第9話 開発と製造の壁
4:開発と製造の壁
「Project V」始動から九日目。開発ラボの空気は、梅雨の湿気を含んで鉛のように重かった。 開発リーダーの織田は、品質管理部から送られてきた一枚のレポートを、憎々しげに睨みつけていた。
【件名:試作品(コード: PV-12)品質評価結果報告】 【評価結果:承認不可(NO-GO)】
分かっていた。分かりきっていたことだ。依頼書に「安いが、美味しくない」と自ら書いたのだから。だが、誠一郎から突きつけられた客観的なデータは、織田の技術者としてのプライドを、容赦なく切り刻んだ。
【旨味成分(グルタミン酸含有量):85 mg/100g(目標値の56%)】 【主要香気成分(バニリン等):0.21 ppm(目標値の25%)】
「くそっ…!」 織田は、レポートをデスクに叩きつけた。そこに、誠一郎本人が、音もなく立っていた。その手には、評価に使われた試作十二号のサンプルが一つ、無言で置かれている。 「コストをクリアしろと言うから、まずコストをクリアしたんだろうが!これが我々の現在地だと、正直に書いただろう!」 「ああ、読んだ」 誠一郎の声は、静かだった。 「そして、このデータが君の言葉を裏付けている。旨味56%、香り25%。これは、『福あかりのまんじゅうではない』という、動かぬ証拠だ。君のチームは、コスト目標達成と引き換えに、福あかりの魂を捨てた。違うか?」
その冷徹な言葉に、織田は唇を噛むことしかできない。誠一郎は続ける。 「私は、君の技術を信じている。だからこそ、問う。この、魂の抜け殻に、どうやって命を吹き込むつもりだ?」 その問いは、織田の心の最も深い場所を抉った。単なる叱責ではない。それは、同じ技術者としての、信頼と、そして発破だった。
一人の若い研究員が、恐る恐る口を開いた。 「織田部長…。一つ、試してみたいことが…あります」 「なんだ!」 「は、はい…。失われた旨味を補うために、隠し味として、ほんの少しだけ『醤油麹』を加えてみてはどうでしょうか。発酵由来の複雑なアミノ酸が、豆の弱さをカバーできるかもしれません」
醤油麹。それは、織田の頭の中にはなかった、全く新しいアプローチだった。彼は、若手研究員の顔をじっと見つめた後、深く、長い息を吐いた。 「…面白い。すぐに試せ!」
その一言から、開発部の本当の地獄が始まった。試作十三号、十四号、十五号…。醤油麹は確かに旨味の数値を引き上げた。だが、今度は味が単調になり、後味が重くなる。まるで、終わりのないモグラ叩きだった。
転機が訪れたのは、プロジェクト十三日目。試作二十号を超えたあたりだった。 「ダメだ…旨味だけじゃ、福あかりの味にならない…。何かが足りない…」 試作品の山を前に、織田が呟いたその時、味覚データを見ていた佐藤が、ぽつりと言った。 「織田さん、このデータ、旨味と甘味は強いのに、後味の『キレ』の数値だけが低いですね。味が、締まってないのかもしれません」
味が、締まっていない。その一言に、織田はハッとする。彼は、味の構成要素をもう一度頭の中で組み立て直した。甘味、旨味…。そして、それらを引き締める、僅かな塩味。 「沖縄の、塩だ…!」
すぐさま、醤油麹と、ミネラルを豊富に含んだ沖縄産の塩を、ミクロン単位で調整する作業が始まった。そして、運命の十五日目。ついに、「試作二十八号」が完成する。
「鈴木さんのラボに、最終評価を依頼する」 織田の声は、自信に満ちていた。そして翌日、品質管理部から届いたレポートには、ただ一言、こう記されていた。
【評価結果:承認(GO)】
その報告がもたらされたのは、プロジェクト始動から十六日目の朝。作戦本部には、息を呑むような緊張感が張り詰めていた。ホワイトボードに貼られたマスタープランのガントチャートには、赤いマグネットが置かれている。【ゲート審査:量産試作① GO/NO-GO合意会】。開発フェーズの完了と、次なる製造フェーズへの移行を判断する、最初の関門だった。
高梨、誠一郎、そして各部門のリーダーが、テーブルを囲んでいる。高梨が、静かに口を開いた。 「これより、第一回ゲート審査を開始する。議題は、最終レシピ(コード: PV-28)の量産試作フェーズへの移行承認だ。まず、開発部より報告を」
