を助けないことを、絶対の信条としているけれど──それでも、あたしがあたしを助けるついでに、ちょっと敵を討つくらいは、許されてもいいだろう。


「さて──説明を続けるよ。まぁ詳しい構造とかは省くけど、この金庫は、予め記録していた人間の瞳を認識すると、自動で扉を開くって代物なわけ。それ以外でこいつを開けるのは、相当に難しいよね。だから、『開かずの金庫』なんて渾名が付いてたわけだし。

 店長は、自分の瞳を登録しておいて、店の売り上げを保管するのにこれを使ってたわけね。で、保管していたものがものだけに、店長は基本的にこの開け方を、秘密にしていたわけだけど──犯人は、犯人だけはそれを知っていた」


 場が、ひりついて来たように感じた。誰かが、固唾を飲んだ音が、聞こえたような気すらした。


 まだあたしは、はっきりと犯人を指名したわけではない。だが、それでもその場に居た全員が──犯人自身すらも含めて──あたしが指摘しようとしている事実を、薄々感づいて来たのだろう。


 あたしは、自分の心が、冷たく、そして鋭利になって行っているのを感じた。さも、凍りついた鉄のつるぎのように。


「その条件に該当する人物ってのは、そう多くはない。店長は基本的に、いつも自分で出納を管理してたから。秘密厳守の意味合いもあれば、単純に不器用な人だったから、人に重要な事を任すのが苦手でもあったんだろうね。

 でも、一人だけ──いつも半ば強制的に、出納の仕事を手伝わされていた人物が、この中にいるよね。更に言えば、その子は、一度秘密厳守を強要されれば、まず逆らえないような性格の持ち主でもあった。

 店長に取って、色々都合がよかったんだろうね」

 

 あたしは金庫の側を離れ、一歩、聴衆に近づいた。

 

 今、あたしの瞳からはたぶん、光が失われている。

 

 胸中を占めているこの感情は、憎しみか。はたまた、悲しみか。あるいは──その狭間か。


 確実に言えるのは、あたしの顔が真顔になっていること。そして、心に現れた感情が、悲しみと憎しみのどちらだとしても──あたしの歩みは、決して止まらないと言う事だ。


「さて、ここで、もう一度死体の状態を見てみようか。たぶんこの犯行は、突発的なものだったんだろうね。だから、犯人と店長は、激しく争った。身体の至る所に出来た傷は、その時出来たものだよ。

 止めの一撃は、喉への一突き。そして、眼球が抉れているのは──死後にくりぬいたんだろうけど──この装置を起動させる、鍵として使ったためだったわけ。

 でも、包丁で眼球を抉るのは難しい。解剖作業になれている人間でも、きっと四苦八苦する。けれど犯人は、すんなりとそれを成し遂げた。たまたま床に落ちていた、あたしのかんざしと言う、誂え向きの道具を使うことでね。

 そして同時に、あたしに罪をかぶせて、自分へ向く疑いの視線を逸らさせ、かつ自分は金庫の中にあった金を奪い、逃げ切る算段を立てもした」

 

 あたしは、一歩、また一歩と近づく。近づく相手はもちろん──あたしを、嵌めた奴だ。


 彼女は、あたしが一歩近づくごとに、その小さな身体を、まるで痙攣しているかのように、震えさせていた。


「ただ犯人は、逃げ切るには邪魔なものを数多く持っていた。凶器、金庫の中にあった金、店長の眼球。

 人間ってのは、基本的に臆病だからね。足がつきそうなものは、そう簡単に捨てることも出来ない。

 凶器はまだいい。もし見つかっても、指紋の確認が出来ない以上、それだけで犯人を特定するには弱い。だから、金庫の中に放置するに留めた。鍵である店長の眼球を手元に置いておき、後でこっそり、回収するつもりだったんだろうね。

 凶器を隠すと同時に盗んだ金は、まだ説明のしようがある。金ってのは、極めて有益な概念ではあっても、紙幣や硬貨自体に貴重性はないからね。多額の現金が見つかったり、多少金回りがよくなったとしても、独りで身体を売り始めたんだで済まされる。

 でも、人の身体の一部だけは、そうはいかなかった。

 鍵である以上、処分するわけにはいかない。仮に処分するにしても、方法が限られてくるから、色々難しい。隠すにしても同じ事だわね。さらに言えば──もし誰かに見つかったら、言い訳の仕様がない。

