第三章
3
翌朝目を覚ますと、採光用の窓から、朝日が部屋に差し込んでいた。目ぼけ眼をこすりながら周囲を見渡せば、店長が昨日と寸分たがわぬ姿勢で、毛布の中で丸まっているのが視界に入った。
「……おはよう、店長」
返事がない、ただの屍のようだ。
……流石にブラックが過ぎるかな?
閑話休題。
店長の死体を視認したことで、状況が昨夜から何ひとつ変わっていないことも、確認出来た。
いや──より厳密に言えば、昨夜よりも悪くなっている状況を、だろうか。
何しろ、今日の夕方には『上の人』が来店し、判決が出るのだ。それは実質、今日の夕方が、あたしにとってのタイムリミットでもあるということだ。
しかし、頭に状況打破の妙案があるわけでは、もちろんない。
「……くそ」
頭が覚醒して行くに連れ、、苦虫をかみつぶしたような気持ちが溢れて来た。自然と悪態が洩れ、奥歯を噛みしめてしまう。
ドン!
遠慮という言葉を、父親の睾丸に置き忘れてきたかのように轟音を立てて、副店長が控え室に入って来た。
「起きてたか。まぁ、今日がヒトらしい暮らしの出来る、最後の一日だからな、長く過ごしたくもなるだろうさ」
あーマジこいつぶち殺してぇ……という本音は、やはり胸の奥に仕舞いこむことにした。仕舞いこむだけで、決して失くしはしないけれど。
無罪を証明出来るにしても出来ないにしても、判決が出た瞬間なら殺してもいいだろうから、それまでの我慢である。
……ん? ちょっとだけ論理が破綻してるかな?
「今日一日、俺はフロアで事務仕事をしている。足の手錠は外さないから、逃げようとしても無駄だ。この部屋の中でなら自由に過ごしていいから、せいぜい生涯最後の自由を満喫するんだな」
今日は店が休みの曜日である。本来なら副店長も、上の人達が来る夕方までは出社する必要がない。だが、あたしの監視をしつつ、昨日やり損ねた分の仕事を消化する腹なのだろう。
「……」
「ぐうの音も出ないか? まぁそうだろうさ」
無論、反論を思い付かなかったのではなく、昨夜同様、返事をする事さえ億劫なので、黙っていただけである。
しかし、あたしの沈黙を肯定と受け取ったのか、副店長は少し上機嫌になっていた。そのまま彼は、仕事に必要な筆記道具や書類を持って、部屋を大股で出て行った。あーマジむかつく。
「……ふぅ」
再び一人になったあたしは、人知れず、またため息を吐き出していた。昨日、冤罪の告知を受けてから何度目のものになるのか、もうわからない。
今までの人生で、自分自身が心から望んだことを諦めたことは、一度も無い。けれど、今度ばかりは、ほんの少しだけ心の根が揺らいでいた。
「……動こう」
自分に言い聞かせるように呟いた。
じっとしていても事態が好転しない事は、火を見るよりも明らかだった。ならば、出来得る限りあがく。
最後の最後まで、己の欲を満たし、自らの意志を貫く事を諦めない。どんな時でも、勝つ事と気持ちよくなる事を諦めず、思考を止めない。生きる上で、あたしが信条としていることでもあった。
あたしは、睡眠をきっちり取ったと言うのに、妙に重たく感じる身体を、無理やりに動かした。自分の無罪を証明するため、再び動き出したのだ。
* * *
腹が減っては戦が出来ぬ。名言にして箴言な格言に従い、あたしはまず腹ごしらえを企てた。
朝食にスープでも作って食べようと、簡易キッチンへと足を運んだ。しかし、おそらくは副店長が隠したのだろう、備え付けの包丁(ちーちゃんがよく使っている奴である)はおろか、ナイフ一本見つけることも出来なかった。
魔法を使えないあたしに──仮に魔法が使えても、この世界の魔法は、それほど細かい作業が出来るわけではないが──道具を使わずに料理をすることは、不可能である。必然、腹の虫が眠りにつくこともない。
泣きっ面に蜂とはこのことか……と、ただでさえダウナー気味だった気分が、更に落ち込みかけもした。そして、やっぱり副店長に対して、軽く殺意も沸いた。
「仕方ない」
