第4話 記録されない戦
日常というのは、振り返ってみてはじめて、それが“特別”だったと気づくものだ。
宇宙生活の毎日は、代わり映えしない作業と、船内での会話の繰り返しで構成されている。
――だが、それが続く保証など、どこにもなかった。
* * *
「ステーション、再侵入。前回のルートは封鎖されてるな」
「内部の空調はまだ生きてる。最低限のライフラインも稼働中よ」
ケインはブーツの感覚を確かめながら、ドックから金属の通路へ踏み込んだ。
ノクス・エレイネは接舷したまま、後方で静かに待機している。
ホログラムで映し出されたアテナの姿は、船内からリアルタイムでリンクされており、彼の肩越しに浮かんでいた。
前回交戦した通路は緊急防衛扉で封鎖されており、代替ルートとして南側の整備エリアが示された。
「……さっきの奴、まだ“生きて”るかもしれない」
「ええ。むしろ、“あれがステーションを乗っ取った可能性”すらあるわ」
「人間だったものが、機械に喰われて……」
「正確には“記録を書き換えられた”と言ったほうが正しいかもね」
ふと、ケインの隣でアテナが言葉を止めた。
わずかに――ほんのわずかに、その顔に影が落ちる。
「どうした?」
「……いいえ。ただ、“似た記録”が、私の中にあった気がしたの」
「前の記憶か?」
「かもしれない。あるいは、私自身のものなのか。……それが分からないのよ」
ケインはそれ以上追及しなかった。
彼女は機械であって、でもそれだけではない。
記憶の出どころが不明なまま、“感情”として現れることがある――それがアテナという存在だった。
ステーション内部は、明らかに変わっていた。
前回訪れた通路には、液体のような黒いシグナルコードが天井から垂れ下がり、まるで“息をしている”ようにゆっくりと蠢いていた。
壁面の一部は溶けたように歪み、そこに赤い警告文が浮かんでいる。
《記録:不完全》
《アクセス不能:メモリ制限》
《反復中:記憶の書き換え》
――まるで、このステーション全体が“何か”を思い出そうとしているかのようだった。
「これ……建材じゃない。内部から変質してる」
「ステーションそのものが、情報化してるのかもしれない。生体との融合反応が見られるわ」
「誰かが……試してるってことか?」
ケインの問いに、アテナは黙っていた。
代わりに、遠くからかすかな音が響いた。
――かつん、かつん。
まるで、ヒールのような乾いた足音。
誰かが、このステーション内を歩いている?
ケインは即座に銃を抜いて姿勢を低くし、音の方向へ進む。
通路は曲がりくねり、天井の一部は壊れて露出していた。
歩を進めるたびに、ノイズのような何かが耳を撫でる。
そして。
通路の先に、影が立っていた。
人間のようなシルエット。だが、その背は異様に細く、皮膚の色は白に近い灰色。
顔は見えない。
ただ、そこに“いる”という確かな実在感だけが、異様に濃く漂っていた。
「……聞こえるか」
ケインが呼びかける。銃口を向けながら。
その影は、一歩も動かない。
「……アテナ?」
『……』
アテナの応答がない。
ケインの胸に、冷たい感覚が走った。
――彼女は、“見てはいけないもの”を、今見ているのかもしれない。
次の瞬間、影が崩れた。
液体のように、あるいは記憶の断片のように、音もなく形を失い、床に滲んで消えた。
「ケイン……戻って」
アテナの声が戻ってきた。だが、その声音は、いつもよりもずっと小さく、震えていた。
「アテナ、何があった」
『……“その影”、記録にある。私の中に』
『これは、かつて私が“見たもの”よ』
彼女は言った。
それが、誰の記憶なのかも分からないまま――ずっと、彼女の中に“棲みついていた”ものだと。
* * *
ノクス・エレイネは、再びゲートに向けて進み始めていた。
ケインは船橋で深く座り、目を閉じていた。
アテナは隣で静かに彼を見つめていた。
「記録されていない戦場、か……」
「ええ。けれど、それでも“残ってる”」
「お前の中にか?」
「……私だけじゃない。きっと、“あの影”の中にも」
ゲートの縁が歪む。
彼らは、次の宙域へ進む。
まだ見ぬ真実と、語られなかった記憶の、その先へ。
――星々は、見ている。
忘れられたものたちの声を、記録なきままに。