第二章
2
翌日。あたしは、昨夜ちーちゃんと約束したように、キッチンに溜まった洗い物を済ませようと、普段よりも早めに出勤した。夜の女に似つかわしくないことに、まだ陽が沈みかけてさえいない時刻だった。
この時間なら、いるとしても店長ぐらいだろう。後はせいぜい、昼間に他の仕事をしている嬢が、仕事の時間まで、フロアの椅子で昼寝をしているぐらいか。
だが、今日シフトに入っている面子から考えて、後者の可能性は低い。
「こんちゃーす」
なのであたしは、寝ている人間などいないと見て、普通通りに元気よく挨拶した。案の定、返事は帰ってこない。
さっさと洗い物を済ませようと、誰もいないフロアを横切り、控え室へと直行した。そして、少しばかり、目を見開くはめになった。
予想通り、店内に昼寝をしている人間はいなかった。けれど、横になっている人間ならいたのだ。
具体的に言うと、店長がそのでかい図体を隠しもせずに、控え室の床に倒れていた。
店長の倒れている床には、大きな血だまりが出来ていた。乾き切ってはいるが、おびただしい量の血液だ。もしもこれが、一人の人間からの出血によって形成されたのだとしたら、そいつは明らかに致命傷を負っている。そう確信出来た。
そして──店長は、肌という肌から血色を失っていた。顔は青を通り越して灰色であり、顔の左側の眼球など、完全にえぐれていた。棚子を失った眼窩には、ただ暗い闇だけが漂っていた。
首筋には特に大量の血痕がこびりついており、よくよく見れば、大事な血管を傷つける形で、ぱっくりと刺し傷がついている。
端的に言って──店長は、死んでいた。
「……いや、いきなり死ぬなよ」
驚いた拍子で、思わず死体に鞭を打ってしまった。あたしも、風俗やそれに準ずる働き方をしてそこそこ長いけれど、女王様プレイは一度もしたことがないと言うのに。
我ながらブラックなネタである。この店長、嬢達からは賛否両論の評価だったが、ちゃんと残業代だけは払ってくれていたのに。
「お、おい!」
突如として後ろからかけられた声に、反射的に振り返った。視線の先では、おそらくたった今出勤したのだろう、顔を驚愕の形に歪めた副店長(三十五歳♂)が、あたしを指さしていた。
「お前それ一体……血だらけじゃないか! 店長、だよな……怪我か? いや、って言うかもうそれ、死んでるんじゃ──」
混乱しているのはわかるが、文章ははっきり組み立てて欲しい。こっちだって、それなりに心中はてんやわんやなんだから。
「お前か?」
「は?」
ようやく副店長の紡ぐ文章を聞き取れはしたが、意味は読み取れない。自分の眉がひそまるのを感じた。
一体、なんのこっちゃ。
「お前が店長を殺したのか!」
「ちゃうわ!」
唐突に着せられた濡れ衣で、一気に気が動転し、出身地のものですらない訛りが出てしまった。なんでそうなる!
「ええい、弁解など聞く余地はない! なんてことをしたんだ!」
「だからやってないっつーの! 人の話聞けよ! あたしもたった今ここに来て、死体を見つけたばっかだよ! っていうか、血ぃ乾いてんじゃん! 今あたしが殺したわけないじゃん!」
「どうせ夜の内に殺しておいたんだろ! で、俺に一番に発見させて、罪を着せるつもりだった! 俺がこの時間に来るのは知ってただろうからな! 違うか!?」
さっきまで極度に混乱していた割には、妙に回る舌と頭である。全く見当違いの上に、ひどい被害妄想ではあるけれど。
「冤罪を被せるつもりだったら、こんな早くあたしは来ないだろ……」
「問答無用だ! 全く本当になんてことを……! えらいことなんだぞこれは!」
取り付く島もないとは、この事だ。あたしは額に手をつき、呆れかえってしまう。
これは、結構まずい状況だ。
この副店長、基本的に不安症で、情緒が不安定な事が多い反面、思いこみが非常に強い。あたしが犯人だと一度決め付けた以上、思考を切り返ることは、たぶん行わないだろう。
その上──
「どうすんだよホントに! 明日の夕方には、『上の人』達が査察に来る予定なんだぞ! こんな不祥事知られてみろ! 下手すりゃ俺ぁクビじゃ済まんぞ! あーもう、人事管理だって上がやってるってのに……!」
頭の中にあるのは、店長の死を悲しむ気持ちでも、犯人を見つけようと言う義侠心でもなく、己の保身と出世のみと来た。普通にちょっと引くわ。
少し、整理してみよう。
まず、死体の第一発見者はあたしだ。次いで副店長が発見し、その際死体の前に立っていたあたしに、殺人犯の疑いを、確信レベルで持ったわけだ。
