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「わ……すごい可愛い~。
これ全部白石くんが作ったの?」
「はい。」
白石雅は先日、宇代七見から受け取った「とらんく」の中身を、六畳間で広げて真菜月みするに見せていた。
藤村教諭は数日前から女子便所の配管を見ている。
入橋圭はその隣の男子便所で、数日前から貯めに貯めた自分の衣類を、泣く泣く洗濯し続けている。
時は夏の昼下がり、すでに凌子様の襲撃があってから数日が経過していた。
「もし良かったら真菜月さん着てみない?
制服色々あった方がいいでしょう?」
「え、でもいいの?
これ白石くんのじゃ…。」
「お姫様より着飾る騎士なんてかっこ悪いからね。
もしお古で良かったらだけれど…。」
「あ……ありがとう…。」
「うん。」
白石雅は「すかぁと」の丈や袖の長さなど、幾つかの事を真菜月みするに確認すると、黙々と裾直しの作業を開始した。
伏し目がちの瞳にかかる栗色の睫毛。
後ろで束ねた髪の毛の、白い首筋にかかるほつれ毛、
「はぁふぱんつ」からすらりと伸びる足がどこまでも眩しい。
中世絵画の聖人の様に美しい白石雅に、真菜月みするは見とれてしまっていた。
(綺麗だなぁ……白石くん。)
「ん、あ、ごめん。退屈だよね、真菜月さん。」
「え…?あ、そんな事無いよ!
白石くん見てるだけで十分面白いから。」
「え……?」
「ッ……!」
(面白いってあたし……それは駄目でしょ~~~!)
真菜月みするは、真っ赤になって沸騰した。
白石雅はそんな真菜月みするを見てくすりと笑むと、手元の作業を進めて言った。
「大丈夫、真菜月さん。
僕そういうの慣れているから。
あ、慣れているって言うとなんだか自意識過剰だね。」
ぷつぷつと丁度良い裾の所で、まち針を止めていく。
とりあえず、真菜月みするはごめんとだけ小さく呟いていた。
「何か、白石くん綺麗だなァって、つい…。
ごめんね、男の子に綺麗だとか、あまり嬉しくないよね。」
「そんな事無いですよ。
僕は男の子だけれど、綺麗にするのが好きですから。」
「………。」
(こちら白石雅。
女装好きの男の子。
基本女の子好きなノン気だけど俺の事だけ本気で好き。)
当初あまりのごたごたで聞き流していたその言葉が、真菜月みするの中で蘇る。
どう返答していいものか、真菜月みするは言葉に窮した。
しかしそんな真菜月みするに対し白石雅は、ためらいを見せず自分の趣向についてすらすらと語り始めた。
「僕はね、小さい頃から女の子の格好に憧れていたんだ。
どう見ても男の子の格好より華やかで綺麗で、その形の種類も多いでしょう?
でも、だからといって男の子が好きだという訳ではなくてね。
あ、圭はちょっと特別だから、ここでは置いておくけれど―――」
白石雅は自分の生い立ちについても細かく説明をした。
自分には両親と少し年の離れた二人の姉がいる事、その姉達の華やかな装いに心魅かれていた事、けれどそれを身に付ける事は許されなかった事(聞けば時は明治時代)、そして父親の跡を継ぐべく男子校に通わされていた人形のような日々、そんな16歳の時に神隠しにあい、ここに来た事。
「僕は初め一人の姫に騎士として仕えていました。
もう「卒業」してしまったのだけれど、とても良い人でね。
その人は僕に裁縫を教えてくれた。
その時、自分の憧れていた華やかな服を自分の手から作り出せて、とても嬉しかった事を今でも良く覚えている。」
「一緒に「卒業」出来なかったの?」
「うん、僕が断ってしまったから…。」
「どうして?。」
「……戻りたくなかったんです、元の世界へ。」
「あ……。」
戻ったとしても、そこには自分を家督として待つ現実しか待っていない。
きちんと背広を正し、ただただ家長として構えていなければならない「器」としての現実。
白石雅には、それがたまらなく辛いものであった。
「それから僕は腕を磨き、いつしかべロニカ様から「女郎蜘蛛」の「称号」をもらい、この―――」
そう言いながら白石雅は己の腕時計に触れ、そこから一つの銀色の針を取り出した。
「「蜘蛛の針」を下賜されました。」
「それが「印」?」
「あ、圭から聞いてる?」
「うん…へぇ…見てもいい?」
「どうぞ。」
