第4話 崖っぷちの現実
1:崖っぷちの現実
その日、福あかり本舗の役員会議室は、まるでギロチンが落ちるのを待つような重い沈黙に支配されていた。梅雨の湿気を含んだ空気が、よどんでいる。革張りの椅子の冷たさが、じっとりと肌に伝わってきた。
先代社長がその穏やかな笑顔で座っていたはずの社長席には、彼の息子、高梨英治が顔を蒼白にさせ、唇を固く真一文字に結んでいる。彼の視線の先、大型スクリーンに映し出されているのは、財務担当役員が読み上げる、この会社の絶望的なまでの財務状況だった。
「……売上はかろうじて前年並みを維持しております。しかし」 財務担当役員は、スクリーンに映し出されたグラフの一点を、震える指で示した。その声は、僅かに上ずっている。
「しかし、円安による異常なまでのコスト高騰の波が、会社の利益構造を根幹から破壊しております。国産の手亡豆を使っているから安心、ではなかったのです。豆を育てる農家さんが使う肥料や、農機具を動かす燃料。そのほとんどが輸入品です。我々の工場を動かす電気やガスも、原料は海外から。製品を包むビニール袋や、段ボール箱に至るまで、円安は全ての価格を、じわじわと、しかし確実に蝕んでいく……」
彼の声は、次第に悲痛な響きを帯びていく。
「その結果、主力商品の売上原価率は、昨年の73%から、今や85%にまで悪化。つまり、100円のまんじゅうを売るために、85円ものコストがかかっているのが、今の我々の現実なのです」 営業利益、マイナス5,000万円。会社の全ての現金をかき集めても1億円しかない。それに対し、一年以内に返済しなければならない短期借入金は5億円。会社の「現金」そのものが日に日に外へと凄まじい勢いで流れ出している。
「――以上が、弊社の偽らざる現状です」 財務担当役員の報告が終わると、会議室の空気はさらに重くなった。
その沈黙を破ったのは、メインバンクの融資担当部長、白川巌だった。彼は、テーブルに置かれた報告書を指先でトン、と軽く叩いた。その音だけが、やけに大きく響く。
「高梨社長。資料、拝見しました」 白川の声は、温度を感じさせない、平坦なものだった。
「創業以来、初の営業赤字。現預金1億に対し、短期借入金が5億。…率直に申し上げて、この数字で追加融資の稟議が通るとお考えですか?」
高梨は言葉に詰まる。唇が、乾いていた。 「それは……」
「我々銀行は、慈善事業ではありません。このままでは、貴社への支援を継続することは、株主に対して説明がつきません。誠に遺憾ながら、来週にも資産保全の手続きに入らせていただくことになります」 事実上の、死刑宣告だった。高梨の頭が、カッと熱くなる。隣に座る財務部長が、息を飲む気配がした。
「ま、待ってください!白川さん!」 高梨は、思わず立ち上がっていた。
「たしかに、今の数字は最悪です。弁解の言葉もありません。ですが、このまま終わらせるわけにはいかないんです!私には、この会社を立て直す義務がある!」
白川は、初めて高梨の顔をまっすぐに見つめた。その目に浮かぶのは、同情ではなく、冷徹な評価者の色だった。 「義務、ですか。結構です。ですが、我々はあなたの感傷に付き合うわけにはいかない。具体的な計画は、あるのですか?」
「あります!必ず、立て直します!ですから…どうか、時間をください!」
「時間、ですか。残念ながら、時間は無限ではありません。今日まで、我々は何も聞いていませんが」
白川の言葉が、氷の刃のように突き刺さる。高梨は、一瞬、言葉に詰まった。だが、ここで引くわけにはいかない。彼は、震える拳を強く握りしめた。
「来週の…来週の金曜日まで、お待ちいただけないでしょうか。それまでに、必ず、具体的な数字を伴った、実現可能な抜本的経営改善計画をご提示します。もし、それでご納得いただけなければ……その時は、いかなるご判断も、お受けします」
それは、若き社長が、初めて自らの言葉で掴み取りにいこうとする、最後のチャンスだった。
白川は、値踏みするように高梨を数秒間見つめた後、静かに、しかしはっきりと告げた。 「…いいでしょう。来週の金曜日、正午。そこを最終期限とします。ただし、次はありませんよ」
会議が終わり、役員たちが一人、また一人と重い足取りで退出していく。
社長室に戻った高梨は、為す術もなく、ただ一人、巨大なデスクの前に立ち尽くした。
壁に飾られた、先代社長が従業員たちと満面の笑みで写っている記念写真が、やけに目に付く。
(親父……あんたなら、どうしたんだ……) 誰もいない社長室に、か細い声が漏れる。
彼は、先代が愛用していた重厚な万年筆を手に取る。だが、その滑らかな感触とずっしりとした重みが、今は安らぎではなく、むしろ息苦しさとなって彼の手を締め付けた。父のやり方を真似ようと、過去の経営会議の議事録を藁にもすがる思いで読み返す。
しかし、そこに並ぶ景気の良い時代の成功体験が、今の危機的状況とはあまりに異質であることに気づき、深い無力感に苛まれるだけだった。
転機は、彼が財務担当役員から突きつけられた、あの絶望的な資金繰り表を、もう一度、自らの手で開き、その数字の羅列と向き合った時に訪れた。
彼は、そこに並ぶ「人件費」「仕入費」という無機質な単語から、初めて「社員一人ひとりの生活」を具体的に想像した。このままでは、来月、誰の給料が払えなくなるのか。
いつも元気な挨拶をしてくれるパートの加藤さんの笑顔が、どうなる?