 だから、結局──肌身離さず、持ち運ぶしかなかった」


 ついにあたしは、対象者の目前に歩み寄った。彼女はあたしよりも背が低い。一段階低い場所に位置する目は、ずっと床を見つめていた。

 あたしの大事な妹分は、あたしの顔がすぐ近くにあっても、決してあたしと視線を合わせなかった。

 

 けれどあたしは、決して手も気も緩めず、しっかりと犯人の目を見ながら、言及した。

 心の中で混ざり合う、怒りと悲しみ、そして憐憫と──確固たる、断罪の意志を以て。


「ねぇちーちゃん。どうしてここに着いた時から、両手を重ねて、胸の上に置いているのかな?」

「……」

「ねぇちーちゃん。どうしてここに着いた時からずっと、震えているのかな? どうして昨日から、あたしと視線を合わせてくれなかったのかな?」

「……!」

「ねぇちーちゅん。…………ちーちゃんは、店長を殺して──その罪をあたしになすりつけたり、したのかな?」

「ひっ!!」


 短い悲鳴と同時に、ちーちゃんの顔が上がった。


 目からは滝の如く涙が溢れており、恐怖と不安で満ち満ちたその顔は、完全に血の気を失っていた。歯と歯がかちかちと合わさる音が、あたしの耳に響いた。


 瞳孔が開くかのように見開かれたその瞳で、彼女はあたしを見る。あたしもまた、目線を逸らすことなく、彼女の瞳を覗きこむ。


 その瞳に刻まれているのは、混乱、恐怖、そして──絶望。


「ちーちゃん……手の中のもの、見せてもらうね」

「あっ……!」

 

 あたしが無理やり手を開かせると、その中にあったものが滑り落ち、ぷちゅっと嫌な音を立てて、床を転がった。

 床の内、ブツと直接触れ合った部分は、濁り切った液が、べったりとこびりついているようだった。

 

 何度か床を跳ねた後、動くのを止めたそれは、天井を仰いだ。腐りかけ、濁り切った、その虹彩で。

 持ち主を失った瞳が、持ち主が作り、そして愛した店の天井を、静かに見据えていた。


「ごめん、なさい……!」


 まだ成人さえしていない、余りにも心が弱過ぎた殺人者は、その場で膝を負った。零れる涙といっしょに、彼女を囲っていた嘘という名の防御壁は、崩れ落ちた。


 そして彼女は、部屋はおろか、店中に響くかのような慟哭と共に、語り始めた。

 人を殺した経緯と、己を突き動かした情動と──おびただしいほどの、後悔を。


    *   *   *


 少女は、親に捨てられた。

 理由は単純だった。親が食うに困った。だから、幼さ故に働くことが出来ず、無駄飯ぐらいでしかない子供が、邪魔になった。

 元々子供への愛情を持ち合わせていない、心の壊れた親達に、躊躇という概念はなかった。


 少女は考えた。路上で寒さに凍え、飢えに苦しみながらも、ただひたすらに考えた。しかし、どんなに考えても、わからなかった。

 なぜ、自分が捨てられなければならなかったのか。なぜ、自分と言う存在が、否定されなければならなかったのか。なぜ、自分がこんなにも苦しまなければならないのか。

 なぜ、自分が、悪いのか。

 

 けれど、世界は彼女の問いに答えてはくれなかった。そして──この上なく、無情だった。


 暴力が暴力を喰うような路地裏で、彼女は必死に生き伸びた。

 年上の女は、皆身体を売っていた。年下の子供達は、奪う事で腹を満たしていた。大人の男達は、悪意に満ちた組織に使われることで、かろうじてその日の飢えをしのいでいた。


 彼女もまた、彼らを必死に真似た。人生が地獄のように思えた。けれどそれしか、生きる方法がなかったのだ。

 

 鈍器と拳が、血の赤に染まらない日はなかった。刃物が、人の肉を切り裂かない日はなかった。魔法が、人を壊さない日はなかった。彼女の周囲では、驚くほど簡単に人が死んだ。


