表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【証拠はいらない】怒られるたび、私が悪いと思っていた

作者: Wataru
掲載日:2026/02/07

 相談者は、四十代前半の女性だった。


 姿勢が低い。

 声も小さい。

 椅子に座ってから、ずっと手を膝の上で重ねている。


「……怒られるのが、怖いんです」


 それが最初の言葉だった。


「誰に?」


 女は、少し迷ってから答える。


「……夫です」


 説明は、短かった。


 怒鳴る。

 物に当たる。

 直接殴られることはない。


「でも」

「怒ると、空気が変わるんです」

「私が、全部悪いって顔をされる」


 女は、目を伏せた。


「謝れば、静かになります」

「だから、謝ります」


「心当たりは?」


「……なくても」


 それで十分だった。


「昔から、です」


「何が」


「怒られたら」

「私が悪いって、思うしかなかった」


 俺は、何も書かなかった。


「親も、そうでした」

「怒ると、理由を言わない」

「でも、逆らうと、もっと怒る」


 女は、淡々と話す。


「だから」

「結婚すれば」

「安心できると思ったんです」


 少し、間が空く。


「……同じでした」


 声は、震えていなかった。

 もう、慣れている声だった。


「逃げようと思わなかった?」


 女は、首を振る。


「逃げるって」

「悪いことをした人が、することだと思ってました」


 来たな、と思った。


「じゃあ、聞く」


 女は、小さくうなずく。


「怒られるたびに」

「自分が悪いって思ってきた理由は何だ」


 女は、すぐに答えられなかった。


「……そう思わないと」

「生きてこれなかったから、です」


 俺は、少しだけ姿勢を変えた。


「正解だ」


 女が、顔を上げる。


「……え?」


「それしか、選択肢がなかった」


 ゆっくり言う。


「怒られたとき」

「相手が悪いって考えたら」

「もっと怒られる」


「逃げたら」

「居場所がなくなる」


「だから」

「自分が悪いことにした」


 女の目が、揺れた。


「それは」

「間違いじゃない」


 女は、唇を噛む。


「でも……」

「私は」

「弱いですよね」


 俺は、首を振った。


「弱い人間は」

「生き延びない」


 女は、はっとする。


「必死だっただけだ」


 間を置く。


「怒りで支配される場所で」

「壊れずに生きてきた」


「それを」

「“間違い”にする必要はない」


 女の目から、静かに涙が落ちた。


「……正しいって」

「言ってほしかったわけじゃないんです」


「ああ」


「分かってる」


 女は、声を詰まらせながら言う。


「ただ」

「必死だったって」

「誰かに、言ってほしかった」


 俺は、短く答えた。


「必死だった」


 それだけだった。


 しばらく、沈黙。


「……じゃあ」

「私、どうすれば」


 俺は、すぐには答えなかった。


「今は」

「答えを出さなくていい」


「え?」


「正しさも」

「決断も」

「いらない」


 静かに言う。


「今日は」

「自分が悪かったって考えずに」

「ここを出ろ」


 女は、ゆっくり息を吐いた。


「……それだけで?」


「十分だ」


 女は、立ち上がる。


 来たときより、背中が少しだけまっすぐだった。


「……証拠」

「いりませんでしたね」


「ああ」


「正しさも」


「最初から、なかった」


 ドアが閉まる。



 事務所に、静けさが戻る。


 相棒が、ぽつりと言う。


「怒りで人を縛るなんて、最低」


「わかってるさ。本人も」


「そうなの?」


「どっちも生きるのに、必死なだけだ」


 窓の外を見る。


 怒られた理由を探す人生は、

 生きるための知恵だった。


 間違いじゃない。


 必死だった。


 それだけで――

 もう、証拠はいらない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