もちろんあたしはあたしが犯人ではないと知っている。しかし、科学という概念のないファンタジー世界では、鑑識もなければ、解剖による死亡時刻の推定も出来ない。
ルミノール反応すら使えない以上、科学に基づく調査によって真犯人を割り出し、かつそれを関係者に納得させるのは、不可能と言っていい。
となれば残るのは、被害者への怨恨の洗い出しや、関係者からの証言を集めてアリバイを崩して行くと言った、古典的な捜査くらいだ。副店長の疑念を解消させるには、パワー不足だろう。
「とにかく、お前はここを動くな! 憲兵団にも知らせるなよ! 奴らと『上の人』とは犬猿の仲なんだ、下手に知らせれば、俺の立場はもっと危うくなる!」
ここまで露骨に保身を明言するのは、逆に清々しくすらある。引きを通り越して、少しだけ感心してしまったくらいだ。
ちなみに憲兵団とは、この世界における治安組織である。軍の一部が、軍の職務と兼ねる形で担当しているのだ。
更に解説すると、『上の人』というのは、所謂暴力を生業とする連中のことだ。彼らは数多くの下部組織を持ち、そうした組織から上納金を受け取ることで活動し、もしくは直接生活の糧としている。
『乳揉み酒場』のような風俗店は、店自体が彼らの下部組織であるか、あるいは上納金を自主的に収めている場合がほとんどなのだ。そうすることによって、しょっちゅう起こる暴力沙汰に対する、用心棒をお願いしているのだ。そして同時に、同業者とのいざこざも防いでいるわけである。
当然、『上の人』達は、法に触れるか触れないかの瀬戸際で生きていることになり、憲兵団からは常に目を光らされている。もしも傘下にある風俗店の店長が殺害されたと知られれば、この上無い調査の機会を与えることになるだろう。
具体的に言えば、殺人事件の捜査という名目で、店自体はおろか、上位組織の隅から隅まで調べられるに違いない。家の窓際などとは比べ物にならないレベルで、埃がばっさばっさと出て来る事だろう。
そして無論、そんな事態を引き起こしたとなれば、責任問題なんてレベルじゃない。ワンチャン、責任者に対する報復にまで、事は及ぶ。
そんなわけで、今現在の状況は、保身大好き副店長からすれば、最悪なわけだ。下手をすれば、物理的に首が飛ぶ。
「もう一度言うぞ、お前はここを動くな! 明日の夕方までだ! 明日の夕方になったら、直接上の方々に引き渡す!」
「は? 引き渡すって何さ。連中の怒りを宥めるために、あたしの身柄と身体を差し出そうってこと? その人ら相手に、あはんうふんやれと?」
殺人の犯人を特定しておき、全てこいつが勝手にやった事ですと言って突き出してしまえば、再発は防いだという意味で、多少は自身に及ぶ責任は軽くなるかもしれない。副店長の思考は、そんな所だろう。
どちらにしろ、店長の死亡という事実はどうにもならないが、『乳揉み酒場』自体、法に触れるかどうかの瀬戸際で商売をしているのだ。スタッフに対して緘口令でも敷けば、外部に情報が漏れることはないだろう。
店長には家族もいないと言っていたし、『上の人』にしてみれば、死体の処理ぐらいはお手のものだろうしな。
で──犯人(と考えられている)あたし自身は、法ではなく暴力によって心身の自由を奪われ、『上の人』専属の性奴隷にされると、そーゆーわけだ。
まぁ、犯されるのは別にいいとして、無料でってのは面白くないかな。こちとら、将来の夫からすら金せびろうって決めてるんだから。
「その程度で済むか! 二十歳の女なんだ、魔法研究の人体実験なり極地での慰安婦なり、いくらでも使い方はある! 今夜一晩、『上の人』達が下す審決を、楽しみにしておくんだな!」
「死ねや!」
「うおう!?」
あたしが放った上段回し蹴りを、副店長はしゃがみこんで避けた。意外と反射神経があるな。
「何をする!?」
「あ、失敬。ちょっと殺意が沸いてしまって、つい反射的に」
あたしは誤魔化しとして、てへぺろっ☆ミ、と舌を出す。
「やっぱりお前が犯人だな!?」
もちろん違うが、この場合に限っては反論しづらいのが痛い所だ。
やれやれ。瞬間的に湧いた膨大な怒りの余り、反論の前に手が──否、足が出てしまった。殺人の容疑を晴らすために殺人犯になってしまったのでは、本末転倒だ。
ビークールビークール、苦しいが、怒りは一旦溜めておこう。こいつに生まれて来た事を後悔させるのは、事が落ち着いてからでも決して遅くはない……!