しかし、ここで落ち込んでいては、いよいよあたしに勝ち目は無くなる。あたしは低迷の様相を呈しかけた気分を、顔を左右に動かして振り切り、思考を切り替えた。
その辺に転がっていたパンだけを掴み、ぽいっと口に放り込む。そして、大して味わうこともなく(どちらにせよ冷たくて固くて、大して旨い物でも無かったが)、咀嚼と嚥下を終え、すぐさま捜査を再開した。
死体の状態を確認しつつ、昨日死体を発見した状況を思い返す。現場の様子を、昨日よりも更に細かく観察してく。そして、今現在持っている情報群から、知力の限りを尽くして、もう一度論理を構築して行く。
あたしが犯人でない以上、誰か他の人間が店長を殺害したのは間違いない。では、誰が、いつ、どのように、そしてなぜ殺害したのか。
5W1Hの内、ある程度でも確定しているのは、殺害の場所くらいである。凶器すらはっきりしない状態で、真犯人を導き出すのは、困難を極めているとすら言える。
だが──だからこそ、考え、そして動く。証明に結びつくであろう情報を求めて、あてどなくひたすらに、捜索の荒野を彷徨い続ける。
凶器はそもそも何か。これ位は推測が出来る。傷口から察するに、ナイフのような短い刃だろう。
では、その短刀はどこに行ったのか。わからない。
どこから来たのか。犯人が持ち込んだのか。わからない。
使用後は、犯人が持ち帰ったのか、あるいは破壊したのか。それもわからない。
トリックがあるのか。わからない。ダイイングメッセージの類はないか。ない。怨恨に心当たりはないか。嫌っていた人間は多かったが、殺意とまでなればわからない。
真犯人は結局誰か──この状況下で、たったこれだけの情報で、わかるわけがない。
複雑に絡み合った論理と言葉が、泉の如く溢れて来ては消えて行く。
あたしは、自分で思い付いた推理のきっかけを、自分で否定することを繰り返していた。
やむを得ないとは言え、重く濁った底なしの泥沼の中で、目的地もはっきりしないままに、ひたすら手足を動かし続けているような気分になってくる。
端的に言って、あたしは迷走していた。そして迷走は、事態を解決しないまま、悪戯にスタミナだけを奪って行く。
「……くそったれめ」
歯を食いしばったまま、ぼやく。しかし、時間制限から来る焦燥と絶望感は、全身を襲い続けている。
諦めない。絶対に諦めない。おそらく、ヒトというもの自体そうなのだろうが、あたしは自分の幸福を諦められるように、出来てはいない。それはもう、生きる事を放棄するのと同じなのだから。
心の周縁部全てを囲う諦観に対し、わずかに残った可能性と言う名の希望が、抵抗を続けていた。どんなに苦しくとも、止まることは絶対にしない。
思考する。思考する。思考する。状況を観察し、既に手元にある情報を再度確認し、また思考する。
額から汗が溢れ、頭に痛みが走っていた。酸素が不足し始めた脳が、休息を求め、休暇を訴えていた。それでもあたしは、ひたすらに思考をし続けた。
後から後から湧いてくる焦燥と、理不尽に対する怒りと悔しさが、限界を超えて、頭を動かし続けていたのだ。
* * *
「……見つからない」
控え室をひっくり返すように捜査を続け(副店長が何度か見にも来た。だが、あたしが捜査をしているだけだとわかると、勝ちが半ば決まって気が緩んでいるのか、うすら笑いを浮かべて部屋を出て行った)、気付けば日が暮れようとしていた。採光窓から、赤みを増やした陽光が、差し込んでいた。
とどのつまり──あたしの、人生を賭けた勝負での敗北が、決まろうとしていた。
胸の内は、圧倒的な悔しさで、溢れ返っていた。
「くそ、ったれめ……」
口を突いて出る悪態、その台詞自体は繰り返しだった。しかし、確実に言葉から力は失われていた。しがみついていた仄かな光明が、消えかけていたからだ。
敗北。有罪。流刑地送り。そんな単語だけが、頭の中を流れ続けた。
「あたしが殺人犯、か……」
あたしは今までの人生で、殺人を犯したことはない。どれだけの窮地に陥っても、身体を売ってもむかつく奴をぶっ飛ばしはしても、人殺しだけはした事がなかった。