宮本部長が、守ろうとしている職人たちの未来は?
その具体的な恐怖が、父の幻影という抽象的なプレッシャーを、完全に凌駕した。
「…親父のやり方じゃ、誰も守れない」
この気づきが、彼を初めて父の呪縛から解放した。
その、絶望の淵から自力で這い上がろうとする一連の行動を、品質管理室に戻ろうとしていた誠一郎が、開いたままの社長室のドアの隙間から、偶然、目撃していた。
その不器用だが、決して逃げない若者の姿が、かつて女将に頭を下げた後、先代社長に「二度と、あんな顔をさせてはならない」と誓った、若き日の自分自身と重なって見えた。
(…今なら、あるいは)
誠一郎の脳裏に、彼がここ数週間、会社の危機を前に独自に進めていた分析データが浮かぶ。これまで、若き社長の覚悟が見えぬうちは、この「劇薬」を提示するべきではないと胸の内に秘めていた。
だが、今、目の前で父の幻影を振り払い、自らの足で立とうともがくあの姿は、どうだ。
誠一郎は、踵を返すと、一度、自らの品質管理室へと向かった。そして、デスクの引き出しから、彼が会社の病巣をミクロン単位で解剖し尽くした、一冊の分厚いファイルを掴み取ると、迷いのない足取りで、社長室のドアをノックした。
ドアを開けて入ってきたのは、誠一郎だった。
高梨は、びくりと肩を揺らす。だが、その目に宿る光は、以前とは明らかに違っていた。
「…社長、少しよろしいでしょうか」 誠一郎の声はいつも通り静かで、しかし揺るぎなかった。
「…鈴木さんか。すまない、今は一人にしてくれないか。俺は…俺はもう、どうすればいいのか…」
「社長」 誠一郎の声が、彼の背中に突き刺さる。
「円安による原材料費の高騰。会社の体力が、日に日に奪われていく。そのお気持ちは痛いほど分かります。ですが、それはあくまで『症状』の一つに過ぎません」
誠一郎は高梨のデスクへと静かに歩み寄ると、持参した一冊の分厚いファイルを、高梨の前にそっと置いた。表紙には「品質管理部による、全社的コスト構造改善、及び、生産性向上に関する提言」と記されている。
「これは…?」
「社長が財務諸表と格闘しておられる間、私も私なりにこの会社を救う方法を考えておりました。品質管理部が長年蓄積してきたデータが示す、この会社の『真の病巣』です」
誠一郎はファイルをめくり、あるページを指し示した。そこには、赤い折れ線グラフが不吉な角度で右肩上がりに伸びている。
「この『製品不良率、前期比プラス3.2ポイント』という数字。社長、これが何を意味するか。年間1,200万円が、我々の目の前で廃棄されているのと同じです」
高梨は言葉を失う。誠一郎はさらにページをめくり、今度は工場の見取り図と、そこに無数の赤い線が引かれた動線分析データを示した。
「さらに、こちらのデータをご覧ください。作業員が1バッチを製造するのに、合計で約15分間の非効率な移動が発生しています。この無駄な時間を人件費に換算すると、年間約850万円。これもまた、静かに流れ出している、目に見えないコストです」
高梨はそのファイルを、信じられないというような目で見つめている。彼がこれまで漠然と「コスト」という大きな塊でしか捉えていなかった会社の「問題」が、誠一郎の手によってミクロン単位で解体され、その病巣を白日の下に晒していく。
「品質…品質で会社を救う、と…?そんなことが本当に…」
「できます」 誠一郎の声には絶対的な確信が宿っていた。
「これは単なる守りのコスト削減案ではありません。これは、我々の『品質』そのものを最大の『武器』に変え、会社の利益構造を根幹から変えるという、攻めの再建計画です」
高梨は震える手でさらにファイルを開く。そこには、「カイゼン・チームの発足」「標準作業手順書(SOP)の導入」「原材料受け入れプロセスの超・厳格化」といった、具体的で、しかし、あまりにも急進的な改革案が並んでいた。
「だが鈴木さん、これは…あまりにも茨の道だ。現場の反発は必至だぞ」
「ええ。ですが社長」と、誠一郎は高梨の目をまっすぐに見つめる。
「これは、会社の隅々にまで巣食った『品質に対する、僅かな甘え』という名の、病巣を、完全に切除するための、大手術なのです。手術には、痛みが伴います。ですが、先ほどお見せした会社の財務状況。あれ以上に絶望的な道はありません」
その初めて聞く、誠一郎の熱のこもった言葉に、高梨は息をのむ。
「『神は、細部に宿る』」 誠一郎が静かに続けた。
「先代社長が、口癖のようにおっしゃっていた言葉です。私は、あの人に拾われなければ今の私はいなかった。だから私は、先代が命をかけて遺したこの会社を、そしてその息子であるあなたを見殺しにすることなど、絶対にできない」
そのあまりにも人間的な言葉に、高梨の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。ずっと張り詰めていた心の糸が、プツリと切れた。
「…鈴木さん…」
「社長、我々にはもう迷っている時間はありません。この計画を実行するにはあなたの経営者としてのリーダーシップが絶対的に不可欠です。私一人では何もできません。どうか、私に力を貸していただけないでしょうか」
高梨は涙を乱暴に手の甲で拭うと、差し出された誠一郎のその節くれだった大きな手を、両手で強く、強く握りしめた。
「…分かった。鈴木さん、俺を、助けてくれ」
ここに、年の離れた二人の男のたった二人の「チーム」が誕生した。