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初めて校内放送の「めろでぃ」を耳にした真菜月みするは、「あーやっぱり学校だったんだなぁ」という牧歌的な感想を抱いただけであった。
それは昼食の最中、卓袱台を囲みざるそばを食している時の出来事であった。
(お昼の校内放送か何かかな?)
真菜月みするは、一人浮かれ気分で周りの人間を見回してみたが、どうもそうではないらしい。
皆部屋の上隅に設置された「すぴぃかぁ」に、玉音放送を拝聴する国民よろしく集中している。
真菜月みするがどうしたのと皆に質問するより先に、「すぴぃかぁ」は言葉を発していた。
「わたしは早蕨ことりの王子、日野宮静馬だ。
学園を統治する姫並び王子に警告する。
入橋圭が姫を得た。
繰り返す、入橋圭が姫を得た。
配下並びに入橋圭の手の者に十分警戒されたし。
繰り返す、配下並びに入橋圭の手の者に十分警戒されたし。
以上。」
玉音放送というより空襲警報のような内容の校内放送は、一方的に語るだけ語ると短い「めろでぃ」を流して終わりを告げていた。
「戦争開始だ。」
「え?」
突然物騒な事をいう藤村教諭を真菜月みするが見ている間に、白石雅がそっと席を立つ。
「早いな静馬は。
もう網かけといたほうがいいよね。」
「うん頼むわ、雅、」
入橋圭と白石雅がお互い勝手を心得ているといった様子で応答すると、白石雅が用務員室を後にする。
藤村教諭と入橋圭は、何事もなかったようにざるそばを啜り出す。
さすがに何が起きているのか知りたくなった真菜月みするは、2人に質問をぶつけていた。
「ちょっと…どうしたの?
いまの放送何なの?
それに戦争って…。」
「奪いあいだからね。」
入橋圭が口にそばを入れたまま、ぼそぼそとしゃべり出した。
「国が出来るとその分だけタイミング良く、男児がぽんぽん神隠しされてくる訳じゃないからさ。
そうなんと今いる男児から選ぶ事になるだろ?
でも男児は皆どこかしらの姫に今仕えてる。
姫の徳が増えないと卒業出来ない、徳を増やすには人を集めるのが手っ取り早い。
だから俺達は卒業するために、ある程度他から人を奪う形になるのさ。
例えば雅、今放送してた日野宮の国から奪ってきた。
だからアイツは怒って特権使って校内放送仕掛けてきたって訳。」
「……そうなると、どうなるの?」
真菜月みするは恐る恐る入橋圭に質問した。
「この国の騎士を増やすのが難しくなる。
今日みたいな雅の不意打ちがもう出来ない。
けど俺達だけじゃなく他の国のヤツ等も相当苦労すんだけどな。
今の国がもう嫌だって騎士達の内乱とかに気をつけないとなんないし。」
真菜月みするはやはり何が何やら話についていく事が難しかったが、自分が大きな抗争に巻き込まれかけているという事は把握した。
そう…大きな抗争…大きな――――
「のんびりしてて大丈夫なの!
攻めてくんじゃない??」
真菜月みするは動揺した。
入橋圭は半眼で余裕たっぷりににんまりと微笑む。
入橋圭のよく見せる微笑み、その表情はどことなく「ありす」の「ちぇしゃ」猫を思わせた。
入橋圭は藤村教諭手製の漬物に手をのばし、ぱりぱりと食べながら話を続けた。
「大丈夫大丈夫。
国民の少ない出来たての国はこうして「セン公」の保護下にあるから、攻め込まれる心配はまだないの。
だから心配するのは騎士になりたいってくる奴等だけ。」
入橋圭がそう言った所で、白石雅が用務員室の扉を開けて戻ってきた。
入橋圭の「守備は?」の質問に「問題ないよ。」と答えると、何事もなかったように席に着くとざるそばを啜り始める。
入橋圭は真菜月みするが「何が?」と聞く前に、白石雅の行動を説明した。
「雅には、今俺達の領地に侵入出来ないよう糸を張ってきてもらったんだ。
俺や雅って相当有名だから乗り換えたいって奴等、結構来ちゃうだろうからさ。」
「えっ!そうなの?よかったじゃない入橋くん。」
「それがそうとも言えないんだよね、みする。
人が増えたら藤村センセの鉄壁の義務教育が終わっちゃうんだ。
そしたら自分たちで自衛しなくちゃなんない。
でもそんな簡単に鞍替えする弱い騎士ばっか集めた国だったら、すぐ潰れて終わりなんだよ。」
「そう、なんだ…。」
何やら色々と複雑そうな話に、真菜月みするは不安を覚えた。
そんな真菜月みするの頭を、向かいから入橋圭が軽くぽんぽんと叩く。
「とにかく、始めは信頼の置ける力のある騎士を仲間に加える事が大切だから。
少し俺達にまかせてよ、みする。」
入橋圭はそれだけ言うと、ずるずるとそばを啜り出した。
そこで終始皆のやりとりを静観していた藤村教諭がぼそりと呟いていた。
「そこまで建国を心得ているなら、君達に私の義務教育は不要だな。」
「いえ!駄目です!
