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第8話 動き出した歯車

3:動き出した歯車

銀行から戻った高梨は、その足で大会議室のホワイトボードの前に、役員と各部門のリーダーを集めた。そこには、地獄へのカウントダウンにも似た、四十五日間のマイルストーンが刻まれた『Project V(Victory)』のマスタープランが、巨大なガントチャートとして描き出されていた。


「諸君、聞け!」 高梨の声が、静まり返った部屋に響く。 「我々に残された時間は、四十五日しかない。今日この瞬間から、ここは社長室でも会議室でもない。福あかり本舗の未来を賭けた、『作戦本部ウォー・ルーム』だ!」


その宣言を合図に、部屋の空気は一気に熱を帯びた。各リーダーがホワイトボードに駆け寄り、自部門のタスクとKPIを確認する。だが、その熱気が具体的な言葉となって現れるのに、時間はかからなかった。最初に沈黙を破ったのは、開発部長の織田だった。


「冗談じゃない!」


彼は、フェーズ1のガントチャートを指で叩きつけるように指し示す。その声は、怒りよりもむしろ、プロとしての侮辱に対する抗議に満ちていた。 「たった15日で、コストと味の二律背反を克服しろだと? しかも、原価率は68%以下を達成しろとは…。我々は魔法使いじゃない!こんなスケジュールでは、ただの安物しか作れない!そんなものは、福あかりの『魂』じゃない!」


「その魔法の尻拭いをさせられるのはこっちだ!」


織田の叫びに、今度は製造部長の宮本が吼えた。彼はフェーズ2のKPI「不良品率3%以下」という文字を、鬼のような形相で睨みつける。 「ラボのレシピを、いきなりラインに乗せてこの数字を達成しろだと? その上、『標準作業手順書(SOP)』の初版を完成させろ? ふざけるな!長年培ってきた職人の勘を、こんな紙切れ一枚で縛ってたまるか!現場が崩壊するぞ!」


「そもそも、中身がどうなるかも分からんのに、どんな『顔』を作れって言うんですか!」


二人の怒声に、今度は営業部長の田中が、別の角度から悲痛な声を上げた。彼の視線は、営業チームのタスクリストの先頭にある「パッケージコンセプト策定・デザイン発注(5日間)」という文字に釘付けになっている。 「開発がどんな『魂』を込めるのか、製造がどんな『品質』に仕上げるのか、まだ誰にも見えていない! それなのに、たった5日で、この商品の『物語』を考えろと!? ただ『安くて新しくなりました』なんていう、魂のないパッケージを作るくらいなら、俺は辞めた方がマシだ! お客様が最初に手に取るのは、その『顔』なんですよ!そこで嘘をつくことだけは、絶対にしたくない!」


開発、製造、営業。それぞれの立場からの、あまりに正当な反発が渦を巻く。その、崩壊寸前の空気を前に、高梨は必死にリーダーシップを発揮しようと声を張り上げた。 「皆の気持ちは分かった!だが、とにかく前に進むんだ!全員、自分の持ち場で全力を尽くしてくれ!」 しかし、その言葉は、あまりに漠然としていた。社員たちの不安げな表情は変わらず、誰も動こうとしない。その時だった。


空気を切り裂いたのは、誠一郎の静かな、しかし、鋼のように冷たい声だった。彼はホワイトボードに書き出された財務状況のサマリーを、トン、と指で叩いた。 「――社長、それでは誰も動きません。我々の敵は、ここにいる誰でもない」


全員が、息を飲んで誠一郎を見る。 「織田君、君の言うことは正しい。宮本部長、あなたのプライドも、田中部長の焦りも、全て的を射ている。だが、感傷に浸っている時間はない。我々の本当の敵は、これだ」 誠一郎が指し示した先には、「短期借入金:5億円」「現預金:1億円」「資金ショートまでの予測日数:90日」という、無慈悲な数字が並んでいた。 「この数字の前では、我々のプライドも、こだわりも、全てが無意味だ。我々は今、同じ船に乗っている。船底に穴が空いているのに、誰が先に逃げるか、誰の責任かを議論している場合ではない。今は、全員で、目の前の穴を塞ぐことだけを考えるんだ」


誠一郎の言葉に、誰も反論できない。その重い沈黙を引き取るように、高梨がゆっくりと口を開いた。 「織田部長のプライド、宮本部長が背負う現場、田中部長の焦り、すべて受け止める。その上で、俺は、この無茶な計画を、断行する。そして、この『ゲート審査』こそが、我々の命綱だ」 彼の声には、リーダーとしての揺るぎない覚悟が宿っていた。 「各ゲートで、我々はデータを前に判断を下す。もしデータが『NO-GO』を示せば、その場で立ち止まり、全員で次の手を考える。だが、データが『不可能だ』と断定するその瞬間まで、我々は『可能である』と信じて、一歩でも前に進む。それしか、道はない」


高梨は、続けた。 「だから、全員に頼む。部門の壁を、今日この瞬間から、取り払ってくれ。織田部長は、製造ラインがどうすれば楽になるかを考えてレシピを組んでくれ。宮本部長は、どうすればそのレシピを最高の状態で量産できるか、開発部に知恵を貸してくれ。そして田中部長は、彼らが創り出す未来の商品の『物語』を、今から顧客に語ってくれ」 「これは、俺からの『命令』じゃない。福あかり本舗の未来を信じる、仲間としての『願い』だ」


高梨は、深々と頭を下げた。 その瞬間、止まりかけていた歯車が、ギシリと、重い音を立てて、再び噛み合った。それはまだ、潤滑油の足りない、不格好な音だったかもしれない。だが、確かに、福あかり本舗の未来へ向けて、その巨大な歯車は、動き始めていた。

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