第25話 夜明け
第八章:新しい日常
1:夜明け
長い、長い、沈黙。 やがて、白川は無言で、新しいまんじゅうを一つ手に取り、そしてゆっくりと一口、口に運んだ。 そして、深く、息を吐いた。彼の、あの氷のように冷たかった表情が、ほんの、ほんの少しだけ、和らいでいた。
「…高梨社長、鈴木取締役」 彼の声は、まだ硬質だった。 「あなた方が提示された、失敗から学び自己進化する『経営システム』。そして、その『数字』の裏にある、経営者の『覚悟』と、現場の『熱』。それらが、今後の貴社の返済能力を担保する、何よりの根拠になると判断しました」 「…追加融資の件、審査会で、前向きに検討させていただきます」
半年後。 福あかり本舗は、奇跡的なV字回復を遂げていた。 銀行からの追加融資も決まり、財務状況は安定。SNSで誠実な対応が話題となった「新・福あかりまんじゅう」は、会社の新たな看板商品となった。
高梨は、朝礼で従業員たちに語りかける言葉に、迷いがなくなった。品質管理室でデータを見つめる佐藤の目には、自信が宿っている。
全ての戦いが終わり、静寂が戻った品質管理室。誠一郎は一人、デスクのライトだけを頼りに、二つのファイルを見比べていた。一つは、先代社長と共に心血を注いで作り上げた、革張りの重厚な『品質管理マニュアル』。もう一つは、佐藤と共に作り上げた、イラストと優しい言葉で満たされた新しいマニュアルの原稿だ。
(完璧なシステム。誰にも到達できない、孤高の正しさ。それこそが、俺が長年追い求めてきたものの筈だった…)
古いマニュアルのページを指でなぞる。そこには、若き日の情熱と、先代社長への尊敬の念が詰まっていた。
(だが、本当の強さとは、ただ一つの正しさで全てを律することではない。不完全な者同士が、それぞれの知恵と経験を繋ぎ合わせる、その繋がりそのものにこそ宿るのかもしれないな。…社長。あんたが遺してくれた魂は、こうやって新しい形に変わっていくんですね)
誠一郎は、ふっと息を漏らし、柔らかく笑った。
彼は二つのマニュアルを重ね合わせると、静かに立ち上がり、部屋の明かりを消した。窓から差し込む月明かりが、彼の背中を照らす。その佇まいは、かつてのような近寄りがたい厳しさではなく、不器用な若者たちをそっと導く、大きな守護者のような温かみを帯びていた。
2:食卓のリセット
その日、一本の電話が誠一郎の元にかかってきた。娘の美紀からだった。就職活動がうまくいかず、落ち込んでいるのだという。 「…そっか。大変だったな」 誠一郎は、かつてのように、「PDCAを回せ」とは言わなかった。彼はただ、静かに娘の話を聞き、そして、少し間を置いてから、こう続けた。 「…美紀。人生の品質管理は、難しいな。父さんの作ったマニュアルは、どうも社会じゃ役に立たんらしい」 電話の向こうで、美紀がふっと息を飲むのが分かった。父の、初めて聞く弱音だった。
そして、週末。久しぶりに実家に帰ってきた美紀は、玄関を開けた瞬間、甘い香りと、孫の陸のはしゃぐ声、そして母・容子の呆れたような声に迎えられた。 「あなた!またそんなに焦がして!うちの孫に、規格外品を食べさせる気ですの!?」 「な、何を言うか!これは『カラメル化』という、高度な化学反応だ!香ばしさの要因分析もせずに、見た目だけで判断するのは早計だぞ!」
リビングを覗くと、そこには信じがたい光景が広がっていた。 エプロン姿の父が、フライパンを片手に、少し焦げた不格好なホットケーキを前に、得意げに胸を張っている。その足元では、孫の陸が「じいじ、ぱんけーき、まだー?」とまとわりついていた。 「おぉ、りっくん、もうちょいで、せかいでいちばんおいちい、ぱんけーきが、かんちぇいしまちゅからねー」 会社の「鬼」の姿も、かつての厳格な父の姿も、そこにはない。ただ、孫にでれでれの、一人の「じいじ」がいた。
「…ただいま」 美紀が声をかけると、三人が一斉に振り返る。 「お、おう、美紀か。まあ、上がれ。ちょうど、試作品ができたところだ」
少し焦げた、しかし愛情だけはたっぷり詰まったホットケーキを囲んで、三世代がテーブルにつく。 「…どうだ、美紀。お前の就職活動も、このホットケーキみたいなもんだ。ちょっとくらい焦げたって、形が悪くたって、味があればいい。いや、味がなくたっていい。大事なのは、お前が、お前自身の『福あかり』を見つけることだ」 父は、そう言うと、照れくさそうに頭を掻いた。 「父さんは、お前の人生まで、品質管理するのを、やめることにした。だから、お前は、お前の基準で、うまいもんを見つけろ。もし見つからなかったら、いつでも帰ってこい。ここには、規格外のホットケーキくらいなら、いつだってあるからな」
美紀は、父の顔をじっと見つめた。その目から、ぽろりと、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しい涙ではなかった。 「…うん。ありがとう、お父さん」
彼女は、不格好なホットケーキを、一口、口に運んだ。 少し、焦げていて、少し、粉っぽかった。 だけど、世界で一番、優しい味がした。