けれど、それを証明する事が出来ない。りっちゃんとベラ姉とちーちゃんと、そしてこの世界全ての人の疑いを、晴らすことが出来ない。
自分に襲来する余りの理不尽と、それに抗おうとする自分の無力さが、あたしを苛んでいた。
「終わりかな……」
終わり。自身の終わり。望みの潰え。絶望。
あたしは、自身の終焉を受け入れる言葉を、生まれて始めて口にした。今までは、絶対に口にしなかった、口にする事を良しとしなかった類の、台詞だった。
心を席巻し始めている無力感から生まれ、自然と口から洩れた嘆きだった。自分の顔が、自嘲気味に、力なく笑っているのがよくわかった。
ここまで、本当によく頑張った。誰にもすがることなく、誰にも由ることなく、本当によく戦い抜いた。
そんな、溢れ出る絶望と代替するかのように出て来る、自分を慰めるための言葉が、幽かに頭をよぎった──その瞬間だった。
「ハ、ハナヤカさんは、殺人犯なんかじゃないんだな」
聞いたことのない声だった。少なくとも、この瞬間のあたしには、そう思えた。
台詞が、自身の心境と余りにもかけ離れていたために、興味よりも疑念が湧いた。反射的に、声のする方に、力なく視線を向けた。
そして──目を見開いた。
「あんた──乳首マニアの」
おおよそ三十路ほどの、かなり太った眼鏡の男──つまりは、週に三度は通ってくるあたしの常連客──が、金庫の後ろにある、採光用の窓からこっちを見ていた。
正直、全く予想だにしない人物だった。
なぜ、まだ店が開いてもいない時間に、こいつがいるのか。それもフロアではなく、控え室の、しかも窓の外なんぞに。
あたしは、自分が置かれている状況もしばし忘れ、ただただ疑問符を頭に浮かべた。
「あんた、なんでこんな所にいんの?」
頭の大半を占める疑問を、そのまま言葉にした。男は多少どもりながら、小声で説明し始めた。
「き、昨日、開店早々に入ろうと思って、開店時刻のちょっと前に来たら、副店長さんが、ハナヤカさんはもう辞めたって言ってたんだな。で、でも、一昨日までそんな様子はなかったし、とても信じられなくて……そ、その後から何度か、ここから様子を見てたんだな」
「様子を見に来てたって……」
この世界の法律に照らし合わせても、普通に犯罪である。だが、先が気になったので、ここは敢えて深く言及しないでおく。
「そ、そしたら昨日、副店長さんが、ハナヤカさんが店長さんを殺したって演説してたのも、聞こえたんだな。え、冤罪なんだな。ハ、ハナヤカさん、今日はずっとその部屋を動き回っていたし、きっと冤罪の証拠を探そうとして、でも見つからなくて、諦めて来ちゃったんだと思って、声をかけたんだな」
「状況は確かにその通りだけど──なんで冤罪だって言いきれるの?」
我ながら、悲しくなるような質問である。
だが、誰かがあたしの無罪を信じてくれることが信じられなくて、他のどんな感情よりも先に、また疑念が湧いてしまったのだ。
「お、一昨日の夜、店長さんが誰かと、言い争っているのを聞いたんだな。その後、暴れているような音と、店長さんの悲鳴も聞こえてきたし、き、きっとその時殺されたんだな」
「誰かって?」
「だ、誰かまでは、わかんないんだな。若い女性の声だったのは確かだけど、こ、この店、若い女性は一杯いるんだな」
「そりゃあまぁ……そういう店だしね。でも、その声があたしじゃないって断言出来るのはなんで?」
「た、例え壁越しでも窓越しでも、ハナヤカさんの声は間違わないんだな!」
と、男は右手の親指を立てながら、思い切りドヤ顔で言った。
本人は決め顔のつもりなんだろうし、事実救われもする。だが、台詞がストーカーっぽ過ぎて、割と台無しだ。
まぁ、あれだけ何度も何度も耳元で喘ぎ声を聞いていれば、声質ぐらいは覚えるか。
「ん? でもあたしが店に出なくなったのは、昨日からだよ? なんであんた、一昨日の夜から聞き耳立ててたわけ?」
「ぼ、僕の仕事先と家、ここの隣なんだな。住み込みで働いているんだな。の、覗き始めたのは昨日からだけど、声だけなら、いつも聞こえてたんだな」