教えてください、いてください!」
入橋圭が血相を変えて藤村教諭に懇願した。
(何か、今日はすごい色々あって疲れちゃった。)
真菜月みするは一人体操着を脱ぎながら、今日一日の事を振り返っていた。
真菜月みするは男子便所にいた。
真菜月みするは、別に普段から男子便所を使用する習慣がある訳ではない。
昨晩女子便所を使用しようとした所、長らく使用されていなかった為か水道も下水もきちんと機能せず、外観もどうしょうもなく不衛生であったためだ。
という訳で真菜月みするは、昨晩より男子便所で用を済ませている。
少ない便所の個室と男児用小便器の立ち並ぶその空間は、乙女である真菜月みするにとって決して居心地の良い所ではなかった。
別に悪い事をしている訳でもないのに、何だかいたたまれない気分にさせられる。
真菜月みするは裸になると、便所の奥に設置された「しゃわぁ」に足を踏み入れた。
そこには石鹸や「しゃんぷぅ」、「りんす」等の洗面用具が乱雑に床に散らばっていた。
用務員室を闇で埋め尽くしていた入橋圭にしては綺麗に片付いているなと、真菜月みするはぼんやり思った。
服もきちんと代えていた所を見ると、こと身支度に関しては清潔な人物なのかもしれない。
爽やかな花の香りが真菜月みするの鼻をかすめた。
何やら他人の家に勝手に入ったようで落ち着かない。
おそらく彼氏の家で「しゃわぁ」を使ったら、こんな気分になるのだろう。
(って…入橋くん、彼氏じゃないしッ…!)
真菜月みするは思い切り「しゃわぁかぁてん」を閉めると、昼間の汗を流し始めた。
真菜月みするは手近な洗面用具に手を伸ばした。
入橋圭の使用する洗面用具。
入橋圭がかすかに漂わせる香り。
使えば使う程に、その狭い空間は入橋圭の香りで満たされていく。
真菜月みするは無性に恥ずかしくて仕方がなくなってきた。
(くそぉ…また入橋くんのセクハラだ…。)
半ば八つ当たりな事を考えながら、真菜月みするは頭を洗う。
(あれ?この香り……。)
昨晩も使用した「しゃんぷぅ」の香りに、真菜月みするは何か引っかかるものを感じた。
(何処かで嗅いだ事があったかも…。
そう…少し前に…。)
――――机の上の彼岸花――――
「あ……。」
真菜月みするの記憶が、突如一つの光景を浮かび出していた。
それは昨日の教室で嗅いだ彼岸花。
無臭の華から一瞬だけ香った爽やかな夏の香り。
それはまさにこの「しゃんぷぅ」の香りであった事に、真菜月みするはこの時気づいた。
(じゃあ……あの華は、入橋くんが置いたもの……?)
真菜月みするの体を伝い、泡が床へと流れていく。
「しゃわぁ」で流されたそれは、「たいる」に埋め込まれた排水溝へと吸い込まれていった。
(どうして?)