 棍棒で殴られて死に、刃物で刺されて死に、病気で死に、魔法で攻撃されて死に、飢えと凍えで死んだ。動かなくなった死体は、動物の餌になった。

 

 やがて、彼女の番が来た。盗みに失敗し、自身を捕まえた憲兵に、憂さ晴らしのために殴られ続けた。リンチが終わると、まともに立てなくなった。空腹と、心身の痛みが、彼女を襲い続けた。

 

 とても寒い夜だった。けれど、綺麗な雪が降っていた。打撲と骨折で痛み続ける身体を、真っ白な雪は、優しく包み込んでくれるようだった。


 ──ああ、やっと終わってくれるんだ。


 徐々に身体が動かなくなって行く中で、少女はそんな事を考えていた。自身の死が、救いのようにも思えた。

 

 親に虐げられ、挙句捨てられた。誰からも優しい言葉をかけてもらえず、おびただしい不安と恐怖、そして苦痛の中、ただ独り、生き伸びるために盗みと売春を繰り返した。


 何もない人生だった。誰もいない人生だった。

 ここで終わってくれるなら、それもいいか──そんな風に思えた。

 

 ──でも、死にたくない……!

 

 自分でも驚いた。自分の中に、辛酸と怨嗟にまみれた人間の中に、生への渇望と執着があった。死への恐怖があった。

 生きたい。死にたくない。生きていたい。


「う、あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 指先をわずかに動かすだけでも、全身に激痛が走った。それでも彼女は動いた。動かずにはいられなかった。


 冷たい路上で、誰も彼もが自分を汚いものと見る世界で、彼女ははいずり回った。痛み以外の感覚が消え失せても、助けを求めた。

 ただただ、生き伸びたかった。飯を食って、糞をして、寝て、また起きたかった。

 

「おい、君……?」

 少女の耳に、男の声が届いた。うつ伏せになったまま顔を上げると、中年の男が、自分を見降ろしていた。


 蚯蚓腫れと内出血だらけの身体で、繁華街の路上を這いまわる少女を、不審に思っただけかもしれない。もしかしたら、気持ち悪がられて、また殴られるかもしれない。恐怖を呼び起こすだけの経験を、少女はいくらでも持っていた。


 それでも少女は、男にすがった。


「たす、けて……助けて、くれたら……なんでも、します、から……」

 男の一物を、一生しゃぶっていても構わない。残りの人生が全て奴隷でもいい。心からそう思った。

 ただただ、一心不乱に、命だけが欲しかった。


「お、おう。ちょっと待ってろ、今医者を呼んでくるから」

 後から考えれば、どちらかと言えば、物のはずみだったのかもしれない。それでも男は、すんなりと少女を助けた。

 

 ──生きて、いられる……?

  

 人の優しさに、生まれて始めて触れた少女は、自分の身に降り注いだ幸運を、俄かには信じられなかった。

 けれど、男の呼んで来た医者によって、一命を取り留めると、ようやく事実を飲み込んだ。

 

 少女は、生まれて始めて、神に感謝する気持ちになった。

 

「ありがとう、ございます……本当に、本当に……!」

 

 少女はベッドの上で、中年男に心から礼を述べた。

 明日からはまた過酷な生活が待っているのはわかっていた。だが、それでも今この瞬間だけは、少女は幸福だった。


「いや何、いいって事だよ。私ん所じゃ、若い女の子が一杯働いているんでな。年頃の女の子は割と大事にしているんだ。なんなら、君もうちで働くかい? 衣食住全部出すし、給料も結構いいと思うよ?」


 男としては、冗談半分のつもりだったのかもしれない。けれど少女に取って男の誘いは、二度めの天啓にも等しかった。


「やります!」


 その日の飯代を確保する事はおろか、まともに眠ることさえ困難な生活をしていた少女は、二つ返事でOKした。断る理由がなかった。

 そうして少女は、男の経営する風俗店で働き始めた。

  

 仕事は、驚くほど簡単だった。自分を触りもしない中高年の男達の話を聞き、ただ頷く。それだけで、何ひとつ不自由ない生活を送る事が出来た。


 始めは、驚愕の嵐だった。なぜこんなにも簡単にお金が入るのか、さっぱりわからなかった。

 しかし、時間が経つに連れて、事情が呑み込めて来た。

 