白石雅から受け取った針は、おしりの部分に小さな蜘蛛の装飾がある以外、普通の針であった。
よく見れば蜘蛛の彫刻の瞳には、赤い石まで埋め込まれている。中々凝った作りをしているものだった。
「普通の針みたいに見えるね。」
「けれど普通の針じゃない。」
そういうや真菜月みするの手の中にあった針は、白石雅の手の平へと戻っていった。
よくよく見ると二人の手の間を一本の糸が走っている。
白石雅が手に戻った針を一振りすると、その糸はもやのように消えていた。
「ね?」
「……うん。」
まるで「まじっく」のような白石雅の手さばきに、真菜月みするは目をぱちくりさせた。
「なまじ力があるから、「王子」として国に君臨する事が度々あったんだけれどね。
僕は長続きしなかった。
だって卒業したくなかったから。
結局騎士として国に仕える事が多くなった。
騎士として仕え、好きな裁縫に明け暮れてそれを姫に献上し、信を得る。
そうやって随分、この世界で生きてきました。
本当はそれを自分で着たかったのだけれど、それをする勇気が当時の僕にはまだなくてね。
喜ぶ姫の顔を見て、それで僕はとりあえず満足していました。
でも丁度そんな時に、とある国で王子をしていた圭に会った。
それから僕は変われたんです。」
「……王子?
あ、そうかはなさんの…。」
「あ、産木さんの事圭から聞いてるんだね。
でも違うよ、それより少し前の姫君に仕えていた時のお話で―――」
「へぇ!入橋くんそんなに王子してるんだ!」
「うん、圭も何度か王子をしている。
当時も一番の大国に君臨していた。
圭はあの通りの性格だから。
何かと僕達のような騎士にも声をかけてくれてね。
いつの間にか、僕は心を開いてしまっていた。
いつの間にか、僕らは親友になってしまっていた。
そうして気づいたら僕は、打ち明けてしまっていました。
僕は本当は、女性のように着飾りたいのだという事を…。」
たんたんと語る白石雅の手元に狂いは見られない。
持ち運びの出来る「みしん」を「せっと」すると、かたかたと袖を縫い始めた。
返し縫いを済ませてその糸を切ると、また口を開き話を進めた。
「告白した途端、とても怖くて恥ずかしくなってね、涙が止まらなかった。
圭が訊いてきたんだ。何で泣くの?って…。
男なのに女装が好きなんて恥ずかしいからって答えたんです。
そしたら圭は言ってくれた。
恥ずかしがる事ないって。
雅は雅らしくしている姿が一番だよって。
すごく嬉しかった。
生まれて初めて僕を認めてくれたのが、圭だったんです。
そしてやっと僕自身も、自分を認める事が出来たんです。
そうしたら圭を好きになっていた、という訳…。」
「なる…ほど…。」
真菜月みするは、目の前の美麗青年の同性への恋心を直に語られて、どう対応したら良いものか混乱したが、とりあえずそれだけ呟いた。
その混乱を察した白石雅が、くすりと真菜月みするに笑いかける。
それはとても幸せに満ちた魅力的な笑顔、男女の性差を越えた真に美しい人の笑顔であった。
「何か………。」
「ん?」
「あっ…ごめん、変な事言っちゃった…。」
「いいよ、どうしたの?」
「あ…その、何か白石くんすごいなって…。
自分の気持ちすごくはっきり言えて…。
でも、だから綺麗なんだなって思った…。」
「ありがとう。」
「…うん。」
そこまで言うと白石雅はかたかたと「みしん」を繰り出した。
真菜月みするは、そんな白石雅をぼんやりと見つめていた。
そしてしばらくすると白石雅は、一着の「せぇらぁ」を真菜月みするの「さいず」に仕立て上げていた。
早速、真菜月みするはその場で試着してみた。
青春乙女の必殺技、着たまま着替えである。
「そういうの女の子すごく上手いよね」と、わずかに目を伏せて、別の作業に手を動かしている白石雅が微笑する。
それは濃紺と白のせぇらぁだった。
りぼんも「れぇす」の濃紺、襟の縁取りには銀糸で、細かな朝顔の弦と華が刺繍されている。
「か、かわいい……。」
真菜月みするは目を綺羅綺羅と輝かせて喜んだ。
思わずその場でひらりと一周回ってみせる。
「うん、真菜月さん、とても可愛い。」
そう言って微笑する白石雅は騎士であった。
思わず真菜月みするは頬を染めて困る。
(あ……でも…。)
「白石くん、半分こにしよッ!」
「え?」
「制服半分こにしよ?