ばんっという男子便所の扉が乱暴に開く音で、真菜月みするは我に返った。
その後突如「ばけつ」が床に弾ける音が響き渡る。
突然の事に真菜月みするは体をびくりとさせた。
何より真菜月みする全裸である。
とりあえず手近の手ぬぐいで前だけ隠してみたが、真菜月みするは安心感を得る事が出来なかった。
相手は一言も発さず、扉の前に立ってこちらを窺っているようだ。
相手の姿は半透明の「かぁてん」でいまいち判別としない。
「誰?入橋くん??」
真菜月みするはおそるおそる声を発していた。
その声を合図に、突如相手がこちらに向かって歩き出す。
かつんかつんと相手が近づくたびにその靴が「たいる」を打ち鳴らす。
固く鋭いその足音、それは普通の靴というより――――
「ビ~ンゴ!あんたが昼間の放送の姫だね?」
「はいひぃる」の立てる足音だった。
◆
「藤村先生、僕にも体操着出してくれませんか?」
白石雅は藤村教諭に話しかけた。
何やら手帳を確認していた藤村教諭は、白石雅の服装を一瞥する。
「この格好ではいざ戦いの時に動けませんから。
服も生地も全てことり姫の所に置いてきてしまいましたし。」
「そうか、わかった。」
そう言うや藤村教諭は、「せかんどばっく」から新しい体操着を取り出した。
きちんと胸の枠内に「白石」と書き上げると、それを無言で白石雅に渡す。
「ありがとうございます。」
お礼を言うと、白石雅はその場で制服を脱ぎ捨て、体操着に袖を通していた。
「あれ?普通に着替えるんだね、雅。」
体操着から頭を出した白石雅に、入橋圭が質問を投げかける。
さらっと髪の毛を払うと白石雅は、入橋圭に不思議そうな顔を向けていた。
「うん、まだ真菜月さんも戻ってこないだろうし。
問題ないでしょう?」
「いや、まぁそうなんだけど、ほら俺いる、よ?」
入橋圭が照れくさそうに自分を指さした。
白石雅はそれが分からないといった顔をして、入橋圭に微笑みかけて答えていた。
「圭がいるって…別に。
圭の事は好きだけど男同士なんだし、気にする事もないでしょう?」
(それは、そういうものなのか……。)
入橋圭と藤村教諭はにこにこ微笑む白石雅を見て、同じ感想を抱いていた。
白石雅は脱ぎ捨てた制服を手に取り眺めている。
「少しサイズが大きいけど真菜月さん着るかな?
お姫様がいつも同じ制服体操着っていうのも可哀そうだし…。
裁縫用具があればもう少し治せるんだけど…。」
そう言って白石雅が藤村教諭に簡単な裁縫道具を出してもらおうと思った時、突如「ばけつ」の弾ける音が廊下から響き渡った。
途端に白石雅と入橋圭の顔が強張る。
「圭ッ!」
「あぁッ。」
二人はすぐに用務員室を後にし男子便所へと向かっていた。
白石雅は昼間網を張っていた。
糸の結界は白石雅の十八番だ。
奥に進めば進むほど危険度が増すように仕掛けてある。
まず見える糸で警戒を呼びかけ、次第に殺傷性のある見える糸、次に殺傷性のある鋭利な見える糸と見えない糸で複雑に張り巡らせた結界が襲う。
最後には神経性の薬を糸に塗りつけ、触れれば瞬時に糸が集約して絡まるおまけ付きだ。
さらに白石雅は用心深い。
真菜月みするが男子便所に入るのを確認すると、最後に外から開けた時のみ落ちるよう「ばけつ」を仕掛けておいた程だ。
しかしその最後の「ばけつ」が弾ける音がした。
しかしそれより前に、罠と共に仕掛けたかかった事を告げる報せが一切なかった。
それは通る者を傷つける結界が全く機能していない事を意味している。
つまり相手は男児が傷つける事の出来ない相手…。
(姫か……!)