 同い年か、少し年上くらいの同僚達は、男達の厭らしい視線を疎み、辞めていく事が多かった。

 少女に取っては、きつくもなんともない事だった。だが、どうやら彼女達に取っては、視姦されることは、耐えがたい屈辱だったらしい。

 

 ──別に犯されも殴られもしないし、ちゃんと食べて眠れるのに、何が不満なんだろ。変な娘達。 


 余りにも過酷な人生を生き抜いて来た少女には、もはや、まともな感覚が残っていなかった。

 

 彼女に取っては、命の危険なく食事を取り、眠って友人と話すと言う、普通の生活が送れる事自体が、奇跡にも等しかった。

 視姦程度で安寧が得られるなら、対価にすらなっていない。そう感じていた。


 店での仕事にも次第に慣れ、長続きする同僚達とも割合親しくなれた。少女は、生まれて始めて友人にも恵まれた。

 けれど、少女は幸せに成り切れずにいた。心のどこかに、警戒する気持ち、不安な気持ちが強く残っていた。

 

 ──殺されるかもしれない。


 下手に安定した生活が送れていたために、少女は却って疑心暗鬼に陥っていた。

 

 いつ、周囲の人間が豹変するかわからない。ひょっとしたら明日にでも、自分を虐げて捨てた親や、殴り殺そうとした憲兵団のようになるかもしれない。そう思うと、怖くてたまらなかった。


 穏やかな生活だったからこそ、逆に怖かった。落差によって受ける痛みは、位置が上がっていれば上がっているほど、強いのだから。


 少女は、どんなに親しくなりかけていても、素の自分を出すことは出来なかった。いつ裏切られてもいいように、上っ面の付き合いを続けた。

 少女の脳裏にはいつも、少女に視線をやることすらなく、ヒステリーに任せて怒鳴り散らす、母親の姿があった。

 結局少女は、ヒトというものが怖かったのだ。

 

 そして、少女自身もまた、古株に成り始めていた頃──彼女に三度めの天啓が訪れた。


「俺、今度新しい仕事を始めるんだ。職人達の仲介役さ。

 今職人達は、個々人か、せいぜい数名から十数名から成る工房が、独立して好き勝手に仕事を請け負ってる。だからそれらを連結させて、グループとして仕事を請け負う様にするのさ。

 グループとして仕事を請け負って、その仕事を最も得意とする職人に仕事を回す。もちろん、技術的に下位に属する職人にも、優先順位の低い仕事とかを回して、ちゃんと働けるようにするけどね。

 ノウハウも共有出来れば、仕事の質は上がるし。仕事自体も、今よりずっと効率よく消化出来るようになるんだ。

 グループに入らない奴は負けて行くから、皆加入する。注文する側も、どの職人に頼むか迷わなくて済むし、注文に最も適した職人を知る事が出来る。お互いに勝ち組になるわけだよ。一大網状組織って事さ。

 騎士達からの仕事も受注することも考えれば、きっと大儲けさ!」


 少女の固定客となっていた若い男は、酒を飲みながら、少女に向かって夢を説いた。

 

 学のない少女には、男が説明する仕事の内容は、今一つ理解できなかった。しかし、まだ若いと言って差し支えない男の語る野望は、少女にはとてもすごい物に思えた。

 何より──自分などに何度も指名を入れてくれる、自分よりも一回り近く年上の男が、とても格好よく思えた。

 

「す、すごいですね……私も手伝いたいくらいです」

「え、手伝ってくれるの? いいよ! 人手はいくらでも欲しいくらいだからさ。君、よく働いてくれそうだし、給料はここの倍を保証するよ! 今度、同伴で一緒に食事でもどう? おごるよ! その時に、詳しい話を聞かせてあげるよ!」

 

 一連の台詞は、その男が女を口説く際に使う、常套句に過ぎなかった。しかし、少女にそんな事はわからなかった。


 男の言葉を聞いて、少女はときめいた。ときめくと言う状態すら知らなかった少女は、自分でもよくわからないまま、男の言う事を、全て受け入れてもいいような気持ちになった。

 

 嬉しかったのだ。

 少女の送ってきた人生は、凄惨そのものだった。路上生活時代や、あるいは今の仕事のように、動物にも等しい扱いを受ける娼婦としてではなく、人としての活動を求められた事が、とても嬉しかったのだ。