「と、とにかく今日は店から出るな! 一日中俺が見張ってるからな! 食うのも寝るのもここでしろ! トイレだけは監視付きで出ることを許してやる!」
「だから、ちょっとは落ち着いてあたしの話を聞けっつーの、まったく。ちょっと死体調べるわよ」
「お、おい!」
自身の置かれた絶望的状況は十分に把握しているが、それでもあたしは楽観性を失っていなかった。
楽観主義は、あたしを構成する要素の中で、最も大きいものの一つだ。人生を支える大事な柱であり、尽くあたしを助けてくれる、強力な武器でもある。この程度の事で無くすわけがない。
とにもかくにも、こうしてあたしは、副店長の制止も聞かず、殺人現場を調べ始めた。
別にあたしは、殺人事件の捜査をした経験があるわけではない。けれど、元々暇に飽かして色んな情報を摂取していたあたしは、推理小説やら何やらから、多少この手の知識も吸収していた。化学の「か」の字すら知らないこの世界の人間よりは、マシな捜査が出来ると確信していた。
犯人の手掛かりとまでは行かないまでも、あたしがやったのではないという証拠くらいは、十分にひねり出すことが出来るんじゃないか。そんな風に考えたのだ。
さて、状況の分析だ。被害者は『乳揉み酒場』の店長。年齢はちょうど四十と言っていたな。無残にも、彼の死体は完全に冷たくなっていた。身体も硬く成り切っており、生前筋骨が隆々だったことを差し引いても、死後それなりの時間が経過していることが読み取れた。
繰り返しになるが、解剖も何も出来ない以上、正確な死亡推定時刻は割り出せない。しかし、あたしは実際に昨夜、まだ生きている店長に会っている。つまり、死亡してからまだ二十四時間も経過してないのは確実である。
「さて、死因は、と……」
あたしは呟きつつ、死体の様子を細かに観察して行った。
まぁ、お世辞にも気分のいい行為だとは言い難い。だが、死体になんか怖くて触れない、と言うほど細い神経など、生まれた時から持ち合わせてもいない。ここで働いている嬢の大半も、同じだろう。
大体、死体=怖い、あるいは汚いってイメージも、なんかおかしいだろう。精々蛆が湧いているくらいで、触れた先から致死性の猛毒に犯されたり、強力な病原菌に感染する、ってわけでもないだろうし。
閑話休題。
つぶさに死体を見てみると、直接的な原因は、やはり喉元の刺し傷だろうと確信が持てた。かなりの勢いで刺されたものらしく、細長い穴が、喉の肉を押し開くように出来ていた。乾いてはいるが、大量の血痕も見て取れる。致死量なのは間違いない。
しかし、死体の傷はそれだけじゃない。あちこちに細かい切り傷があるし、抉りだされた眼球も気になるところだ。かなりの怨恨を以て行われた、戦闘行為を絡めた殺人だったのかもしれない。
気になるのは、この殺人を為した凶器が、どこにもないことなのだが──
「……ん?」
死体を押したり持ったりしている内に、あたしの手に妙な違和感が残った。
元々死体なんて、日常的に触るものでもないんだから、あちこち違和感だらけではあった。だが、手に残った感触は、それらとは明らかに違う種類のものだった。
例えるなら、そう──夜、布団に寝転んだ際に、布団の下に本や小物を敷いてしまっていたために、寝心地の良さが損なわれた時のような、そんな感覚だった。
つまる所──死体の下に何かがある。そう直感したあたしは、店長の身体を持ちあげた。
「……おおう」
店長の遺体を起こし、死体の下を見てみると、予想外のブツが眠っていた。流石に、血の気が引くのを感じた。
……もしも叶うなら、一生眠っていて欲しかったブツでもある。あたしに取っては、状況を最悪の方向へと進める、決定打になるものだったからだ。
「……この上ない証拠だな」
ブツを見た副店長が、らしくないことに、冷静な声で言った。しかし、すぐさま反論は思い浮かばなかった。
そこにあったのは、血まみれの簪だった。あたしが神隠しに遭った際に、身に付けていた来た物であり、こっちに来てからも、ずっと愛用している品だった。基本的に、いつも身に付けている装飾具である。
昨日家に帰った時から見当たらず、さては店にでも忘れたのだろう、明日行った時にでも探せばいいや──と、そんな風に考えていたものだ。