「みするッ!」
「真菜月さん!」
二人が男子便所に駆け込んだ時、そこには一人の姫と藤村教諭が対峙していた。
◆
「誰ですか…?」
女性の声に少し安心した真菜月みするは、そっと「かぁてん」から顔を出して相手を窺った。
そこには一人の女性が立っていた。
黒の「せぇらぁ」を着て密編みをしているが、どう見ても青春乙女には見えない。
制服の襟もとは大きく開き、その隙間から黒の下着が覗かせ、むっちりと官能的なその肢体はいかがわしさで満ち満ちている。
「すかぁと」こそひざ丈まであるが、それは戦禍を潜り抜けた兵士の服のようにびりびりと破け、そこから伸びる足は網「たいつ」にかなり踵の高い真っ赤な「はいひぃる」という出で立ちであった。
同じく真っ赤な「るぅじゅ」の口の端には、またまた同じく真っ赤な花火が咲いている。
「私は暗罪凌子、姫よ。」
「あんざい、りょうこさん?」
姫というより女王様、「せぇらぁ」よりも「ぼんてぇじ」が制服の様な女、凌子様がそこには立っていた。
実際彼女は現世で女王様をしている女であった。
たまたま「ほてる」の一室で、いつのもように鼻息ばかり元気なたるんだ中年男の客をいたぶり「ばるこにぃ」で一服していた所、たまたまその時の「ぷれい」で着用していた「せぇらぁ」から勘違いされて神隠しされた女であった。
暗罪凌子というのも店での名前である。
「困るのよねぇ~、女の子が増えると。
その度に野郎共が無駄にサカってさぁ、迷惑なのよ。」
そういうや凌子様は、己の背後から大きな「さばいばるないふ」を取り出していた。
この世界で殺傷は合法だ。
特に姫を罰する者は誰もいない。
人を傷つける事に快楽を覚える凌子様は、この世界で完全に狂気の女へと生まれ変わっていた。
「だから死ねよッ!」
凌子様は「さばいばるないふ」を逆手持ちにすると、真菜月みするに斬りかかっていた。
真菜月みするはこのような状況に慣れていない。
真菜月みするはこのような状況に対処する術を知らない。
ただ「たいる」の壁にへばりつき、恍惚に笑みを浮かべる凌子様の凶刃を見つめていた。
(黒……。)
真菜月みするはその時色しか判別できなかった。
目の前一色の黒、真菜月みするは死んでしまったのかと一瞬思った。
「間近にするのは初めてだが、まさかここまでアバズレだったとはな…。」
「ふ…藤村先生ィ…。」
藤村教諭の刃物のような冷たいその声に、本物の刃物を前にして真菜月みするは安堵を覚えていた。
極度の緊張状態から安心感を抱いた真菜月みするは、へなへなとその場に座り込んでしまっていた。
見れば藤村教諭は凌子様の凶刃を、あの出席簿の板を使い片手で受け止めている。
「使いなさい。」
そう言うや藤村教諭は振り返らずに、さっと自分の上着を真菜月みするに投げかける。
真菜月みするはそれをあわてて受け取った。
高価そうな「すぅつ」はまだ止められていなかった「しゃわぁ」ですぐに濡れていく。
そっけないが確かな藤村教諭の優しさに触れて、真菜月みするは涙が出そうになった。
「へぇ!
藤村センセイ、あんた「セン公」なんだぁ。
結構良い男じゃない?」
凌子様は「さばいばるないふ」を手元に戻して、ねっとりと品定めするように藤村教諭を眺めた。
凌子様はこの学園で「義務教育」を受けていない。
この学園に辿りつき初めに会った男児から事情を聞くや、その男児を筆頭に半日で十数人の騎士を集めていたからだ。
それはあまりに簡単な事だった。
王子のみならず、騎士にも簡単に体を許す妖艶な姫に、食いつかない青春男児がいない訳がない。
しかし現在ではほとんどの男児が、姫とは名ばかりの毒婦、凌子様の恐怖政治に脅え、逃げるに逃げられずへつらっているというのがこの国の内情であった。
「みするッ!」
「真菜月さんッ!」
突如男子便所に入橋圭と白石雅が乱入してきた。
二人は凌子様、藤村教諭の姿を捉え、その背後で座り込む真菜月みするの姿を見つけると、とりあえず落ち着いた顔を見せた。
凌子様がゆっくりと顔だけ後ろに向ける。
「もう来たの?入橋圭。
あら?白石雅までいるのね。
あぁ、だから日野宮静馬の放送だったのかぁ。」
入橋圭があからさまに嫌な顔をし、白石雅は冷えた表情でそんな凌子様を見返した。
「凌子様、僕達は―――」
「白石、ここは私に全て任せなさい。
入橋、君もだ。」
藤村教諭が白石雅の言葉を低く遮る。
その声に凌子様はまた首を回して藤村教諭に向き直った。
「助かるわァ。
さすがにか弱い女の子一人でいきなり男三人はつらいから。」
凌子様はにたりと笑った。
藤村教諭は凌子様に向けて話し始めた。
「真菜月君は義務教育中だ。
姫といえども手を出す事は許されない。」
「出してみたらどうなるのぉ?」
「懲罰する。」
「へぇ…。」
凌子様は己の唇をいやらしく舐めた。
「さばいばるないふ」の腹を己の太ももにひたひたと当てて「りずむ」を取っている。
(この人、何でこんなに楽しそうなの…?)
