第一章
1
ちゅぱ、ちゅちゅ、ちゅぱ。
件の客は、一言もしゃべることなく、一心不乱にあたしの乳首をなめ続けていた。その様子は、表現がやや牧歌的に過ぎるが、母親の母乳を飲む、小動物すら連想させる。
その光景は、普通の女性なら不愉快に感じるのだろう。だが、そこはまぁプロのなせる業だ。今やあたしは、嫌悪感の類などほとんど感じない。面白いわけではもちろんないが、どちらかと言えば、ただ退屈なだけだ。
しかしまぁ──ホント、よく舐めるもんだわ。
あたしは、客の一心不乱っぷりに対して、退屈と同時に、多少感心を覚えていた。
本来ここは、お触りとおしゃべりがおよそ半々と言う、比較的緩めなプレイをする風俗店だ。けれどこの客は、一度も声を発することなく、鬼の首でも取ったように、乳首を舐め続けていた。
それも、今日に限った話じゃない。数えているわけじゃあないが、たぶん週に三回は来ている。
どうもあたしがお気に入りらしく、毎回あたしを指名する。で、毎度毎度一言もしゃべることなく、キスすらせず、乳首だけをひたすらに舐めまわしてくるのだ。
指名を取れるのは、金銭的にも心理的にも純粋に嬉しい。だが、正直奇怪な客だな、とも思う。
おそらく、余程のマニアなのだろう。あたしがこの仕事を始めてもう半年ほどになるが、ここまで乳首だけに拘っている客は、他に知らない。
「ん、ん! 感じ……ちゃう……!」
エロい吐息を混ぜつつ、淫らな声を喉から練り出す。我ながら迫真の演技をしていると思うのだが、客は全く動じない。動じないというか、応じない。
ちゅぱ、ちゅぱ、ちゅちゅぱ。
あたしの乳首を舐める舌の動きは、コンピュータによってプログラムされているかのように、一定のリズムとパターンを崩さなかった。まるで、あたしの演技など、刺身のツマだと言わんばかりに。
これまた毎度のことでもあるのだが──ここまで演技に無反応だと、流石にちょっと、イラついて来る。
夜の女としての沽券に関わるし、ムキにもなってくる。意地でも興奮を増やさせてやりたくなる、と言ってもいい。
この客があたしを指名し始めて、早一ヶ月が経とうとしていた。あたしの演技は、この客にために向上の一途を辿ろうとしている、と言っても過言ではない。
「お客様、お時間が参りましたが、ご延長なさいますか?」
いざ今夜も、究極にして至高の演技を我求めん──と、意気込んでいた所で、通路から中年男性の声がした。
頭こそ、周縁部の黒髪のみを残して綺麗に肌が見えているが、背筋は伸びており、筋骨は隆々としている。服装は黒のネクタイに簡易的な燕尾服と、本来は使用人の中で、最上級の職種の一つが着るものを纏っていた。
この服装は、言わば一つのメタファーだ。店の人間は皆、客に対して主に使える使用人の如く振る舞う事を、暗示している。
そして同時に、彼は店の中で最も重い役職に就いており、忠心も役職の位置と同じく最も強い、という事を示してもいるのだ。
つまるところ──彼はこの店の店長なのである。
基本的にこの店は人手が足りないので、店長自らホールに出ることもよくある。今回もその一例であり、客に対して既定時間が過ぎたことを、告げに来たのだ。
「……る」
「は?」
しかし件の客は、口をほとんど開かず、ぼそぼそと何かをしゃべるのみだ。毎度これである。
誠心誠意の接客を基本とする店長ですら、素で眉をひそめて、聞き返している。
「帰る……」
今度は、幽かに聞き取ることが出来た。まぁ、毎度同じ答えなので、半ば予想出来てはいたのだが。
週三通いでは財布の中身も心許ないのだろう(ちなみにこの店の料金は、三十分辺り、市場で午後いっぱい働いた賃金ほどである)。この客は、毎度延長することなく、一セットのみで帰るのが基本だった。
「……左様でございますか。またの御来店を、心よりお待ちしております」
店長はうやうやしく頭を下げる。あたしは脱いでいた上半身用ドレスを羽織り、客が立ちあがると同時に席を立った。