元々白石くんのだし、白石くんだって着たいでしょ?」
「ん、でも僕は騎士だから。
いざという時戦わなければならないし、その時スカートだと―――」
「そこにキュロットあるから大丈夫だよ。」
「あ……うん、まぁね。」
真菜月みするは「とらんく」の中から覗く「きゅろっと」を目ざとく見つけて指さした。
白石雅は苦笑する。
「白石くん、綺麗なんだからもったいないよ。
ね!」
「…・・ん。」
そう言って俯いた白石雅の表情には、何とも言えない艶があった。
思わずどきりとする真菜月みするに、白石雅は追い打ちを掛けるかのように――
「ありがとう…。」
はにかみながら満面の笑みを向けていた。
「ッ………!」
真菜月みするはこの時思った。
男装なんてされてしまったら、かっこよすぎて死んでしまう…。
「うぁ~~、手ェいたぁ~…。」
入橋圭は一人「わいしゃつ」に「はぁふぱんつ」という中途半端な出で立ちのまま、男子便所で洗濯をしていた。
あいにく一台あった洗濯機も、本日2回回した所でついに壊れしまい、今や手洗いで事を成している。
入橋圭はこういった事が苦手であった、もとい嫌いであった。
その為入橋圭の汚物は用務員室、押入れ、男子便所を合わせて、ゆうに1年分は溜まっていた。
「あ~~、もうくそッ!」
入橋圭は「しゃわぁ」室に汚物の小山を作ると、洗剤を乱暴にぶっかけ「しゃわぁ」を流すや服を着たままその山をぐしゃぐしゃと踏みつけに入った。
どうせぐちぐちと作業をしている間に、たっぷり汗をかいてしまっている。
また洗う事になるであろうそれをそのまま流してしまおうという、入橋圭ならではの横暴であった。
とにかく踏みつけ、泡が消えれば外へ出す。
それを何度何度も入橋圭は繰り返した。
それできちんと綺麗になったかは甚だ怪しい。
(そもそも俺そんな汗っかきじゃないし…。
問題ないない。)
そんな言い訳を心の中で口ずさみながら、入橋圭は小山の洗濯物を次々に洗っていく。
(しかし困ったなァ…。
洗濯機壊れたとかって…。
雅も俺もそういうのは出来ないし…。
勇とかいれば良かったんだけど…。)
入橋圭はぼんやりとかつての友、多喜勇治を思い浮かべた。
多喜勇治は特にこれといった力も称号もないが誠実で、こういう類の事に秀でた男子である。
そもそも男子便所と女子便所に「しゃわぁ」を引いたのも多喜勇治であった。
(藤村センセ、女子トイレの配管は直してくれてるみたいだけど…。
シャワーはトイレのついでとか言ってたからなァ…。
これは直してくんないだろうなァ…。
ま、しょうがない。
当分は女子トイレの洗濯機借りるか…。)
前髪の水滴がまつげに落ちる。
それでも入橋圭はまばたきもせず、肩に当たる「しゃわぁ」もそのままに、ぼんやりと考え込んでいた。
(勇、お前今何処にいる…?)
「ッテェ!」
入橋圭は突如おでこを襲った刺激に声を上げ、両手でおでこを押さえて苦悶した。
「ははッ…けぇ。
お前ぼっとしすぎじゃん?
てか服着たままなにしてんの?修行?