真菜月みするは戦慄した。
「いいわァ懲罰ッ!
私の大好きな遊びよッ!
藤村センセイッ!」
凌子様は嬌声を上げて高笑いを始めた。
「うげェ……。」
入橋圭がわずかにうめく声を上げる。
一仕切り笑うと、凌子様はまたねっとりとした目付きで、藤村教諭を眺めまわした。
その視線は何とも強烈な色気で艶めかしく、その動き一つでぞくりとしたものを背中に走らせる。
青春男児なら大抵はころりと転がってしまいそうな視線ではあったが、青春乙女である真菜月みするにとって藤村教諭の背後で見るそれは、不快で恐ろしいものにしか映らなかった。
「でも私まだ手にかけてないんだし見逃してくれるわよねぇ。
今日はもう何もするつもりはないんだし…ね?」
「いや駄目だ、暗罪君には罰を受けてもらう。」
「ふぅん…そ。」
凌子様がうすら笑いを沈めその瞳に狂気をぎらつかせる。
次の瞬間、突如凌子様は藤村教諭に不意打ちを食らわせようと凶刃を振るっていた。
「だから「セン公」って嫌いなんだよッ!
頭ガチガチでさぁッ…死ねよッ!!」
凌子様の凶刃は藤村教諭の心臓を狙っていた。
しかし藤村教諭は右腕を突き出し、そこで刃を受けていた。
藤村教諭の動きには余裕があった。
おそらく右手に握る出席簿で受ける余裕もあったに違いない。
けれどそれをしなかった。
凌子様は確かな手ごたえを感じた。
目の前の藤村教諭の腕にも刃は食い込んでいる。
だが血しぶきを噴いたのは凌子様の右腕だった。
「ッァ……。」
凌子様の右手が握っていた「ないふ」から離れる。
凌子様はその場に何が起きたかわからず、右腕を押さえてしゃがみこんでいた。
どくどくと溢れる血を眺めていた凌子様は、青ざめながらもきっと目の前に立つ藤村教諭を睨みつけていた。
藤村教諭は何も言わない。
その右腕に「ないふ」を突き立てたまま、凌子様に蔑みの眼差しを投げかけていた。
不思議な事に血の一滴も流れていない。
「「公爵」を傷つける事は姫であろうと出来ない。
だが……」
そう言うや藤村教諭は、自分の腕に突き刺さった「さばいばるないふ」を引き抜くと、迷わず「たいる」に投げ出されていた凌子様の右手の平に、その凶刃を突き立てていた。
「イあぁ~~~ァッ!」
凌子様は絶叫した。
「うげェ……。」
入橋圭がまたわずかにうめき声を上げる。
藤村教諭は全く顔色を変えずに、それを「たいる」にまで突き立てる。
丁度釘づけにされたような右手の「ないふ」を引き抜こうと、凌子様がその柄に左手を添えた時、その手ごと藤村教諭が上からその柄を思い切り踏みつけていた。
「ヴッ!!」
「公爵にはそれが出来る。」
「くぅッ……。」
凌子様が痛みに悶絶する。
すでにその身は「たいる」の上にへばりつくような形になっていた。
「私も―――」
藤村教諭は「ないふ」を踏みつけた足の膝に腕を置きながら、凌子様にそっと顔を近付けた。
藤村教諭の眼差しが凌子様の瞳を貫く。
「懲罰は大好きな遊びだ。」
凌子様は戦慄していた。
(何?この目……。)
歯がかちかちと鳴りやまない、瞳を逸らす事もかなわない。
骨の芯まで底冷えさせる藤村教諭の瞳に完全に心を掴まれていた。
虐げる事で快楽を覚える凌子様の瞳はまだ理性宿る人のそれだ。
けれど藤村教諭のそれは違う、獣の本能に近い光を宿している。
感情に波風立てず平気で人を殺傷出来る悪魔の瞳。
意識せず凌子様の瞳からは涙がこぼれ落ちていた。