そして、そのまま出口までの短い間、客と腕を組んで歩く。所謂お見送りタイムだ。
「ありがとーございました、また来てね~」
内心はやれやれ、こいつよく飽きねーなという気持ちだった。しかし、決して気持ちを顔に出すことはなく、とびっきりの作り笑顔で客を見送った。
あの客なら、仮に無表情で何も言わなかったとしても、どうせ二・三日も経てばまた来るとは思う。だが、これも習慣として身に付いた営業である。
「ふぅ……」
常連客が帰ったことで、あたしはようやくほっと一息付くことが出来た。出口付近に立ったまま表情を緩め、腰に手を当てて、軽く背筋を伸ばす。
「ハナちゃん、今日はもう上がりでいいよ」
「ひゃっ!?」
いつのまにかあたしの背後に立っていた店長が、野太い声で言って来た。強面の熊男に真後ろからいきなり声をかけられたので、若干びっくりである。
ちなみに、無駄な装飾を混ぜることなく、用件のみをずばりと言う店長の性格は、店の女の子には賛否両論だったりする。
「あ、あぁ……もうそんな時間ですか。お疲れっす」
こう言われて店に留まる理由もない。あたしはそそくさとフロアを後にし、着替えの置いてある控え室に直行した。
* * *
「お疲れでーす」
フロアを横切り、控え室のドアを開けると、中には見慣れた光景が広がっていた。
入口から見て、左手の壁には更衣室へと続くドア、部屋の中央には休憩用のテーブル置かれている。やや右前方には、店の売り上げを保管する金庫が置かれていて、採光用の窓がその後ろに鎮座している。そしてその窓際には、鑑賞用なのかなんなのか、サボテンが設置されていたりもする。
右手を見ればカーテンで仕切られた通路があり、その先は簡易的なキッチンとなっていた。長丁場の女の子などは、ここで作った賄いを頂くわけだ。
「今日の客マジうざくてさー」「あたしもあたしも。仕事の愚痴ばっかし」「なんか出征とかするらしいよ、戦争激化するんだって」「せめて最後に女に触りたくてーって、なら女房のとこ行きなさいよって感じ」「ぎゃははははは!」
既に何人かの女の子は着替えが終わり、それぞれ休憩用のテーブルを囲んでガールズトーク(主に仕事に対する愚痴の言い合い)に花を咲かせたり、キッチンから失敬した酒類やジュースで、お互いの疲労を労っていたりした。
「お疲れ様、ハナちゃん」
そんな中、あたしに声をかけてくれたのは、浅黒い肌の女性だった。漆黒のドレスが、憂いを秘めた顔によく合っている。
「お疲れっす、ベラ姉」
この人はベラ・ツェツィーリア、通称はベラ姉だ。三十一歳とあたしよりも一回り近く年上で、三児の母だったりする。浮気性の夫が蒸発したために、育児の資金を稼ぐため、単身で夜の街に稼ぎに来ているのだ。
店の中でも中々に年上の方で、言ってみればババa──ゲフンゲフン、年配の男性と、年上好きの男の子に大人気の嬢だ。
年齢から来る落ち着きと穏やか雰囲気は、店の女の子に対しても、親しみやすさを生んでいる。実際、店に入りたてで右も左もわからなかった頃は、あたしもよく物の置き場や店の細かいルールなどを、ご教授して頂いたものだ。
「ちゃおっす、ハナっち! 今日もお疲れ!」
「うっす、りっちゃん。りっちゃんもお疲れ様」
次いで笑顔で話しかけてきたのは、いつも元気印を地で行っている女の子、リーザ・ローレンスだ。あたしと同じ黄色い肌に薄茶色の髪、そして濃い目の化粧がトレードマークで、通称はりっちゃんである。
りっちゃんは何と言っても明るい。その明るさは天井というものを知らず、水商売より普通の酒場の方が似合うほどだ。
彼女は髪切り職人を目指しているらしく、自身の店を持つのが夢だと言う。この店で働いているのは、その開業資金を貯めるためだそうな。
この国では職人稼業は男社会なので、もしも本当に自分の店を持てたなら、史上初の快挙となる──とは、本人の談である。