言いながら男は、隣を指さした。男の指さす先にあったのは、確かガラス系の工房だったはずだ。
例えば、男の身に付けている眼鏡や、あるいはガラス細工のような、繊細な熱処理を必要とする工芸を、魔法のみで行うのはかなり難しいとされている。
ガラス細工を専門とする職人は、数えきれない反復練習で身に付けた身体的な技能と、同様に円熟した魔法技術を併用させて、その作業をこなして行く場合がほとんどなのだ。
しかし隣の工房には、魔法だけで作品を作る、極めて熟練した魔法技師が、何人もいると聞いたことがあった。
「へぇ……じゃああんた、割と腕のいい職人さんなんだ」
あたしは多少の驚愕と、感心を込めて言った。
この国の職人稼業において、力量と収入は比例すると言っても過言ではない。有名な工房に所属している職人なら、週三で風俗通いをしても、まだ給料は残るのだろう。
ついでに言えば、隣に住んでいれば、通うのも楽だったわけだ。
「ぼ、僕はまだ下っ端なんだな。でも、ハナヤカさんとプレイするために、頑張ってたんだな……」
男は自分の台詞に照れたらしく、身を縮め込めた。その風体で「風俗通うために頑張ってた」って告白を、乙女のように身体をひねりながらされても、正直シュールさしか感じねぇ。
「と、とにかくハナヤカさんは殺人犯なんかじゃ、絶対ないんだな! 僕が証言するんだな!」
「──」
男は、拳を強く握りながら言った。おそらくどもりが癖になっているのだろうが、この時ばかりは噛むこともなく、大きく口を開けて、はっきりと言い放った。
繰り返そう。男は三十路程度で、かなりの肥満体形だ。おそらくは、男自身が作ったのだろう、分厚い眼鏡をしていて、プレイの時はもちろん、平常時さえも汗だらだらのような男だ。
どう言い繕ってみても、イケメンだとは言えない。街中で会ったとしても、十人中九人はスルーし、残った一人は気持ち悪がりさえしそうな風体だ。
しかし、男はその顔に、自信満々の笑みを浮かべていた。あたしを鼓舞するため、そして自分があたしを心から信じていることを、強く訴えるためだろう。
だからこそ──
「……ぷっ、あはははは!」
あたしもまた、思い切り笑ってしまった。
誰も味方がおらず、友達だと思っていた人達からすら信じてもらえず、孤立無援の捜査という戦争を、たった独りで戦い抜き──あまつさえ敗北と絶望を、受け入れかけていた。
そんな時に、ただ一人あたしを信じ、誰よりも力強く励ましてくれたのが、週三で風俗に通う、冴えない中年一年生だったのだ。
どうしても、胸に込み上げて来る嬉しさよりも、笑いを誘うシュールさが先立ってしまう。
「あ、あははは?」
男は、あたしの爆笑の意図が掴めなかったのだろう。中途半端に拳を掲げたまま、曖昧な笑いだけを返していた。
しかし──本人は想像だにしなくとも、男はあたしに取って、この上ない救いになっていた。
男のおかげで湧き出た大笑いは、あたしの心に詰まった重いものを、削り取ってくれたのだから。
「あはははは、あーおかし……!」
一頻り笑い終えた時点で、あたしは覇気を取り戻していた。先程までの消沈していた気分など、便所にでも流したかのように、どこかに行ってしまっていた。
これでまだ、戦える。
「いや、笑ってごめん。ありがとーね、お客さん。おかげであたし、ちょっと元気出たわ! もし無罪が証明出来たら、お礼にたっぷりサービスするよ! 指入れくらいならいくらでもオッケー!」
「お、お礼……とかはいらない、ですけど」
「ん?」
「名前、教えて、ください」
男は、またおどおどした態度に戻ってはいたが、これまたはっきりと言った。はっきりと言われたからこそ、あたしは面食らってしまう。
「……? 知ってるっしょ? っていうか、さっきから何度も呼んでるじゃん。ハナヤカだよ」
「そ、そうじゃなくて──本当の、名前」
「……ああ、そう言う意味か」
あたしは男の説明を聞いて、合点が行った。そして同時に──ほんの一瞬だけ、少し哀しい気持ちにもなった。
『乳揉み酒場』に限った話ではないが、風俗嬢は店に出る際、偽名を使う。所謂源氏名という奴だ。