てかてかさぁ俺が本気出してたら危なかったぜ?」
(うわ……まさか。)
入橋圭は「しゃわぁ」室の上にある窓に、かなり嫌そうな顔を向けた。
鉄格子と白石雅の張った糸の先に、一つの木が生えている。
その木の枝の上に声の主が、腰に手を当てて立っていた。
逆光ながらもそのつんと尖った頭の「しるえっと」に、入橋圭は思い当たる者があった。
「けぇ。
悪いんだけど仲間にしてくんね?
いやぁ俺今まで凌子様んトコいたんだけどさぁ~あの女マジでやばくて―――」
「…間に合ってます。」
そういうや入橋圭は「しゃわぁ」室の窓を閉めていた。
(なんでよりによってアイツから来るかなぁ…。)
入橋圭は外でまだ何やら騒ぐその人物をそのままに、ぐしぐしと洗濯物を踏みつけた。
その踏みつけには何処となく私怨混じるものが感じられる。
しばらくするとその声も聞こえなくなり、入橋圭は今の出来事を忘れて自分の作業に没頭し始めていた。
しかし――
「羽根井が女子トイレの窓の傍でぶつぶつとうるさい。君達は旧友だろう?
聞けばきちんと入橋は話も聞いていないそうだな?
はっきり受け入れるなら受け入れる、断るなら断るかしたまえ。」
結局そう言って隣の女子便所から、悪鬼の形相で入ってきた藤村教諭の言に、入橋圭はしぶしぶ「しゃわぁ」室の窓を開けて、かの人物と対峙する事となってしまった。
「ヒサシブリ、ハネー。」
「おぅ!ひさしぶりィ~~って何お前その棒読み!
元気ねぇなぁ、てかホント何してんの?」
かの人物、羽根井覚は、数分前に完全拒否された事をすでに忘れたかのように、夏の日差しよろしく眩しすぎる笑顔を入橋圭に投げかけていた。
「……センタク。」
「洗濯??けぇが?
ハハッ!サイコー!お前も堕ちたなァ~。
すっげー良いザマ……
ってちょお~~、待った待った閉めんなって。
笑わねぇって…あ!てかむしろ俺がやるやる!
仲間にしてくれたらお前の洗濯俺がやるって!!」
「えっ…ホントに?
あ、じゃ仲間にするよ!」
「……え。」
「ちょっと待ってろ!
雅に糸どうにかしてもらってくんから!
いいな?ちょっと待ってろよ、ハネー。」
「…・・あ、そんなんで、ホントに?
あっ・・・・けぇ!」
入橋圭は濡れた髪の毛を掻き揚げると、ずぶぬれのまま嬉々として男子便所を後にした。
「俺の存在価値……。」
一人木の上に残された羽根井覚は、かなり己の「あいでんてぃてぃい」を傷つけられて、たそがれた。
「雅!
ハネーが来た!
仲間にしよう!」
「…ちょっ圭!」
「……ッ…ギャア!!」
真菜月みするが白石雅に自分の生い立ちと暮らしを話していた頃、全身ずぶぬれで上半身に「わいしゃつ」を貼り付けた、服を着ているのにむしろ余計淫らな格好をした入橋圭が乱入した。
「へぇ!
結構小さくて可愛い姫だね!
ねぇ!名前何てーの?」
「ハネー、聞く前にお前から名乗れよ。」
「あっそう?そういうもん?」
「そういうもんだろ!」
何とも明るい、いやむしろ「ちゃらい」と言った方が的を射ている男児、羽根井覚は用務員室に招かれていた。
まだらな黒と銀の毛髪を額の真中の少し上の生え際辺りで、つんと立たせた奇抜な髪形をし、下唇と両耳には「ぴあす」が飾られている。
わいしゃつを腕まくりし「のぉすりぃぶ」のごとく着こなしたその両腕には何故か沢山の色とりどりの輪ごむが、ちゃらちゃらとごっそり付けられている。
程よく日に焼けた薄くしまる胸板も露わに開襟し、だらしなく胡坐をかいたその姿には不良のそれを思わせる。
けれどその容姿に反して、羽根井覚の瞳はくりくりと可愛らしい純粋な少年の様な光をともしていた。
どうも信用は出来ないがどうも憎めない、そんな相反した雰囲気を羽根井覚は持っていた。
「えっと、じゃ俺、羽根井覚ね。
羽毛の羽に根っこ書いて井戸の井で羽根井、で覚えるって字で覚。
信用できないけど何か憎めない男って感じ?