 

 そして何より、少女に取って男は、とても眩しい存在に成り始めていた。

 

 今まで、金を払って身体を求められることは多かった。しかし少女は、単純な食事に誘われること、即ち逢引きの申し込みを受けた事は、今までに一度もなかった。

 それも──野望があり、人望も行動力もある、とても輝いている男性から、である。


 商売女としてではなく、一人の女として男性に求められた事は──少なくとも、少女自身にはそう思えていた──とても喜ばしい事だった。誇らしくさえあった。高鳴り続ける心臓の鼓動が、彼女の思考を停止させた。

 

 その瞬間、少女に取って男は、おとぎ話に出て来る、英雄だった。颯爽と現れ、窮地に陥った乙女を救う、白馬に乗った王子様、そのものだったのだ。


 その夜、少女は男に、生まれて始めての、恋をしたのだ。



「は? そりゃ君、騙されてるよ。そんな上手い話があるもんか。付いてった所で、絶対こき使われて捨てられるのがオチだよ」

 

 同僚達と賄いを食べた後、店長と出納の仕事をしている最中に、少女は話を切り出した。

 客の一人に仕事に誘われた。とても格好いい人だから、付いて行きたい。だから、辞めさせてください──と。

 

 その意思表明を受けて、店長──かつて死にかけていた少女を救った男である──が返した言葉は、素っ気ない否定だった。


「え、でも……すごく真面目で、優秀そうな人で……」

 言葉の上では、まっとうに反論した。けれど心の中では、暴風雨が吹き荒れていた。


 自分の中でも、わずかに疑念はあった。男の話が、出来過ぎているような気はしていた。だが──そんなに露骨に、指摘しなくてもいいんじゃないか。

 

 少女を死の淵から救った店長は、人格に多少難があれど、恩人だった。年の差もあって、少女の中では、自分を捨てた実の親よりも、ずっと親らしい存在になっていた。

 そんな彼が、自分を否定するのは──生まれて始めての恋と、自分の意志でした選択を否定するのは──かつて親が自分を捨てたのと、同じことだ。

 

 手の平から、汗が出て来ていた。脳裏に、自分に暴言を吐く母親と、博打に散在した挙句暴れるだけの父親が、鮮明に浮かんだ。少女の中で、店長と両親の像が、重なっていた。


 少女の中に、炎が猛り始めた。

 かつて親に虐待されたことを着火剤とした、憎悪と悲しみの火炎が。


「口と芝居の上手い男なんだろうさ。そう言う意味じゃ優秀かもしれないが、結果は同じだ。夢を語る奴ほど現実が見えていない。私ぁそう言う男に付いて行った挙句、使い捨てられる女を何人も見て来た。給料なら、少し上げてもいい。だから、そんなくだらない男に付いて行くのは止めときな」

 

 店長としては、軽い気持ちで言ったのかもしれない。けれど少女には、その言葉が、深く、限りなく深く突き刺さった。


 給料を上げるから──小銭をやるから諦めろ、と?


 少女が人生で始めて恋をした、憧れの男性。瞳を綺麗に輝かせながら夢を語る、素敵な王子様。

 生まれて始めて、自分の全てを差し出してさえ構わないと思えた、そんな奇跡の存在を──『そんなくだらない男』、だと?

 

「なに……それ……」

「ん? 何か言ったか? とにかく、そんな妄想語るクズの事は放っておいて、出納の続きを──」


 店長の言葉は、その意味する所は、もはやよくわからなかった。けれど、自分の大切な人を、クズと言った事だけは、はっきりとわかった。


 少女は、自分を否定した親を、心の中に住まわせ続けていた。そんな少女に取って、この瞬間店長は、もはや自分を捨てた親と重なる、唾棄すべき存在と成った。


 自分を否定する存在。自分に苦しみと痛みしか与えない存在。邪魔な存在。嫌いで嫌いで、憎くて憎くてしょうがない、居るだけで悲惨な気持ちになる存在。

 だから──


 殺す。


「なによそれええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!????」

 

 少女の中にあった憎しみと悲しみが、愛情への飢えと混ざり、爆発を起こした。元々ひび割れていた少女の心は、完全に壊れた。


 少女は、手近にあった包丁を手に取り、店長に向かって振り回した。店長の身体を切る感触が、何度も手に伝わって来た。


 店長は当然逃げるが、逃がすわけにはいかない。

 ここで逃がせば、またあの時と同じ事が起こる。店長は、自分を殴り、拒絶し、死んでも構わないと言う扱いをした親と同じ。ここで殺さなければ、また自分は命からがら逃げ出して、路上に這い出るしかなくなる。

 

 ──駄目! それだけは絶対に駄目!