りっちゃんの持つエネルギーは、「落ち込む」と言う言葉が、自身の辞書にないに違いないと確信させるほどのものだ。きっと遠くない将来、彼女はその夢を実現させるだろう。
いやもう本当、もう二十五歳だと言うのに、十代もかくやというほどの元気っぷりなのである。っていうかぶっちゃけ、頭の螺子が一本抜けt──ゲフンゲフン、とにかく彼女は、常時高いテンションで場を盛り上げる、店のムードメーカーなのだ。
「着替えの前に賄い食べてく?」
と、提案してくれたのはベラ姉だ。仕事上がりは大体小腹が空くので、断る理由はない。思わずテンションが上がり、それに比例して、声も多少張ってしまう。
「食べる食べる! 今日もちーちゃんが当番?」
「そだよ。やっぱ人手足らないよねぇ、いつもちーちゃんが作ってるよ。まぁおいしいから、あーしらに取っちゃありがたいんだけど」
と、りっちゃん。全体にほぼ同意出来る意見ではあるが、軽くうなってしまう現状でもある。
人手は、フロアにしても裏方にしても、常に足りていない。しかし、商売が商売だけに、希望してくる人間はそこまで多くないのだ。
仮に一度仕事に就いても、職務内容がきつすぎたり、目標額の貯金が出来てこの仕事をする必要がなくなったりと、様々な理由で辞めてしまう人間が多い。
「今日は私も頂くこうと思ってるの。じゃ、行きましょうか」
「あいさっ!」
「うん」
ベラ姉の言葉を合図にして、あたしとりっちゃん、そしてベラ姉は、控室の隣にある簡易キッチンへと歩いて行った。
ちなみにこの時間は、何気に結構楽しみだったりもするのだ。
* * *
「お疲れーちーちゃん」
控え室との境になっているカーテンを開きつつ、労いの言葉をかける。単なる慣習の意味もあるが、カーテンの向こうに居る人物こそ、この店一番の働きものだろうと鑑みての言葉である。
「お疲れ様です、ハナヤカお姉様!」
しかし返ってきたのは、疲労など微塵も感じさせない、満面の笑みだった。感心を通り越して、ワンチャン尊敬すら覚える。
毎度のことながら、すごいわこの娘。
「お疲れ様、チーナちゃん」
「お疲れちゃん!」
「ベラお姉様もリーザお姉様も、お疲れ様です。今、賄いを用意しますねっ」
ベラ姉とりっちゃんも、私に続いて労りの言葉を口にした。あたしと同じく、社交辞令などではなく、純粋な好意から来る発言だろう。
彼女はチーナ・ルー。白い肌に、綺麗な金髪がよく似合っていて、印象的だ。
愛称はちーちゃんで、彼女はこの店で一番若い女の子だ。確か、今年で十六になるばかりのはずである。
この国においても、十六歳と言う年齢は未成年である。なので彼女は、あたしがさっきまでしていたように、お触り嬢としてフロアには出ることはない。
この店には、お触りが禁止の、純粋にトークだけを楽しむコーナーもある。ボディタッチが禁止な分料金が安く、また一方で、ちーちゃんのように、未成年の嬢とも会話が楽しめるということが、売りとなっている一角だ。ちーちゃんの仕事場は、主にそっちなのである。
だが前述したように、基本的に店全体で人手が足らないため、彼女はキッチンの仕事や接客など、色々な雑用を手伝うこともある。純粋な労働時間で言えば、むしろそっちの方が長いかもしれない。
現に、今もこうしてあたし達のために、賄いを用意してくれている。総じて、すごく真面目で頑張り屋なのだ。実に頭が下がるというものである。
「スープとパンでいいですか? スープにはお肉、いつもより少し多めに入れておきましたから」
「ありがとー。ちーちゃんのご飯、おいしいから好きだよ」
「そ、そんな……!」
軽い感謝のつもりだったのだが、ちーちゃんは見る間に顔を真っ赤にして行く。風呂でのぼせた人間のようだった。
「お世辞とは言え、光栄の至りにございます、お姉様!」
次いで、あたしに対して、チュウでもしかねない勢いで顔を近づけて来る。瞳なんか、キラキラと音がしそうなくらい輝いていたりする。頬に軽く赤みが差しているのがかなり印象的だ。