「だが今は仕事中だ、遊びの時間ではない。」
それだけ言うと藤村教諭は「ないふ」の上の足をどけて、表情を変えずに凌子様からそっと離れた。
藤村教諭はぱらぱらと手元の出席簿をめくり出す。
凌子様は「ないふ」も抜かずただがたがたと震えていた。
「暗罪君、君には義務教育を妨害した罪で罰を与える。
現在の君の国の徳を半分に減俸及び君には1か月の休学をしてもらう。」
「休……学…?」
怯えた虚ろな瞳で凌子様が藤村教諭を見上げる。
凌子様からは、さっきまでの狂気が嘘のように消えていた。
藤村教諭はそんな凌子様を一瞥し話を続ける。
「そうだ…。
1か月君には国で眠りに就いてもらう。
起きた時君は真の仲間を得る事だろう。」
凌子様はそれが何を意味するか悟った。
恐怖政治で虐げてきた自分にはほとんどの男児が反感を抱いている。
ほとんどの騎士が「誓約」を「破棄」しようと自分を襲うだろう…。
果たして何人の騎士が手元に残るものか、多くの男児に張り飛ばされた自分は無事であるものか、そこまでは凌子様にもわからなかった。
「さぁ…おとなしく自分の小屋で休むがいい、この薄汚い雌豚が。」
藤村教諭がぱたりと出席簿を閉じると、凌子様はその場から忽然と姿を消していた。
「たいる」にはまだ鮮やかな血だまりばかりが映えていた。
「センセ、結構ノリノリ………。」
少しすると入橋圭がぼそりと呟いていた。
藤村教諭はそれを無視して、呆けている真菜月みするに振りかかる「しゃわぁ」を止める。
「大丈夫か?真菜月君。」
「あ………。」
真菜月みするは混乱していた。
人に殺されかけたり、人が目の前で刺されたり、人が目の前で消えたり、とても真菜月みするの常識では理解出来ない出来事が立て続けに起きたからだ。
表情の乏しい顔つきで、真菜月みするはとりあえず一度頷いた。
「体をしっかり拭いてから部屋に戻ってきなさい。
そこの二人!もう大丈夫だから早く部屋に戻りなさい。
いくら認められた王子騎士といえども、まだ日の浅い姫の肌をいつまでも見ている事は好ましい事ではない。」
藤村教諭はてきぱきとそれだけ言うと、さっと「しゃわぁ」室の「かぁてん」を閉めていた。
孤独の空間に締め切られた途端、真菜月みするを恐怖が襲った。
「怖いよ先生!行かないで!!」
真菜月みするは「かぁてん」を開けて藤村教諭の「ずぼん」の裾を掴んでいた。
真菜月みするの手がかすかに震えを帯びている。
藤村教諭は静かに腰を落とし真菜月みするに視線をあわせると、いつもの冷たい声で話し掛けていた。
「大丈夫だ、真菜月君。
君は私の大事な生徒だ。
何処にいても必ず守る。」
それだけ言うと藤村教諭は「しゃわぁかぁてん」を閉めずに、入橋圭等を伴い男子便所を後にしていた。
「またまた困った事になったね、圭。」
白石雅がそっと隣を行く入橋圭に囁く。
入橋圭はうんざりした顔をして「だなァ」と答えた。
「とりあえず糸の様子を見てくるよ。
あと警告の看板も作らないとね。
凌子様の所から騎士を辞めた男児が沢山来そうだし…。」
「うん、頼む雅。」
白石雅は入橋圭と藤村教諭から離れて、一人糸の様子の確認に行った。
「入橋が動くといつも大きな戦争が起きるな。」
藤村教諭はぼそりと白石雅を見送る入橋圭の背中に向けて呟いた。
入橋圭は肩で息を付き「えぇヤダなぁ」と呟いた後、
「俺はいつでも被害者ですよ、藤村センセ。」