それが、血にまみれた状態で、死体の下にあったのだ。普通に考えれば、犯人が店長を殺害した際床に落とし、その上に死体が乗った、と言うことになるだろう。
で──その推論の上では、当然犯人はあたしなわけだ。
科学捜査を用いてすら、冤罪を晴らすことが難しいレベルの逸物である。
やばい。先程のやばさに輪をかけて、やばい。
副店長の疑いだけなら、余裕があった。しかし、こうなっては話が違ってくる。
絶対絶命の窮地へと状況は激変した。焦燥ばかりが溢れる一方で、勝機の欠片も見えてこない。額から冷や汗が溢れているのを、文字通り肌で感じた。
出来る事なら、昨日かんざしがないことに気付いた時のあたしに、言ってやりたかった。今すぐ店に戻って取って来いと。
「……だっふんだ」
思わず、大昔に聞いた笑えないギャグを言ってしまうほどに、あたしは追い詰められていた。
* * *
「──というわけで、こいつが犯人だ。明日『上の人』に突き出すから、逃げ出さないよう、今日はここに置いておく。が、監視は基本的に俺がするから、皆気にせず、いつも通り勤務に励んでくれ」
陽が傾き、コンクリートによる舗装などない、土と砂が剥き出しの地面に落ちる、建物の影が長くなり始めた頃。
副店長は、今日出勤のスタッフ一同を控え室に揃え、一通り事の経緯を(自分の都合のいいように言い方を工夫した上で)説明し、最後にこう言った。無論、その人差し指は、あたしを指していた。
この時間は、いつもなら店長が夕礼をしている頃だ。だが、店長は──応急処置として、毛布でくるみはしたのだが──未だに控え室の冷たい床に、一人静かに横たわっている。
小心者な反面、自己顕示欲が無茶苦茶強い副店長は、既に自分が店長として振る舞うのが当たり前だと思っているらしい。
本当を言えば、今すぐにでも副店長をぶち殺してやりたい所だ。だが、この状況でそんなことをしても、事態を悪化させるだけなのは、明白だった。
あたしに出来るのは、溢れてくるむかつきにひたすら耐え、今までの人生で一番かというぐらい、眉をひそめるくらいである。
「……あたしはやってないんだけど──まぁ、この場でそれを完全に証明する事は、出来ないわね」
一応、ダメ元を覚悟しつつ、自己弁護をしてみた。あたしの言葉を聞いて、控え室に広がった空気は、困惑のそれだった。
「ハナちゃんが?」「まさか、でも……」「でも、本人はやってないって言ってるし……」「一体なんで……?」「店長って人から嫌われやすい性格だったしね……」「やだ怖い……」
控え室のあちらこちらから囁きが聞こえて来る。そのほとんどは、副店長の説明を受け入れた上での、驚愕や困惑か、あるいは恐怖の声だった。
あたしは殺人を犯したことはない。けれど、この場にいる人に取って、半信半疑でこそあれ、あたしは殺人犯のはずである。その殺人犯を前にした反応が、これだったのだ。
実際に人を殺した人間を目の前にした時、人が陥る心理とは、批難よりもむしろ、困惑と恐怖なのだ。
生物の本能からすれば、当然の事ではある。店長が比較的人望の薄い人間だったことも、手伝ってはいるだろう(事実、涙を流しているものはほとんどいなかった)。
しかし──実際に目の当たりにすると、正直、少し意外だった。
「「「ひそひそひそ……」」」
控え室に響く言葉は、あたしを批難するものは少なかった。だが、あたしの擁護をしたり、副店長の決めつけに疑念をぶつけたりという類の物も、ほとんどなかった。
とどのつまり──率先してあたしの側に立とうと言う人間は、あまりいなかった。
まぁ、これまた当然ではある。自分から共犯を疑われるような真似をするような馬鹿は、そう多くはない。理性でそれはわかっている。
だがこの状況は、あたしに取っては、そう面白い話でもない。剣山が、自分の心臓を、当たるか当たらないかの距離で囲っている気持ち──とでも表現すべきだろうか。自分の顔が苦い表情になっているのが、よくわかった。
あたしは今、孤立無援という言葉を、地で行っているのだ。
「さぁさぁ、皆、働いてくれ! 今日は店長無しだが、業務に大した変更はない。店長がやっていた部分は、俺がどうにかする。ほら、動いた動いた!」
パン!