 

 冷静さを完全に失った少女は、過去のフラッシュバックと現在目の前にある光景が、完全に混ざり合っていた。

 

 少女の中で、店長はもはや、単に自身を否定した者ではなく、滅ぼすべき絶対悪となっていた。


「う、おおおおおおおおおおおお!?」

 店長が叫びながら、更に逃げる。少女は追い続ける。


 恐怖とパニック、そして溢れて出る不安を、全て店長への憎悪と害意へと置き換えた少女は、明確な殺意を以て、店長を攻撃し続けた。

 

 ──やっと! やっと幸せになれそうだったのに! また奪うの! また否定するの!


 少女を突き動かしたのは、幸福への飢えだった。

 今までに、誰かに必要とされた事の無い少女は、自分を認めることが出来なかった。だから、誰かに認めてもらいたかった。

 親に。親のように接してくれた店長に。あるいは、一人の女性として自分を求めてくれた男に。

 

 本当は、少女の周囲には、彼女を認めてくれる人はいた。同僚である友人達。あるいは、少女の許に足繁く通う、他の常連客達などだ。

 

 けれど、余りにも人を怖がり続けた少女は、それを拒絶することしか出来なかった。

 自分を対等と見る人と友達になるのではなく、自分を包みこんでくれる人に甘えることしか、少女には出来なかったのだ。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

「う、わあああ!?」

 

 少女の猛攻を受け続け、全身に傷を負った店長は、傷の痛みで集中力を欠き、後ろ向きに足を滑らせた。結果、控え室の床に、仰向けに倒れることになった。


 倒れた瞬間、店長は強く後頭部を打った。この時点で、彼はほとんど瀕死の状態だった。

 しかし、もはや自分でも感じ切れない、閾値を越えた感情に突き動かされた少女は、止まるわけがなかった。


「るあああああああああああああああああああああああああ!」


 少女は、渾身の力を以て、全体重を乗せて、包丁を店長の喉元に突き立てた。首の骨に包丁が当たる感触を、確かに感じた。


 店長の首元から、凄まじい量の血液が溢れ出た。しかし少女は、店長がどれだけ手足をばたつかせても、決して手を緩めなかった。手を緩めることは、そのまま自身の死に繋がるからだ。

 正気を失わせるほどの恐怖が、限界以上の力を、少女に与えていた。


 店長がぴくぴくと痙攣し始め、最後に全身を力を失い、全く動かなくなってもなお、少女は包丁を抜かなかった。抜けなかった。

 両の手のひらで柄をしっかりと握り締め、全身全霊の力で、店長の喉元に、包丁を押し込み続けた。

 

「は、は、は、は……」

 どれほど時間が経過したのか、自分でもわからない。

 気付けば、汗で濡れた髪が、頭皮にくっついていた。余りにも力を出し過ぎたためだろう、両腕が強く痛んでいた。


「あ、あ……?」

 ようやく冷静さを取り戻した少女の眼前には、目を見開いたまま全く動かない店長と、店長から流れた、血液の海があった。

 少女は、自分から血の気が引くのを感じた。


「い、や……何これ……? 嫌! こんなの嫌! 起きて! 起きてよ!」

 少女はそう言いながら、店長の死体を揺さぶり続けた。無論頭では、反応があるはずもないとわかっていた。けれど、身体が勝手に動いた。

 

 馬鹿な事をしていると、身勝手な事だと、自分でもわかっていた。でも、そうせずには居られなかった。現実を否定したいという想いが、理性をわずかに凌駕していた。

 

 感情を爆発させていた少女は、自分が何をしているかわかっていなかった。否──今でもわかっていない。


 感情的な自分が出て来て、そいつが殺しただけで、冷静沈着な自分がやった事じゃない。いや、でも、客観的に見れば自分以外の何者でもないわけで──じゃあ、これは誰がやったの? 私? 私じゃない私? あれ?