って俺自分で言ってるし、ウケるッ!」
そう言うや羽根井覚はけらけらと一人笑いこけた。
「ま、こういう男だからみする。つまりただのバカね。」
「そう、それと本人の言う通り、全く信用の置けない男。」
「え~~、ちょっとみやぁ!
全くはないんじゃない?全くはぁ~。
俺ちょっと悲しんだけど。」
「悲しいも何も本当だろ?
お前すぐ鞍替えする傭兵騎士じゃんか!
この前ん時もお前何回鞍替えしたよ!?」
「圭……そこまでわかってるなら何で彼を誘ったの?」
「え……や……それは。
ねぇ……?」
「入橋くん、簡単に鞍替えする弱い騎士ばっか集めた国は駄目だから、そういう人は始め取らないって言ってなかったっけ?」
「え?ちょっ…何?
みするも反対なの?
てか覚えてたんだね…それ。」
「えー!
ちょっとちょっとお姫様二人共反対??
ってみするちん!
俺の事もう嫌い?
俺そんなに駄目な奴??」
「う……えと。みするちん??」
ちゃらいながらも羽根井覚の純真な、子犬の様な輝きを持つ瞳に見つめられた真菜月みするは、わずかにたじろいだ。
(う…そんな目で見ないで…。)
「あっ!
そうそう!俺弱くないかんね!
だから安心してよ!
ほら!「Rubber Sniper」、これが俺の称号だし!」
そういうや羽根井覚は自分の両腕を持ち上げて、その色ごむを真菜月みするに見せた。
ちゃらちゃらと羽根井覚のちゃら臭さを高める為だけに、装飾されているものではないらしい。
「「LOVER」スナイパァ…?愛の狙撃手??」
「あ、それ!そうなんだよね!
そうなっちゃうんだよね!
俺もその響き好きでさぁ、ま、あながち――」
「嘘ではありませんよね?覚。」
白石雅が静かな声で言葉をはさんだ。
その隣で何故か入橋圭がもじもじと落ち着きを見せていない。
まるで浮気現場を挙げられている男のような挙動である。
「そういえば覚、君今まで何処にいたの?
自分の口で言ってごらん?
どなたの「愛人(LOVER)」をされていたのか。」
白石雅がにっこりと微笑んで、羽根井覚の痛い所を突き刺した。
(怖い……。)
羽根井覚のみならず、入橋圭、そして真菜月みするすら、その時の白石雅の笑顔にひやりとしたものを覚えていた。
「暗罪凌子様の所です……。」
観念した羽根井覚がぽそりと呟く。
白石雅が「本当に覚は駄目だねぇ。」とはぁっと溜息をついた。
「でもあの女絶対SMプレイに走るから体中痛くてさぁ、絶対血ィ見るし。
んで、絶対当分背中、上にしないと寝らんないし…。
俺Mじゃないからマジそれが辛くて。
始めはタダでヤれ―――クうッ??!」
「こほんッ!」
「……。」
青春乙女真菜月みするは咳払いをして、一方白石雅は見えない糸で羽根井覚の首をつり上げてその言を遮っていた。
「女の子の前でそういうのはやめようね、覚。」
白石雅が羽根井覚の首を吊ったまま静かにたしなめる。
中腰の姿勢のまま見えない糸につられた羽根井覚は、首を掻き毟り息を詰まらせたままこくこくと白石雅に向かって何度も縦に頷いていた。
それを確認した白石雅がひゅっと腕を一振りすると、糸の解かれた羽根井覚はその場に崩れ落ちげほげほとむせる。
白石雅の隣で入橋圭は、そんな羽根井覚の状態を冷や汗を浮かべて見守っていた。
その顔はまるで自分も締め上げられたかのように青い。
「真菜月さん。覚はね「ゴムの狙撃手」なんだ。
ただの輪ゴムに見えるけれど、覚が使うとライフル並みの強化を付ける事が出来て戦力としてはとてもすごく頼れる騎士になる。
でもこの通り、かなり自分に素直な性格をしているからね。
信用を置くのは少し難しい。
でも―――」
「王子はそれを許してでも彼をお望みなんですよね?」
最後の警告ですよ、と言わんばかりの白石雅の「ぷれっしゃあ」に入橋圭はこくこくと頷いた。
「だいじょぶだよ、雅。
コイツそんな頭まわんないから大した裏切り出来る奴じゃないし…。
いざとなったら王子の俺が皆を守るよ。」
「…ってけぇ、フォローんなってねぇ!