副店長はそう言って、柏手を打った。それを合図にするように、スタッフも嬢も、それぞれの役割を全うすべく、動き始めた。嬢はフロアに出て待機を始め、スタッフも客引きを行うべく、入口へと向かった。
その中に、あたしと視線を合わせようという人間は、一人もいなかった。胸中に仄かに募る孤独感が、小さな棘のように、幽かに心に刺さった。
「お前は椅子にでも座ってろ」
副店長が、棒立ちしていたあたしに、冷たく言い放った。殺意と怒りに任せて、耳でも食いちぎってやりたいところだが、それもやはり、状況を悪化させるだろうと言う理性が先に立つ。
むかつくし、悔しい。けれど、今は何も出来ない。その事実が、一層怒りの感情を強くした。
結局あたしは、副店長に言われるがままに、すごすごと椅子に浅く腰かけた。
誰もあたしの味方をしない。副店長のように直接悪意をぶつけてくるか、あるいは困惑した表情で、見て見ぬふりを決め込むかの、どちらかだ。
こういう状況は始めてじゃない。生まれた家ではいつもの事だったし、それ以外でも体験した事は結構ある。この程度でくじけるつもりも、諦めるつもりもない。そんな道理は、有りはしないのだ。
けれど──だから全然大丈夫、全く何も問題ない、というわけには、行かなかった。
「ハナちゃん……」
あたしを呼ぶ声に、伏せていた目を上げた。視界の中央には、浅黒い肌に、いつもの黒いドレスを重ねた、妙齢の婦人が立っていた。
「ベラ姉」
「……」
しばし、無言だった。彼女は、しかめっ面で、唇を噛みしめていた。
何かを言いたいが、それを言って解決になるかわからない。そんな逡巡を何度もしているような、自己の中で問答を繰り返しているような、苦しそうな顔だった。
「……ごめんなさい。今は、だめ。貴女を、信じきれない……」
それだけ言うと、ベラ姉は踵を返し、フロアへと歩いて行った。目の端に、わずかながらも、涙が浮かんでいるようだった。
要領を得ない言葉ではあった。だが、言わんとしていることは、何となく伝わって来た。おそらく、相当強い葛藤の末に出た言葉なのだろう。
その葛藤の存在だけでも、わずかに慰められた気がした。けれど同時に、ベラ姉からすら信じてもらえなかったと言う事実が、微かに心を痛めつけた。自分の目が、わずかに細まったのを、確かに感じた。
「ハナっち、憲兵団に捕まっても面会に行くね! 『上の人』に極地送りにされても、たまに旅行がてら会いに行くよ!」
ベラ姉とは対照的に、元気100%脳内常夏娘は、いつもと全く変わらない口調と態度で、こう言って来た。どうやら彼女の辞書には、悲壮感だとか葛藤という言葉も、載っていないらしい。
「りっちゃん、あんたひょっとして……あたしから借りてる金、借りパク出来てラッキー! とか思ってるんじゃないだろうな……?」
「まさか! こんなことになって、すっごく悲しいよ!」
「悲しいって言う言葉の意味を、一回辞書で引いて調べて来い」
「わかった! じゃあね!」
そう短く言うと、りっちゃんもまた、フロアへと歩いて行った。彼女の日頃と何一つ違わない様子が、却って救いになった気もした。
けれど、彼女もまた、あたしを信じてはいない。その事実はあたしの心臓を、わずかに締め付けた。
そして──ちーちゃんに至っては、あたしの方に視線を向けもせず、黙って足だけを動かし、フロアへと歩いて行った。その表情は、ひどく思いつめているようだった。
純情で、誰より真っ直ぐで、いつでも真剣そのものの彼女に取って、あたしの罪(と思われているもの)は、裏切り以外の何物でもないのだろう。
再び心臓に、細く、しかしとても鋭い針が刺さったようだった。
自分が大事に思っている人達が、誰も自分を信じても、助けてもくれない。何度も味わった、苦い思いだ。
けれど、飽きるほどに経験し続けた事であっても、平気にはならなかった。
結局控え室には、椅子にぽつんと座ったあたしと、事が思い通りに進んだことで、むかつくほど上機嫌になっている副店長だけが残された。