 

 少女は、混乱の極地に居た。出口の無い迷路のような思考が、少女の頭で展開され続けた。


 元々少女は、今までに味わって来た、途方もない量の苦痛を、自分とは切り離す嫌いがあった。

 ああ、何か私苦しんでるわ。そんな風に、自分を客観的に見る事で、感情から意識を解離させてしまっている部分があった。そうすることで、自分を守っていたのだ。


 故に、目の前にある光景が、自分の手で作られたものだと、俄かに信じることが出来なかった。自分ではない自分がやった事だと、心のどこかで思っていたのだ。

 けれど同時に、元々感情とは切り離されていた冷静な頭脳は、現実を簡単に分析する。


「どう、しよう……どうすればいい……?」

 少女は、自分の為すべき行動を考えた。


 一番始めに頭に浮かんだのは、出頭だった。憲兵団に対し、自分の犯した罪を告白し、自首して捕まえてもらう事である。

 自分は悪い事をしたんだ。だから罪を償わなければならない。自分を責める思考が、真っ先に現れた。

 

 親への恐怖を、ずっと抱き続けた少女は、普段から、誰かが望む行動を取る事を、至上命令として自分に課していた。しかし、少女自身は、本当はそんな事を望んではいない。

 

 逃げたい。殺人犯として捕まりたくなんてない。ようやく幸せの尻尾も掴みかけているんだ、こんな所で捕まって溜まるか。そんな気持ちもあった。

 

 でも、そんな事をしたら親はもっと怒る。私を殴り、侮辱し、凌辱し、否定する。それは嫌だ。子供のまま残っていた自分が言った。


 じゃあ捕まるのか。男からの誘いはどうなる。自分を救ってくれる英雄は。彼に相談するのはどうか。駄目だ、そんな事をすれば拒絶される。なら、一体、私は──どうする?


 「良い子」であろうとする子供の部分と、自身の欲望を満たそうとする大人の部分が、彼女の小さな身体の中で、戦っていた。戦場となっている少女自身は、心身ともにぼろぼろになりつつあった。

 

 頭が痛い。心臓が痛い。身体中が破裂しそうだ。吐き気もする。消化器官が狂っているのがわかる。糞小便を漏らしそうだ。苦痛の余り、自分の首筋をひっかき、切り裂いてしまいそうになる。


 この場に誰もいなかったために、少女自身が確認することは出来なかったが、少女は、もはやまともに会話することさえ、出来ない状態に陥っていた。

 

 生命危機レベルのパニックを起こす中、少女はふと視線を落とした。論理的な理由があったわけではない。女特有の、第六感のようなものだった。


「あれ、は……」

 見覚えがあった。おそらくは持ち主が、店を出る際に落としたのだろう。

 金属製の球体に、長く、太めの針が付いたような髪飾り。異世界から来たという同僚が、いつも身に付けている物だった。


 少女は、彼女の事を慕っていた。彼女もまた、少女を実の妹のように可愛がってくれていた。


 客で来る男の事は、脳と筋肉の付いている棒くらいにしか思っていない、なんて事を言っていたけれど、少女にはとても優しかった。同時に、とても凛々しくて、頭も良く、何よりも心の強い女性だった。

 

 彼女が男性であればと、どれほど思ったかわからない。憧れてさえいた。それだけ少女は彼女の事を想っていた。そして今、少女の眼前には、彼女がいつも身に付けている物が──物的証拠が、転がっていた。

 

 悪魔のような閃きが、少女の頭をよぎった。

 

 もしもこれが、血にまみれた状態で、死体の下から発見されれば──彼女がやった事だと、周囲は考えるかもしれない。

 

 ──何を考えているの!?


 自分自身の考えに、その残忍さに、自分で驚いた。

 

 次いで心の中で、少女の自身を縛る部分──少女の親となってしまっている部分──が、金切り声を上げた。誰よりもお慕いしているお姉様に罪をかぶせるなんて、許されていいはずがない!