職務の内容上、プライベートの知り合いに仕事を知られたくない、というケースが多いためだ。他にも、本名を使ってしまい、そこから身元を突きとめられ、どこそこで働いていることをばらされたくなければ……! と、脅して来る輩対策でもある。
りっちゃんもベラ姉もちーちゃんも、それぞれに本名とは別の名前を持ち、嬢として働く際はそちらを使っているわけだ。
しかし、あたしは──
「『ハナヤカ』は本名だよ。漢字──って言ってもわかんないだろうけど、花に華と書いてハナヤカ。不穏時花華。それがあたしの名前」
この世界に飛ばされた際、あたしは役所では別の名前を登録した。この名前は、この世界では珍し過ぎるし、使い勝手も非常に悪いためだ。
今では、プライベートではほとんどそちらを使っている。『ハナヤカ』は、今となっては偽名よりも意味のない本名なのだ。
だからこそ、敢えて『乳揉み酒場』で働く際は、そちらを使っていた。呼ばれ間違いも起きないし、『ハナヤカ』から個人情報から露見する恐れも、まずないからだ。
半端な本名なので、いっそ店にいる間は統一しようと思い、同僚である嬢達からも、『ハナヤカ』と呼んでもらっているのである。
けれどこの場は、あえて元の名前を名乗った。使い始めて半年やそこらの名前を言うよりも、生まれてからずっと使っていた名前の方が、おそらく男の知りたい名前だと思ったからだ。
生まれ故郷では、色々ときつい思いもした。けれど、故郷である事には違いない。ほとんど捨ててしまった本名を名乗ったことで、もう帰れない故郷と、悲しい思い出を一度に思い出し、少しだけ、ほんの少しだけ、憂鬱になったのだ。
「ハナヤカ、さん……」
男は、あたしの名前を呟き、空を仰いでいた。何やら呆然としていて、会話もそこで止まってしまった。
あたしはそんな男の様子を見て、頭に疑問符を浮かべた。だが状況を思い出し、すぐに思考を切り替えた。
もう、タイムリミットまで一刻の猶予もないのだ。『上の人』達が来るまでのわずかな間に、無罪を証明する、決定打となる証拠を見つけなければならない。
闘志こそ湧いたものの、同時に焦燥も復活していた。再び湧き出て来た冷や汗が、顔の横をなぞった。
もう、他の事にかまけている余裕は、一秒たりともない──!
「ん?」
そうして気合いを入れ直し、思考を再開した、その瞬間だった。
「これって……」
あたしと、窓の外にいる男との間。そのわずかなスペースに鎮座している金庫──かなり頑強に出来ていていて、それこそ達人級の魔法技師でも、作ることも壊すことも難しいとされている──に、あたしの視線は釘付けになった。
正確に言えば、金庫の上部、採光用の窓から差し込む太陽の光が当たる部分に、である。
そこに宛がわれているパーツに、見覚えがあった。
見覚えがあったし──何より、強烈な違和感があったのだ。
有体に言って──「なんでこれがここに?」という疑問である。
「……」
あたしは、指を唇にあてて、首をやや下へ傾けた。思考に没入する時の、あたしの癖である。
視野は男の胸部辺りだが、視覚はまともに働いていない。代わりに、紡いでいく考えが、頭の可動範囲のうち、大半を占めていた。
もしも〈これ〉が、あたしの予想通りのものだったなら──だとすれば、これを金庫に使っていた店長の意図は──これだけ探しても見つからない凶器──血にまみれて、死体の下に落ちていた簪──死体に付いていた、いくつもの傷──抉られた左眼──。
いくつもの情報が点となり、点と点をロジックを駆使してつなげていく。演繹と帰納の繰り返し。繰り返し。繰り返し。それらの思考は新たな点をキャンバスに穿ち、落ちて来た点に向けて、既存の点から、また更に線を描いて行く。
最後に──事件の全体像という、あたしが欲して止まなかった絵画が、出来上がる。
興奮と冷静さ。そして驚愕と怒り。いくつもの感情があたしの中で、同時に高まっていた。
その中でなお、あたしは思考が続ける。これは、最後の最後まで読み解かなければいけないものだ。