といつもの猫笑いで藤村教諭に応えていた。
◆
(……ひどいな。)
糸は所々千切れていた。
自然と切れたものもあれば、すっぱりと切られたものもある。
(凌子様も、わざわざ切らないでもいいのに…。)
やれやれといった態で白石雅は、そっと己の腕時計に触れた。
白石雅の腕時計には一つの針が仕込んである。
白銀の柄に女郎蜘蛛の彫刻が施されたそれは、普通の針ではない。
女王べロニカから下賜されたいわゆる魔法の針である。
王子や騎士の中で特にべロニカから気に入られた者には、称号とその印が与えられる。
白石雅はその容姿とその優美な手から紡ぎだされる衣の素晴らしさに、随分前にべロニカから称号を賜っていた。
白石雅の称号は「Nephila clavata」、すなわち「女郎蜘蛛」である。
白石雅が称号と共に得た「蜘蛛の針」は、あらゆる形状の糸と毒を思うがままに吐き出せた。
「雅……。」
白石雅が今まさに網を張ろうとしたその時、廊下の奥の暗闇から白石雅を呼ぶ声が響いた。
思わず白石雅はそれに向けて糸を放つ。
「うッ……あ…ちょっと…。」
そう言いながら糸に絡み取られて月光の下に暴き出されたその男児は、白石雅のよく知る人物であった。
「七見ッ!」
その男児は、ことり姫の騎士の一人、宇代七見その人であった。
宇代七見は温厚な男児である。
喧嘩はからきしではあったが、その穏やかな性格や手先の器用さからことり姫に篤く信を得ている騎士の一人であった。
元来白石雅も争いごとを好まない。
故に二人はとても親しくしていた間柄であった。
「どうして七見がここに…。」
白石雅が糸を解き宇代七見にそっと尋ねる。
宇代七見は「ちょっと待ってて」というとまた廊下の暗闇の中に引き返し、二つの荷物を両手に提げて戻ってきた。
一つは持ち運びの出来る「みしん」。
そして今一つは上品な「とらんく」。
「それは………。」
「ことり姫からです。
これだけは雅に渡してと…。
本当は自分で来たかったそうですが、静馬さまの監視も激しく、あと少し熱をお出しになられてしまい…・・。」
宇代七見がそこで口をつぐんだ。
恐らくそれは白石雅の宣誓破棄による「しょっく」からだろう…。
白石雅はじっと宇代七見を見つめた。
「僕を恨んでいるだろう?七見。
君になら殴られても構わない。」
「そっ…・・出来ないよ!雅。
それは…僕もとても悲しかったけど、でもそれが雅の道なんだと思うし、そもそもことり姫がされなかった事を僕はしないよ!」
宇代七見の瞳が真摯に白石雅に訴える。
白石雅はこのどこまでも優しい宇代七見をとても愛おしく感じていた。
「有難う……七見。」
月光に照らされる乙女かと見まごう美青年、白石雅。
その瞳は希望と慈愛に満ち溢れていた。
(ことり姫の言う通りだ……雅、今までで一番綺麗に見える…。)
宇代七見は思わずぼんやりとその表情を見つめてしまっていた。
「あっ……じゃあ僕はこれで…。
早く戻らないと静馬様が怖いからね。
何だかすごくピリピリされているんだ。」
「それは…大変そうだ。
ごめんね、七見。」
くすりと笑う白石雅に「本当だよ雅」と宇代七見が文句を付けた。
国は違えど二人の間に温かいものが流れている心地よさに、二人の表情も柔らかくなる。
「それじゃ、またね。」
そう言って暗い廊下の奥へと進んでいく宇代七見を、白石雅は穏やかな気持ちで見送っていた。