 

 しかし、少女の中にある欲は語る。

 だからどうしたの。自分の身が一番大事。人の身などを案じれば、ただ喰われるだけ。本当に嫌と言うほど、身を以て学んだ事でしょう。

 

 いや、でもお姉様は私に優しくしてくれた。そんな事関係ない一生檻の中に居る気なの。でも素敵な人自分が窮地なの男はどうするの英雄ヒーローそんな馬鹿などうせ夢物語に決まってる馬鹿自分で自分を否定してどうなるのお姉様は店長の言う事は一理ある夢は大事あんた何がしたいのわからないしかしけれどお姉様は私は男は店長は──。

 

 少女の中を巡り続ける葛藤は、言葉の濁流となって、少女の平静さを押し流し続けた。少女はもはや、自分が何を考えているのかさえ、わからなくなっていた。

 

 間が悪い、という言葉がある。きまりが悪い、あるいは運が悪いという言葉だ。その言葉が、この場この時の少女に適したかどうかは、誰にもわからない。


 間が悪いのか、あるいは間が良かったのか──とにかくその時、少女はふと顔を上げ、そして見てしまったのだ。

 採光窓から差し込む、柔らかな月の光を。その光が照らす、開かずとさえ謡われた、頑強な金庫を。

 

 いつも自分が、出納の仕事を手伝う際、店長はこの金庫を開け閉めしていた。とても不思議なやり方で開くので、おそらく店長が自分で開発した特殊な魔法なのだろうと、勝手に解釈していた。

 

 もしも、その魔法が、店長が死んだ後でも働くのなら──色々な問題が、一度に解決する。

 少女自身は決して認めなかった、少女の中にある悪意が、再度口を開いた。

 

 これなら、誰にも知られる事なく凶器を隠す事が出来る。同時に、金庫の中にある大金すらも手に入る。

 それだけの金があれば、男は喜ぶだろう。自分の方に振り向かせるには、格好の餌だ。

 どうせ開け方は、店長以外なら自分しか知らないのだ。眼球を抉っておき、ほとぼりが冷めた頃にこっそり凶器を回収すれば、誰一人自分を疑う事は無くなる。


 少女の、元々回転の悪くなかった頭は、自分から疑いを晴らすための策略を、自身を幸福にするための謀略を、見事に構築して行った。

 

 ──駄目! そんな事を考えては駄目!


 少女の中、なお残る『子供』の部分──保身の形をした正義感──が、抵抗を続けた。

 ヒトならば、誰しもが生来持つ黒さが、心の中にじわじわと広まって行く中で、少女は、なおも白くあり続けようとしたのだ。

 

 だが、最後に少女の脳裏によぎった映像が、決め手となった。

 

 少女は、親に捨てられ、路地裏と言う、金をもらって犯罪を犯し、金で身体を差し出す世界で育った。だからこそ、少女は知っていた。


 金は、自分を守ってくれる。金があれば、食べ物も寝る場所も手に入る。金を払えば、人も動かせる。金さえあれば、この世の大半の物は手に入る。それは即ち、幸福に至る事も容易になると言う事でもある。


 金は──力だ。

 

 頭に浮かんだのは、店長が金庫の中に仕舞っていた、売り上げの映像だった。極貧の生活を送り続けた少女からすれば、目もくらむような大金だった。


 金。大金。自身を幸せに換える事の出来る、魔法の概念。

 それがあれば、命が手に入る。もうおびえなくていい。死ななくて済む。私は幸せになれる。男にも喜んでもらえる。親にさえも認められるかもしれない。


 金さえあれば、金さえあれば、金さえあれば、金さえあれば私は──!


 少女は、今までの人生でずっと、正しい事をしようとしていた。親に褒められ、認められるために。他人から虐げられないために。

 自分を否定しても、どんなに苦しむことになっても、ずっと正しくあろうとしていた。


 生きるために犯罪を犯し、明らかな矛盾を感じても、他人を傷つけ、迷惑をかけることで、身体の芯が震えても──それで自身の心身を苛むことになろうとも、ずっと正しくあろうとしていた。

 

 ただ、安心したかった。

 あるいは、ただ、怖かったのだ。


 けれどその瞬間、ほんの一瞬だけではあっても、少女は変わった。少女を覆っていた、正しさと言う欺瞞──その全てが吹き飛んだ。

 心が、一つとなったのだ。

 

 ただ、生き延びたいと、生きていたいと、心から望んだために。


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