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第3話 家庭の風景

3:家庭の風景

午後七時。鈴木家のリビングは、醤油とみりんが煮詰まった甘く香ばしい匂いに満ちされていた。ダイニングテーブルを照らすのは、人の心を穏やかにする温かいオレンジ色のペンダントライト。誠一郎は、昼間の寸分の隙もない白衣姿が嘘のような、首のところが少しよれたくたびれたスウェット姿で、座椅子に深く、深く沈み込んでいる。


その膝の上では、三歳になる孫の陸がプラスチック製のカラフルなブロックを夢中で組み立てていた。


「じいじ、見てー。きりんしゃん、できたー」

舌足らずなその声に、誠一郎の顔がまるで春の雪解けのようにふにゃりと崩れた。

「おぉー、りっくん、しゅごいねぇー。きりんしゃん、首がなーがくて、とってもじょうじゅでちゅねー」


キッチンから妻の容子が肉じゃがの入った大きな皿を食卓へと運びながら、その様子に呆れたような、しかし愛情のこもった視線を向けた。

「あなた。その赤ちゃん言葉、もうすっかり板についちゃって」

「ば、馬鹿を言え。会社では俺は鬼の鈴木だぞ。…だが、容子、君の作るこの肉じゃがだけは別だ。この匂いを嗅ぐと、どうしてもな…」

誠一郎は、心の底から待ちきれないといった子供のような顔で、くんくんと鼻を鳴らす。

「うむ!これ以上の肉じゃがが、この世に存在するだろうか、いや、しない!君は天才だよ、容子!」


しーんと、リビングが静まり返る。 自信満々に胸を張る誠一郎に対し、容子は大きな皿をドンとテーブルに置き、柳眉をかすかにひそめた。

「ええ、そうですね。あなたのその自信だけは、いつだって日本一ですわね」

「ぐっ……!」

鮮やかすぎるカウンターパンチに、誠一郎は言葉に詰まる。


二人がいつもの夫婦漫才のようなやり取りを終え、食卓の準備が整った頃。容子がふと心配そうな顔で、誠一郎の顔を覗き込んだ。

「あなた。最近また夜中にうなされているわよ。『基準値が…』『ばらつきが…』なんて、難しいこと言いながら。会社、何か大変なことになっているんじゃないかしら?」


その妻の鋭い指摘に、誠一郎は一瞬ドキリとする。しかし彼はすぐにいつものおどけた表情に戻り、こう答える。

「いや、なに、君の美しさという私だけの『基準値』が日々更新されて、私の脳の処理能力が追いつかんだけだ!心配するな、問題ない」


彼はそう言って笑う。しかしその笑顔はほんの少しだけ無理をしているように、容子の目には映っていた。


夕食後、リビングでスマートフォンを眺めていた就職活動中の娘、美紀に誠一郎は声をかけた。

「美紀、この間の模擬面接の結果、どうだったんだ」

「あ、うん。まあまあかな。フィードバックももらったし、次までには直しとこうと思ってる」


美紀は視線をスマホに向けたまま、こともなげに答える。その態度に、誠一郎の中の「品質管理部長」がむくりと頭をもたげた。

「そうか。そのフィードバックシート、父さんに見せてみろ。改善点を客観的にリストアップして、次の面接までのタスクを具体的に洗い出してやる。PDCAを回すんだ。Plan, Do, Check, Action。これはどんな仕事にも通じる基本だ」


純粋な善意からだった。娘に社会の荒波で失敗してほしくない。ただその一心で。


だが、その言葉を聞いた美紀の顔から、ふっと笑顔が消えた。

「……いいよ、別に。自分でやるから」

美紀の声には明確な棘があった。 「お父さんの言うことはいつも正しいよ。完璧に正しくて、反論できない。でもね……息が詰まるの。私の人生まで、品質管理しないで」


(そうじゃない。お父さんの言っていることが正しいのは分かってる。でも…)


美紀の脳裏に、遠い子供時代の記憶が蘇る。小学校の夏休みの自由研究。彼女は、毎日違う色の花を咲かせるアサガオの観察日記をつけたかった。だが父は、「観察対象として個体差が激しく、データの普遍性に欠ける。より客観的な指標でアプローチすべきだ」と言い、彼女に毎日の気温と湿度、天気を記録させ、一ヶ月の統計グラフを作らせた。


その研究は、学校で金賞を取った。友達にも先生にもすごいと褒められた。だが、美紀は少しも嬉しくなかった。ただ、父の作った完璧な計画通りに動いただけだったから。あの夏、本当は何色の花が咲いたのか、もう思い出せない。


(私の人生は、お父さんの製品じゃない…)


その言葉は小さな、しかし鋭い氷の破片のように、誠一郎の胸に突き刺さった。返す言葉も見つからず、品質の鬼はリビングの隅で、「そんな言い方しなくたってさ……」とつぶやくのだった。


会社では、彼の「正しさ」が全てを動かす。だが家庭というもう一つの世界では、その「正しさ」は時に、最も愛する人間を深く傷つけてしまう。彼自身、そのどうしようもない矛盾を持て余していた。


家族が皆寝静まった深夜。誠一郎は一人リビングでブランデーのグラスを傾けている。娘に言われた「息が詰まる」という言葉が、胸の奥で重く響いていた。


その言葉が、彼の脳裏で、かつて老舗旅館の女将に言われた「皮が、ほんの少しだけ、ぱさついていた」という、あの悲しそうな声と不意に重なった。 どちらも、彼の「完璧な正しさ」が、結果的に相手の「心」を傷つけてしまったという点で、本質は同じではないか。彼は、自らの哲学の根幹にあった、決して認めたくなかった欠陥に、この時、初めて正面から向き合わざるを得なかった。 「正しさは、それだけでは人を救えない」


彼の視線の先にあるのは、リビングの棚の上にそっと飾られた一枚の古い写真。そこには若き日の彼と、そしてその隣で太陽のような屈託のない笑顔を浮かべる、福あかり本舗の先代社長の姿が写っている。


誠一郎はグラスをそっと写真の前に置く。

(社長…。私はもう二度と、あんたが愛したこの会社の名前で、誰かを裏切るような真似はしない。あんたが命をかけて遺してくれたこの会社を、そしてあんたのたった一人の息子である、あの不器用な若者を、必ずこの手で守り抜いてみせますから…)


彼のその静かな、しかし鋼鉄のように固い誓いが、夜の静寂の中に深く沈んでいった。

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