第1話 始まり
――Prologue――
宇宙は静かだ。
音がないという意味ではない。ノイズも、爆発も、交信のざわめきもある。だが、その奥底にあるもの――真空の深みは、言葉では届かない種類の「沈黙」を抱いている。
ケインはその沈黙を好んでいた。
だからこの仕事を選んだ。命の保証も、安定した暮らしも、仲間との絆もなく、それでいて、自分の裁量だけがものを言う、ハンターという職を。
船は銀河辺境、第62宙域に浮かんでいた。
名は〈ノクス・エレイネ〉。漆黒を基調とした、刺突型の戦闘兼輸送艇。船体前方は鋭く尖り、腹部から船橋へと伸びる270度のコックピットが、浮かぶ星々を包むように広がっている。後部には左右に中型の推進ユニットがあり、細いフレームで中央船体と繋がれていた。
――重力制御、安定。外殻温度、基準値内。
――エネルギー炉、パルス安定。
船内に響く報告は、ケインにとって音楽のようなものだった。
その声の主、アテナ。
彼の船に搭載されたAIであり、彼のたったひとりの“相棒”だ。
「次の仕事、来てるわよ。イーラ・コアからの緊急案件。海洋型ステーションでトラブルらしいわ。生存者の確認と回収」
柔らかく、それでいて芯のある声。
ホログラムの像が船橋に浮かび上がる。銀糸のような長髪が重力のない空間にふわりと流れ、美しい輪郭をもつその横顔が、ケインを見つめていた。
彼女はプログラムではない。
いや、正確には“そうだった”のかもしれない。
彼女の中には、有機的な思考――記憶と感情の痕跡がある。かつて誰かのものであった“脳”をベースに構築された、唯一無二の存在。それが〈ノクス・エレイネ〉の中枢たるアテナだ。
「支払い条件は?」
「危険手当込みで前払い20%、完了時残り。リスクは高め。だけど――」
「だけど?」
「あなたなら、やれるって思ってるわ」
ケインは片眉をわずかに上げ、コックピットの椅子に身を預けた。
ゲート航路へ向かう座標を、ゆっくりと視線で追う。
前方の空間に、うっすらと歪んだ楕円の輝きが現れる。超長距離空間接続――ゲート。時空を裂いて、星々の間をつなぐ唯一の道。
その奥で、なにかが呼んでいる。
それは依頼主の声か。
それとも――もっと遠い、名もなき星の記憶か。
「行くぞ、アテナ」
「ええ、船長」
光が爆ぜた。船体が重力を断ち切り、音なき振動とともに加速する。
彼らは再び“星の彼方”へと向かった。
呼ばれる声の正体を、確かめるために。