促され、織田が立ち上がった。その顔には、十五日間の死闘を戦い抜いた自信と疲労が色濃く浮かんでいる。 「開発部です。昨日、最終試作品である『試作二十八号』が、品質管理部の全ての基準をクリアし、正式に『GO』承認をいただきました。コスト、品質ともに目標を達成した、現時点での最高のレシピです。これをもって、開発フェーズの完了を報告します」 織田はそう言うと、製造部長の宮本に向き直り、『量産移行依頼書兼 製造仕様書』を差し出した。 「宮本部長。こちらが、量産に向けた技術資料のすべてです。よろしくお願いします」
宮本は、賞賛の言葉一つなく、無言で仕様書を受け取ると、その熟練の目が、驚くべき速さで内容を検分していく。会議室の誰もが、彼の第一声を固唾を飲んで見守っていた。やがて、宮本は顔を上げ、織田をまっすぐに見据えた。
「…織田。お前に訊く」 宮本の声は、地を這うように低い。 「この『生地の粘性、従来比30%増』という数字。これが何を意味するか、分かって言っているのか?」 「はい。ですから、混練時間や温度管理の推奨値を記載しました。その通りにやっていただければ…」 「馬鹿を言え!」 宮本の怒声が、部屋に響き渡った。 「ラボの10kgのビーカーと、俺たちの100kgの釜を一緒にするな!粘性が30%も上がれば、釜のモーターが焼き付くかもしれん。生地温度が30℃を超えれば粘性が急上昇するだと?夏の工場で、釜の摩擦熱を考えたことがあるか?あんたたちが作ったこの生地は、俺たちにとっては、いつ爆発するか分からない爆弾と同じなんだよ!」
開発部の若手たちが、その剣幕に青ざめる。その時、誠一郎が口を挟んだ。彼の声は、あくまで冷静だった。 「宮本部長の指摘は、技術的に見てすべて正しい。マスタープランのリスク管理項目にも、『量産時の品質のブレ』は発生確率『高』と明記されている」 誠一郎はスクリーンにリスク管理計画を映し出す。 「このゲート審査の目的は、リスクがないことを確認することではない。この、予見されているリスクに対し、我々が立ち向かう準備と覚悟があるかを、全員で判断するためのものだ。宮本部長、あなたの専門家としての見解は?」
問われた宮本は、腕を組み、唸るように言った。 「準備も覚悟も、机上の空論だ。やってみなけりゃ分からん。だが、一つだけ言える。このレシピで一発でうまくいく確率は、ゼロだ。必ず、問題が起きる」
「結構です」 高梨が、その言葉を引き取った。 「問題が起きることは、覚悟の上だ。重要なのは、その問題を乗り越えられるかどうか。宮本部長、あなたは、この『爆弾』を、制御できるか?」
真っ直ぐな、社長としての問いだった。宮本は、しばらく高梨の目を見つめ返した後、ふいと視線をそらし、吐き捨てるように言った。 「…やるしか、ねえだろうが」
それは、反発でありながら、職人としての矜持に満ちた、GOサインだった。
「よし」 高梨は、ホワイトボードの赤いマグネットを、次のマスへと動かした。 「第一ゲート、承認。量産試作フェーズへ、移行する!」
その宣言は、次なる地獄の始まりを告げる、号砲となった。そして、宮本の予言は、その日の午後、あまりにも早く、そして正確に的中することになる。 量産試作ラインの前に立ち尽くす、彼の怒声が工場に響き渡った。 「なんだ、この生地は!」 彼の目の前では、成形機のノズルを詰まらせた生地が、見るも無残に溢れ出していた。数時間後、作戦本部に提出された『【緊急報告】量産試作① 結果報告書』には、『不良率12.8%』という、絶望的な数字が記されていた。
内乱の危機に、追い打ちをかけるように、営業部長の田中が血相を変えて作戦本部に飛び込んできた。 「――社長、マズいです!YOKOHAMA PREMIUM MARTの木下部長から、最後通告です!『発売日だけ決まって、肝心の商品がないんじゃ、これ以上棚を確保しておくことはできない』と!」
内からの崩壊と、外からの圧力。マスタープランに描かれた四十五日という数字が、現実の重みとなって、福あかり本舗全体に、重く、重くのしかかっていた。