エッセイ・短編 命・言葉・愛・感謝・希望等をテーマにした作品です
沈黙の民
彼らの世界には、言葉がなかった。
文字も、音も、名も、なかった。
互いの存在を“感じる”ことで理解する。
怒りも、悲しみも、静かに伝わる。
嘘は存在しなかった。
真意がそのまま届く、透明な社会だった。
それを外の人間たちは「原始的」と呼んだ。
だが彼ら自身は、何も失っていないと思っていた。
むしろ、言葉を持たないことこそが、調和の証だった。
ある日、外の者が来た。
彼は一冊の本を持っていた。
「これは世界を繋ぐものだ」と彼は言った。
彼の口からあふれる音を、誰も理解できなかった。
だから彼は、地面に記号を刻んだ。
彼らはそれを見て、戸惑った。
「これは、名前だ」と男は記した。
「君に、“名”を与えよう」
ひとりの若者が選ばれた。
彼は初めて“自分だけの印”を持った。
その日から彼は、ほかの者とは違う感覚を持ち始めた。
「これは“言葉”だ」と男は続けた。
「言葉があれば、意思はもっと遠くへ届く。やがて世界を動かせる」
そうして言葉は、静かに、確実に、浸透していった。
名前を持つ者は、やがて“リーダー”と呼ばれた。
名がある者と、名のない者。
意思を言葉にできる者と、感じるしかない者。
そこで最初の《境界》が生まれた。
ある夜、火が放たれた。
言葉を覚えた者たちの集落が、焼かれた。
残った者は黙って立ち尽くした。
何も語らず、ただ燃える文字を見つめていた。
「なぜ?」と、言葉を持つ者が叫んだ。
だが、言葉を持たない者は、何も返さなかった。
それは拒絶か、悲しみか、怒りか。
もう“感じる”だけでは、伝わらなかった。
彼らは、互いを理解するために言葉を持ったはずだった。
だが今、言葉があるせいで、もう理解できないものがあった。
数年後、書物は禁じられた。
名前は捨てられ、文字は焼かれた。
だが一度覚えてしまった言葉は、消えなかった。
彼らの世界には、沈黙の中に棘が残った。
争いは終わったが、調和は戻らなかった。
そして誰かがつぶやいた。
言葉がなかった時代は、ほんとうに平和だったのか?
それとも、ただ知らずに傷つけ合っていただけなのか?
誰も答えなかった。
その問いに、もう言葉はなかった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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*付随作品 「言葉は争いの始まりだった 」「命の行方」「命は本当に“大切”なのか」も良ければお目通し頂けましたら嬉しく思います。