可愛いとは思うが、ちょーっと近過ぎである。少しばかり、眉が寄ってしまう。
すごく頑張り屋なのは好感触だが、この娘には少しばかりそっちのケがあr──ゲフンゲフ……この娘の場合はいいか。
少しばかり百合っ子のケがあるのが、玉に傷かなとも思ったりもする。
「お世辞ってわけじゃないけどね……まぁとりあえず、離れようかちーちゃん」
「はっ! わたくしったらついうっかり……申し訳ありません、ハナヤカお姉様」
そう言うや否や、ちーちゃんは凄まじい速度で一歩下がった。そしてすぐさま、今度は腰が折れそうなノリと角度で、頭を深々と下げて来る。
見てて面白いと言えば面白いが、正直少し困惑する。若干、苦笑いを浮かべてしまう。
真面目な反面、何事にも真剣過ぎて手加減が出来ず、挙動がオーバーなのが、この娘の特徴だったりするのだ。百かゼロしかないとでも表現するべきか。
「そんじゃ、ご飯もらえるかな……?」
言いながら、あたしは簡易キッチンに備え付けてある、小さめの机に座った。ベラ姉とりっちゃんも腰を下ろすと、控え室のものよりも狭いそれは、ほぼ満員となる。
「はい! 今すぐ温めますので!」
そう言ってちーちゃんは、鍋を乗せたかまどに手をかざした。そして、そのまま瞼を閉じると、まだ若干幼さが残るその顔から、表情を消して行った。精神を集中させたためだと、すぐに察しがついた。
ほどなくして、かまどの中央辺りから火花が散り始め、やがて小さな炎となった。炎はかまどに置かれた薪に飛び付き、次第に薪を燃やして行った。ぶすぶすと煙が出るも、備え付けられた煙突によって、屋外に排出されて行く。
「ひゃー、何度見てもすっごいわ」
あたしは、軽く頬づえを突きつつ、素直に感嘆を口にした。自分の生まれた場所には無かった技術──否、能力は、何度見ても飽きるということがない。
「ハナちゃんの居た国には、魔法って無かったんだっけ」
「うん。代わりに、色んな道具があったけどね」
ベラ姉に説明するも、おそらく彼女は──いやさ、この世界の人間には、あたしの言う『道具』は想像出来ないだろう。
この世界の人間は、太古の昔から、魔法という、生まれついて持っている能力を基に、発展を遂げて来た。故に、産業に革命をもたらすような科学技術というものは、その発想すら頭にないのだ。
魔法というのも、万能の道具というわけではなく、非常に制限が多い。研究こそ現在でも続いているらしいが、基本的には手を使わずに薪に火を点けたり、小石を遠くに飛ばしたりと行った、原始的な動作を行うものがほとんどなのだ。
更に言えば、達人と呼ばれる魔法使いであっても、あたしが居た世界で言う所の、複雑な機械のような魔法を使うのは、困難とされている。
総じて、この世界の文明レベルは低い。あたしの居た世界に照らし合わせて言えば、中世程度だろう。
しかし、だからと言って、あたしはこの世界の人間が自分に比べて劣っている、などと思ったことは一度もない。むしろ逆で、少しだけではあるが、羨ましいと思うほどだ。
だからだろう。ある程度見慣れた今でも、間近で魔法を見れば、思わず感銘を受けてしまう。
「ハナっち、どしたん?」
「え?」
ふと気付くと、りっちゃんが不思議そうな顔をして、あたしの顔を除きこんでいた。
「なんか、ぼーっとしてるよ? 故郷の事とか思い出してたり?」
「あー……まぁ、そんなとこかな? あたしは魔法、使えないしね」
確かに、少し思考が飛んでいたかもしれない。柄にもなく、故郷を思い出して、少しだけ感慨に耽っていたのだろう。
そう、あたしは魔法を使えない。なぜなら、あたしはこの世界の人間ではないからだ。
あたしがこの世界に来たのはおよそ半年前。大学の講義に出かけようと歩いていて、ただ一回瞬きをした後には、もうこの世界に来ていた。言ってみれば、神隠しである。