例え最後に、どんな事実があったとしても、しっかりとこの両目で見届ける──。
「もし、これが真相なら──」
トリックの結論まで思考が行きついた時点で、あたしは、はっと顔を上げた。
あたしの考えが当たっているなら、『上の人』達が来る前に、一つだけ検証しておくべきことがある。
「お客さん! ちょっと手伝って!」
検証には、男手があった方がいい。あたしは、先程の感謝も一時忘れ、窓の外で置いてけぼりを食らっているだろう男に、援助を要請した。
だが、ふと視線を向けた男は──正確に言えば、男の行動は──洪水の如く噴出していたあたしの感情を、堰止めた。
全く、本当に全く、想像だにしなかった行動だった。夢にも思わなかった言動と言ってもいい。何がどうしてそうなんのと、突っ込みを五回は入れたくなるような、突飛な為業だった。
男は、その大きな手で、小さな箱を握りしめていた。箱は、あたしの方向で開かれており、中には柔らかそうなスポンジが詰まっていた。
スポンジの中央部には、輝くような指輪が収まっていた。その光沢は、見事としか言いようがない。おそらくは眼鏡同様、男自身の手で作られたのだろう。
そして指輪には、大粒で高級そうな宝石が嵌められていた。どこをどう見ても、三流職人がガラスを加工して作ったような安物ではない。
「ハナヤカ、さん」
男は、つい今しがた知った、あたしの本名を口にした。そしてあたしに向かって、その手に持った指輪を、突き出して来た。
知った時はそれなりに驚いたが、指輪というアイテムが示す意味は、この世界でも、あたしが元々いた世界でも、さほど変わらない。特殊な意思──特に男女間のそれを現わす際に、使うものだ。
更に言うなら、あたしは、この期に及んでも男の意図を読み取れないほど、ぬるい女なわけでもない。
「結婚してください」
男は言った。はっきりと言い放った。
聞き間違いじゃない。確信出来た。男の、高揚と興奮で輝いている瞳が、そう言っていたからだ。
あたしは、驚いた。
ああそうか、こいつずっとあたしに惚れてたのか。だからずっとあたしに指名を入れてたし、あたしの声は間違わないと、どや顔で語っていたのだなと、頭の片隅で納得もしていた。けれど──同時に、とても驚いた。
最悪レベルな苛立ちと悲しみを押し付けて来る冤罪も、それを晴らすチャンスが回って来た高揚も、全て吹き飛んだ。それほどまでに、男の決意は、あたしに取って意外だった。
でも、ちゃんと言わないと。
あたしは自分に言う。
心に氾濫するかのように出て来る感情を、ちゃんと口にしないと。でないと、こいつが不憫過ぎるじゃない。
あたしもまた、意を決した。覚悟を決めた。
おそらく男は、あたしの何倍も強い覚悟を以て、普段よりも何十倍何百倍も緊張して、このプロポーズを口にしたのだ。その証拠に、汗が普段よりも三倍は出ているし、息なんか十倍は乱れている。
おそらくは尋常でない小心者だろうこいつが、人生で一番かと言うくらいに漢を見せた志に、その心意気に、真っ直ぐな返答を返さずして、何のための女か。
あたしは、固めた決意を崩さぬよう、にっこりとほほ笑んだ。
ここに鏡はないし、あたしは男ではないから正確にはわからない。けれど、おそらくあたし史上、最高レベルの可愛さと綺麗さを持った、素晴らしい微笑みだった事だろう。
男の、決死の覚悟でしただろうプロポーズには、それだけの価値があったのだ。少なくとも、あたしにはそう思えた。
あたしの微笑みを見て、男もまた、微かに口の端を吊り上げる。きっと、あたしが了承したのだと思ったのだろう。
だからこそ、言ってやる。ああ、確かに口にしてやるとも。
そしてあたしは、男の告白を聞いて、この胸に、男が好いて止まなかった自慢の胸に、凄まじい驚愕の後、土石流の如く漏れて来た想いを、感情を、気持ちを──口を大きく開けて、舌を力強く動かし、決して聞き間違いのないようにはっきりと、空気の一揺れからすら気持ちが伝わるように心がけながら、この上なく簡潔な一言に乗せて──言葉にした。
「一昨日来やがれ」