お前俺裏切る事前提でしゃべってるし!
ま、俺も裏切んない自信ないけどさ!ははっ…ウケる!!」
「お前こそフォローんなってねぇよ!しかも笑ってんじゃねぇ!
こっちがフォローしてやってんのに、そばで裏切んとか言うな!!馬鹿ッ!」
「えー、だってマジでわかんないし…。
俺すげー気まぐれだもん。」
「ね、この通り素直な性格だから。」
白石雅は真菜月みするに向かってやんわりと微笑んだ。
「何にしてもここは真菜月さんの国だから、あとは真菜月さんの気持ち次第。」
そう白石雅が言い終わると、入橋圭も羽根井覚も言い争いをやめて真菜月みするを窺った。
「えっと…・・あたしは……。」
入橋圭を見れば、真菜月みするに向かってしっかりと頷いていた。
羽根井覚を見れば、真菜月みするに向かって神頼みでもするかのように、手を合わせて祈りをささげている。
「………じゃ、いいよ。」
「え?何?どっち?
オッケー?それとも遠慮しますのいいよ?
え、どっちみするちん!
俺の事要る?要らない?
どっちかで答えて!
どっち??!!」
「えっ……あ、羽根井くんの事、要る…。」
羽根井覚に迫られた真菜月みするがそれだけ言い切ると、羽根井覚は「おぉっ」と両手を上げて体全体でその喜びを表し
「ありがとォ~、みするちん!!」
というや真菜月みするに抱きつこうとして、思い切り押入れに吹っ飛ばされてしまっていた。
「な……なんで…・。」
押し入れの奥で壁に叩きつけられた羽根井覚が弱弱しく呟いた。
「ご…ごめん…。」
先日の男児の時もそうであったが、拒絶の威力はすさまじい。
思わず真菜月みするも謝罪を口にしていた。
隣で白石雅が「謝らなくても大丈夫だから、真菜月さん。」と呟く。
「駄目だよ、ハネー。
みするは乙女なんだから。
いきなり抱きついていいのなんて凌子様くらいだって。」
「そ……そういうもんだったっけ?」
「そういうもんだよ。」
入橋圭は押し入れの中に手を差し伸べ、羽根井覚を救出した。
羽根井覚はいててと言って頭をさすりながら、押入れからはい出してきた。
「ほ…ほんとにごめんね。
あたし、跳ね飛ばそうとか力の加減とか、全然うまく出来なくて…。」
「真菜月さん、それは仕方のない事だから気にしないで。」
「仕方ない?」
真菜月みするが白石雅を見つめると、白石雅はうんと一度頷いた。
「真菜月さん、まだ姫になったばかりだから…。
それに真菜月さんはまだ覚の事を信頼していないでしょう?
だから今会ったばかりの覚だと完全に拒絶してしまうのは当然の事なんだよ。」
「そう……なんだ。」
「うん、でもその内自分で制御出来ると思うから。」
「みするちん?」
羽根井覚がびくびくと真菜月みするを窺っている。
その横で入橋圭が「大丈夫だって。」と囁いている。
何やら怪物女の様な扱いに真菜月みするは、少し胸の奥がつきりとした。
「ごめんね、羽根井くん。
でもあたしまだ制御とか出来ないから、いきなり触らないようにしてね。」
「うん……わかった…。」
心なしか羽根井覚の「とれぇどまぁく」の一つとも言えるつんと立っていた髪の毛が、くたりとしている。
それでもとりあえず羽根井覚持前の馬鹿、もとい素直さ故かすぐに気を取り直してにっかり笑うと、その手の平を真菜月みするに向けて突き出していた。
「じゃ、俺に祝福をちょーだい!」
「そこに?」
「うん、ここ。
だって手の甲なんてダサいじゃん。
ここならほら、どーだぁって見せられんでしょ?」
(別に、「どーだぁ」なんてしないでもいんじゃないかなぁ…。)
そこにいる皆が、その意見に賛同していないのに羽根井覚は全く気付かずににこにことしていた。
そこではたと気になった事を真菜月みするは羽根井覚に尋ねていた。
「えと、もしかして暗罪さんもそこ?」
何となく、あの女王様と同じ所に印を残すのは嬉しくなかった。
でもその質問に対し、羽根井覚は否をとなえて差し出していない方の手で己の唇の端を指さした。
「ううん、凌子様は必ずここにすんの。
すっごい目立つしセクシーじゃん?