その時のインパクトは、青天の霹靂なんてもんじゃなかった。二十年間生きた世界から突然切り離され、見知らぬ世界に飛ばされたのだ。あたしに取っては、文字通りの意味で、世界が変わったわけだ。驚かないでいられるわけがない。
驚愕の余り、完全に思考が停止していた、と言っても過言ではなかった。
もちろん数分後には、変わっちまったもんは仕方が無いと気を取り直し、すぐさま生活の基盤を組み直しにかかったが。
その後、なんとかこの世界の言葉を覚え、紆余曲折を経て、寝床と現在の仕事を見つけて、今に至るわけだが──それでも、神隠しに遭った際の驚きと、始めて魔法を見た時の衝撃は、今でも忘れられない。
「お姉様……やっぱり寂しいのでしょうか? 元の世界に、大切な人がいるとか……?」
ちーちゃんが、人数分の木製の皿を机に並べつつ、心配そうな顔で聞いて来る。背後にある鍋からは、おいしそうな匂いが漂っていた。
「大丈夫よ。特別大事って人はいなかったし」
彼氏なら十人くらい居た気もするけど、今でも名前を覚えているのは、一人か二人ぐらいだし。
「わたくしでよければ、いつでもハナヤカお姉様のお嫁さんになりますから!」
と、ちーちゃん。繰り返そう。この娘はいつでも、真剣と書いてマジだ。
「あ、うん。そう言うのはとりあえずいいかな。気持ちだけありがと」
後が少し怖いので、この場はさらっと流すが吉と見た。
流石に彼女がいたことはなかったし、この娘の将来とか考えても、百合方面ばかり鍛えるのは色々とまずいだろう、たぶん。
……ん? 彼女居たこと、なかったよね?
「御両親は……?」
おずおずと聞いて来たのは、ベラ姉だった。流石に三児の母だけあって、その辺りは敏感なのだろう。
あたしはベラ姉からの質問を受けて、わずかに固まった。昔を思い出し、少しだけ心が揺れ動いたのだ。
本当に仄かなものではあるけれど、悲しみやら、痛みやら、色んな気持ちが一斉に出て来る。
けれど一瞬後には、もういつものあたしに戻っていた。
あたしは、もう余裕だと言う事を示すために、彼女達の気遣いを無くさせるために、口元に幽かな笑みを浮かべた。
遠い日を思い出して、苦しんで来た自分を労る意味も、少しはあったけれど。
「んー、生きてはいるけどね。まぁ、元々別居しててあんまり会うこともなかったし、正直仲も悪かったし。別にいいかな」
済んだ事とは言え、あたしという人間を必要とせず、決して認めもしなかった奴らだし──と言う本当の事情は、とりあえず胸の内にしまっておいた。
連中とは本当に色々あったが、もうふっ切れているのも、事実だし。
何より、あたしが今ここで生きていると言う事実は、揺るがないのだから。
「何にしても、あたしは大丈夫だからさ。そんな心配そうな顔しないでよ。大体友達なら、今ここにだって、ちゃんといるわけだし」
「へへっ、よせよ。照れるじゃん」
「うふふ、ありがと」
「お姉様……!」
あたしが、日頃感じている親愛を伝えると、三人ともが笑顔になった。
あたしとちーちゃんとりっちゃんとベラ姉。この四人は、境遇も年齢も全くばらばらだけど、仲良し四人組みなのだ。
四人がいれば、特別何もなくても、結構楽しい。この友情は、あたしが店に入った時から変わりない。
「スープがいい具合です。今盛り付けますねっ」
そうしてあたし達は、ちーちゃんが作ってくれた賄いを食べながら、また楽しいおしゃべりをした。
正直な話、割合きつい仕事をしていて、ちーっとも辞める気にならないのは、この時間があるからかもしれないな。
* * *
「お疲れさん。食べ終わったら、さっさと帰ること。いいね?」
あたし達がスープとパンを粗方平らげたタイミングで、店長がキッチンに顔を出した。食事をしていたあたし達を見るや否や、顔を渋らせるのを隠しもせずに、こうである。
「へーい」
「ういーっす」
あたしとりっちゃんは、生返事を返す。別に店長に楯突くこうと言うのではない。だが、高圧的に物を言われてしまうと、生理的な反応として、どうしてもつっけんどんな言い方になってしまうのだ。
