第6話 決戦前夜
第三章:四十五日間の死闘
1:決戦前夜
役員会で覚悟を固めてから数日後。銀行との最終交渉を翌日に控えた、深夜の社長室。梅雨の湿った空気が、横浜の街のネオンを滲ませている。高梨は、たった一人、膨大な資料の海に沈んでいた。誠一郎が客観的データに基づいて作り上げた再建計画書。その一文字一文字は、会社の再生に向けた唯一の光に見えた。だが、同時に、これを魂のこもった「自分の言葉」として語れなければ、あの白川という男の心を動かすことは決してできないと、痛いほど理解していた。
「なぜ、この数字が必要なんだ?」 「現場の反発を、どうやって乗り越えるというんだ?」 「高梨社長、あなたの覚悟とは、具体的に何だ?」
彼は、白川が投げかけてくるであろう氷の刃のような質問をノートに書き出し、自問自答を繰り返す。その声は誰に聞かせるでもなく、静かな社長室に虚しく響いては消えた。これは、経営者という孤独な鎧を、自らの手で鍛え上げるための、神聖な儀式だった。
そこへ、ノックと共に誠一郎が静かに入室してきた。その手には、冷めたコーヒーの入ったマグカップが二つあった。 「社長、まだお一人でしたか」 「…鈴木さん。ああ、もう少しだけ。この計画の数字一つ一つの意味を、俺自身の血肉にしておかないと、明日、戦えないからな」
その言葉に、誠一郎は静かに頷くと、新たに整理した分厚いファイルをデスクに置いた。 「これが、我々の『武器』です」 ファイルには、計画の信憑性を裏付ける証拠が、インデックスの付箋と共に、完璧に整理されていた。遊休地の「不動産査定評価書」、サプライヤーからの「新ブレンド豆の見積書」、そして打診中のYOKOHAMA PREMIUM MARTとの「面談記録」。 「どんな鋭い指摘が来ても、事実で応えられるように。準備は万端です」
誠一郎の言葉は、あくまで参謀としてのものだった。高梨は「ありがとう」と短く応じると、ファイルを手に取り、自分の言葉でどう説明するか、最終的なシミュレーションを頭の中で始めた。その時、開発部長の織田が、小さな桐箱を手に社長室に入ってきた。その目には、徹夜明けの疲労と、それを上回る確かな熱意が宿っている。
「社長、できました。まだ改良の余地はありますが、これが、我々の未来の味の『原型』です」 箱の中には、形が少し不格好な、しかし、あんの艶やかな光沢と、ほのかに立つ甘い香りが、確かな生命力を主張する「新・福あかりまんじゅう」の試作品が、そっと収められていた。高梨は、その一つを手に取ると、壊れ物に触れるかのように、丁寧にアタッシュケースにしまった。それは、会社の「魂」そのものに思えた。