部屋をぼんやりと照らすランプの明かりが、妙に揺らいだように見えた。
* * *
結局その後、日が変わって閉店となるまで、あたしは副店長以外の人間と話すことはなかった。
流石にずっと座っていると少し退屈になったので、賄いの用意を手伝おうかと申し出もした。だが、監視下にある以上、下手に動くなという副店長の一声を以て、申し出は却下となった。
動き回っている間に、証拠の捏造でもされてはたまらないと言う、小心者らしい判断なのだろう。これまたあたしは、下唇を噛みしめながら、黙って従う他はなかった。
そして──他の嬢はもちろん、りっちゃんやベラ姉、そしてちーちゃんが働き、終業して、一人、また一人と帰宅していく様を、あたしは椅子に腰かけたまま、黙って見つめていた。
誰とも会話することなく、誰からも話しかけられることもなく。ただ一人で、動くこともなく、まるで人の形をした、置物か何かになったみたいに。
少しづつ、心の根幹を揺らされているようだった。この程度で壊される事は決してないけれど──それでも、針で突かれるような痛みは、どこまでも拭い切れなかった。
一頻りスタッフが帰宅し終わったところで、あたしは天井を仰ぎ、ふーっと深い息を吐き出した。
今日一日で削ぎ落されて行った心が、ため息となって、具現化したかのようだった。
ドン!
最後に店に残った副店長が、控え室のドアを乱暴に開けて、入って来た。
「万が一──いや、十に一くらいかもしれないが──俺まで殺すつもりかもしれんからな。俺はフロアで寝る。罠をたくさん仕掛けておくから、死にたくないなら、下手に近づかんことだな!」
副店長は、不安と怒りが入り混じり、そこに興奮をトッピングしたような表情だった。やれやれである。
どうやったら、ついさっきまで客商売をしていた店内に、殺人者対策の罠をたくさん仕掛けられると言うのか。無駄に説得力を持たせようとして、却って胡散臭くなったハッタリを聞いて、呆れかえるばかりだった。
次いで副店長は、あたしの足元にしゃがみこみ(顔が蹴り易いそうな位置だなぁと思いはしたが、敢えて何もしなかった)、近所にあるそれ系の店から借りでもしたのか、あたしの足首に手錠をはめた。
手錠の、本来は鎖がある部分には、頑強そうなロープが付けられていた。ロープの先は、控え室のドアの向こう、今は暗くなっているフロアへと続いていた。
「このロープは、もう片方の手錠を付けた位置から見て、ぎりぎり俺の寝る位置に届かない長さにしてある。トイレだけは行けるが、俺までは届かないわけだ。ハサミやその他の刃物の類も全て隠した。切って逃げることも出来んぞ!」
神経質と不安症も、ここまで来れば一つの芸である。わずかに感心すら覚えた。
元々副店長の殺害はもちろん、逃げるなんて発想もなかったけれど、確かにここまでされれば、そうした抜け道は完全に塞がれた事になる。
「たまに様子を見にも来るからな! 妙な真似は絶対にするなよ! じゃあな!」
「へーい……」
言うだけ言って、副店長は足早に去って行った。もはや問答するのも面倒くさく感じていたあたしは、生返事だけを返した。
「ふー……」
あたしは、副店長が去るのを見届けてから、再びため息を吐き出した。しかし、先程のものとは、若干種類が違う。
今度のは、純粋に心身に溜まりに溜まった疲労が、形を持ったものだった。全身の感覚すら、鈍く成り始めていた。
「……寝よう」
とにもかくにも、眠りたい。コールタールのように濁ってしまった気持ちを、一度リセットしたい。
絶望的な状況も、副店長へのむかつきも、胸に飛来し続けた孤独感も、一度全て忘れ、夢の中に逃げ込もう。
そう決意したあたしは、自分の上着を掛け布団代わりにして、そこらにあった書類の束を枕として使い、冷たい床に横になった。
決して寝心地の良いものではなかった。だが、膨張しきった睡魔は、精神をたやすく占拠した。あたしの意識は、ほんの数分の間に、闇の中へと落ちて行った。