「チーナちゃん、この後は時間あるかい? もし残れるなら、帳簿付けるのを少し手伝ってくれるとありがたいんだが」
「あ、はい。問題ないです」
「じゃあ、食器を片付けたら隣に来てくれ」
そう言うと、店長はすごすごとキッチンを後にした。相も変わらず、物言いは実直を通り越して刺々しい。未成年が相手でも、容赦の欠片もなしだ。
あたしは、別に店長の事を嫌っちゃいないけど、流石に良い気分はしなかった。
「ホント、無愛想な人ね。他人を労わろうって気が全くないし。皆、嫁ぐなら、ああ言う人はやめときなさいね。泣くのはいつも女なんだから」
こぼしたのはベラ姉だ。不機嫌そうなその表情は、口がアヒルのそれに酷似している。ベラ姉が人を悪く言うのは珍しいので、若干驚きである。
えらく含蓄のある言い回しだが、蒸発した夫に通じる所でもあったのだろうか。
「ちーちゃんもさー、いつもいつもイエスじゃなくてもいいんじゃね? 嫌な事は嫌って言おうよ」
と、りっちゃん。軽い言い方だが、ほぼ同意出来るし、世の中を生きる上で、最も大切な事の一つを言ってる感もある。
「いえそんな……わたし、この店が好きですから。店の役に立てるなら、それだけで、十分幸せです」
「……」
ちーちゃんは真面目で真っ直ぐで、基本的に人の頼みを断らない。つまり、実にいい子なのだ。
けれどその『いい子』は、自分の苦痛を抜きにして物事を考えているからこそ、可能となっている。少なくとも、あたしにはそう思える。
今のりっちゃんではないが、あたしもちーちゃんに対して、それとなく注意を促した事は、何度かあった。けれど、こう言う人間に限って、自分の生き方に固執しがちで、中々意見を曲げないことが多い。
そして──ちーちゃんのようなタイプは、悪意に溢れる人間からすれば、単なる便利な小間使いでしかない。
店長が救いようのない悪党だとまでは言わない。けれど、不器用であることを差し引いてもなお、善意に溢れているとは言い難い。現に今も、残業代こそ出るんだろうけど、自分の仕事をちーちゃんに押し付けているわけだし。
結論として──ちーちゃんは、可哀想な人間だ。
「ちーちゃん、経済的な事情もあるだろうし、残業するなとは言わないけど、一つ約束して。心身に異常を感じたら、どういう状況でも休むこと。いい?」
「お姉様……わたくしなどにそのようなお心遣い、感謝致します。けれど、ここの仕事は、わたくしの使命ですので」
「……」
おわかり頂けただろうか。この娘は、一度言い出したことは、意地でも曲げやしないのだ。
正直、たかが妹分の分際で、あたしに反論したことに対して、ちょーっとだけむかついた。なので、からかってやることにした。
「わかった。じゃ、ここの洗い物は明日、あたしがフロアに出る前にやるから、今日はやらないで、水槽に貯めといて。どうせ他の皆も、この後食べるだろうしね」
「え、でも……」
「ちょっと早めに出勤して、小遣い稼ぎがしたいだけだよ。他意なんかありゃしないっちゅうに。それともちーちゃんは、ハナヤカお姉様から仕事を奪うのかな?」
「い、いいえっ! 滅相もない! お願い致します、お姉様!」
「あい、お願いされましょう」
あたしは、張りのある自慢の胸を突きだして、ドヤ顔を決めた。
あたし達のやり取りを聞いて、りっちゃんとベラ姉はくすくすと楽しそうに笑っていた。あたしも釣られて、心の内に秘めておいた、やれやれと言う苦笑いが顔に出てしまう。
あらゆる意味で素直なこの娘は、普通に聞けばずれてることにすぐ気が付くような、ちょっとしたからかいでも、すぐに本気になるのだ。一度コツさえつかめば、実に扱い易い。
ま、こう言う言い方でもしない限り、この娘は人を頼るという事をしないのだ。ちょっと意地悪な言い回しになる位は、許されてもいいだろう。
こうして、今日も今日とて、『乳揉み酒場』の夜はいつもの如く、更けて行ったのだった。