あ、みするちんもどうせならここにする?」
「それは遠慮しとく。」
真菜月みするは即答した。
「みんな、目つぶってて。」
そういう真菜月みするの言に、白石雅はすぐに大人しく従い、瞳を爛爛とさせていた入橋圭や羽根井覚も「見てたら仲間にしない」という真菜月みするの言にしぶしぶと従いそっと瞳を閉じていた。
真菜月みするは皆が瞳を確かに閉じているのを確認すると、そっと目の前に突き出された羽根井覚の手の平に唇をほんの少し触れさせた。
また小さな淡い花火がそこに咲く。
羽根井覚が静かに瞳を開ける。
今度は羽根井覚が「宣誓」を行う番だ。
羽根井覚が自分の唇を指さし、もう一方の手で「何処に?」というように真菜月みするの体をあちこち指さす。
真菜月みするは少し思案したが、すぐ羽根井覚と同じようにその手の平を羽根井覚の方へ突き出した。
それを見た羽根井覚は嬉しそうににっかり笑うと、その唇をつんと真菜月みするの手の平に触れさせた。
小鳥のついばみのような接吻の応酬、それも何だか小さく恥ずかしいものであった。
「はい、俺騎士ィ~。」
羽根井覚の名乗りに、入橋圭と白石雅が瞳を開く。
「見て見て~。」と羽根井覚がその手の平を入橋圭に見せると、入橋圭は真菜月みするにまたいつもの意地悪な笑顔をにやりと向けていた。
(……セクハラだ。)
真菜月みするはぷいっ!と入橋圭から顔を逸らしていた。
「はいはい、じゃあハネー。
トイレ行こーねー。」
「おぅ!
仕方ねぇ、こればっかりは約束だもんな。
任しとけ、雑用は得意だ。」
「あっ…圭、まさか―――」
「じゃあね、二人とも。
あ、みする。そういえばそのセーラーかわいいね。
じゃね!」
そういうや二人は用務員室を後にしていた。
「もしかして、入橋くん…。」
そう呟く真菜月みするに、白石雅はうんと諦め顔で頷いた。
「洗濯させる為に覚を仲間に入れたみたいだね。」
藤村教諭は一人女子便所にて配管の整備を行っていた。
下水の調整を終え、今まさに「しゃわぁ」の配管に取りかかろうとしている所であった。
どうやらしばらく使われていなかった間に、老朽化し途中の管が潰れてしまっていたらしい。
藤村教諭はまたもや「せかんどばっく」から、替えの管やら工具を取り出すとてきぱきと修理を行った。
整然と並ぶ3つの個室、「たいる」を彩る沢山の土足の跡、くすんだ金の縁取りを施した楕円形の鏡面が設置された塵に埋もれた洗面台、埃をかぶった洗濯機、「しゃわぁ」と猫足の白い「ばすたぶ」、様々な洗面具が収納された豪華な手押し台。
(これ程栄華を極めておきながら。)
藤村教諭は冷静に配管を修理しながら一人思案する。
(堕ちるのは一瞬だったな…。)
はっとして藤村教諭は、背後を振り返る。
その視線の先には豪華な手押し台があった。
その上には「せかんどばっく」と出席簿が置かれている。
藤村教諭は作業の手を休めて、そっと出席簿を手に取っていた。
藤村教諭は慣れた手つきでぱらぱらとめくる。
とある「ぺぇじ」で手を止めると、冷静にそれを見つめ
「そろそろ義務教育も終わりだな。」
と一人呟いていた。




