第23話 最後の壁
第三部 魂の証明
第七章:金融の壁
1:最後の壁
週が明けた月曜日。作戦本部には、週末の死闘を乗り越えた、確かな手応えと安堵の空気が流れていた。 台風による生産危機から数日。誠一郎たちが導き出した「科学」という武器を手に、宮本率いる製造現場は驚異的な速さで立ち直り、不良率は目標値を大きく下回る水準で安定していた。
「見たか、社長!うちの若え衆の、あの顔!ありゃ、もう大丈夫だ!」 宮本が、週末の報告書を手に、満足げに高梨の背中を力強く叩く。 「ああ。だが、あれはあんたたちが繋ぎ止めてくれた火だ。俺は、油を注いだだけだよ」 高梨は、照れくさそうに笑った。その時だった。
彼のデスクに置いてあったスマートフォンが、静かに、しかし有無を言わせぬように振動した。 ディスプレイに表示された名前に、部屋の空気が一瞬で凍りつく。
【みらい銀行 白川 巌】
先ほどまでの安堵の空気が、まるで冷水を浴びせられたかのように消え去る。全員が息を飲み、高梨の手元を凝視した。それは、彼岸からの呼び出しのようにも思えた。 高梨は、一度、目を閉じて深く息を吸う。そして、ゆっくりと目を開けると、動揺を微塵も見せない落ち着いた手つきで、通話ボタンを押した。
「――はい、高梨です。いつもお世話になっております」 スピーカーモードにはしていない。だが、静まり返った部屋には、受話器の向こうから漏れ聞こえる、温度を感じさせない事務的な声の断片が、まるで氷の破片のように突き刺さった。
「…ええ…はい、承知しております」 「来週の、月曜日。午前十時、ですね」 「はい。もちろんです。準備は、万全です」 「失礼いたします」
短い、あまりにも短い通話だった。 高梨は、静かに通話を終えると、スマートフォンをゆっくりとデスクに置いた。そして、固唾を飲んで見守る仲間たち一人ひとりの顔を見渡す。
「――最終ヒアリングの日程が決まった。一週間後の、来週月曜日、午前十時だ」
その言葉に、宮本が「上等じゃねえか」と口を開きかけた、その瞬間だった。 「…ですが、社長」 それまで黙って数字を睨みつけていた営業部長の田中が、重い口を開いた。彼の顔には、安堵の色はなく、営業の最前線で数字の厳しさと向き合ってきた男の、現実的な苦悩が浮かんでいた。
「白川さんから提示された二つ目の条件…発売後一ヶ月での、売上目標達成。正直に申し上げて、我々は、あの大炎上で失った数字を取り戻すことはできませんでした。目標には、届いていない。これは、紛れもない事実です」
田中のその一言に、部屋の空気は完全に変わった。誰もが、心のどこかで分かっていた、しかし、認めたくなかった現実。KPI未達という、絶対的な「敗北」の事実が、重く、冷たく、全員の肩にのしかかった。
宮本の威勢のいい言葉は、飲み込まれた。 誠一郎が、静かに頷く。 「田中部長の言う通りです。我々は、提示された条件の一つを、満たすことができなかった。論理的に考えれば、白川さんが我々の追加融資を断る理由は、完全に成立している。極めて、厳しい戦いになるでしょう」
品質の鬼による、冷徹な分析。それは、希望的観測を一切許さない、最終通告にも等しかった。 全員が、押し黙る。視線は、自然と高梨へと集まった。
彼は、その視線を一身に受けながら、ゆっくりと口を開いた。その声は、静かだったが、朝礼の時とはまた違う、鋼のような強さが宿っていた。
「ああ、その通りだ。我々は、負けた」
高梨は、ホワイトボードに貼られた、炎上時のSNSのコメントと、その後のV字回復を示すグラフを、指でなぞった。
「だが、俺は、この『負け』こそが、我々の最大の武器になると信じている」
彼は、仲間たちの顔をもう一度見渡す。 「我々は、来週、白川さんに謝りに行くわけじゃない。ましてや、言い訳をしに行くのでもない。我々は、『我々の負け方が、いかに価値のあるものだったか』を、証明しに行くんだ。予期せぬ危機に対し、我々がどう向き合い、どう乗り越え、そして、何を学んだのか。その全てを、叩きつけに行く」
その言葉に、役員たちの目に、再び光が宿った。 だが、誠一郎が静かに、しかし力強くその言葉を引き取った。 「社長、その通りです。ですが、その『証明』は、言葉だけでは足りません。我々がこの数ヶ月で得た全ての学びと失敗を、誰が見ても理解できる、再現可能な**『システム』**として提示する必要があります。それこそが、我々が単なる偶然で生き残ったのではないことを示す、唯一の論理的な武器です」
誠一郎の提言を合図に、福あかり本舗の、最後の戦いが始まった。 残された時間は、一週間。作戦本部は、再び不夜城と化した。ホワイトボードが、新たなアイデアとキーワードで埋め尽くされていく。
「顧客の声は宝の山だ!炎上時のあの悲痛な叫びも、その後の応援の声も、全てが次のヒット商品の種になる!これをリアルタイムで掴み、分析し、開発に直結させる仕組みを作るんだ!」 営業の田中が、SNSの分析データを壁に叩きつけるように貼る。それを見た開発の織田が、興奮したように応じた。 「それなら、若年層のトレンドも掴めるはずだ!『萌え断』?面白い。うちの餡とフルーツで、新しい市場を狙えるぞ!」 二人の議論が熱を帯び、**『市場対応システム・AKARI-SCOPE』**の原型が、その場で生まれた。
「木村の勘は翻訳できた。だが、俺の頭の中にも、織田の頭の中にも、まだ言葉になっていない宝があるはずだ。営業のクレーム対応だって、立派な技術だろうが!」 製造の宮本が唸ると、誠一郎が静かに頷いた。 「その通りです。それら全部門の『暗黙知』を、会社の公式な資産に変える。そのための仕組み、**『技術継承システム』**を、我々は創り上げなければなりません。誰かが辞めても会社が揺るがない、知恵が人を育てる仕組みをです」
「だが、社員の心がついてこなければ、どんなシステムも意味がない!」 高梨が、社員たちの顔を思い出しながら、問題を提起する。 「彼らが会社の主役だと、心から感じられる仕組みが必要だ。ただのボーナスじゃない、もっと強固な繋がりを…」 その言葉を受け、財務の佐藤が、青い顔で、しかしプロフェッショナルとしての強い光を目に宿して、徹夜で電卓を叩き続けた。 「社長、これなら…。年会費制のファンクラブと、従業員の利益分配を組み合わせれば、新たな収益源を確保しつつ、銀行も納得させられるかもしれません」 リスクとリターンが緻密に計算された**『共創型ファンド』**の財務モデルが、そこに示されていた。
開発、製造、営業、品質、財務、そして経営。 それぞれの持ち場で戦い、傷つき、それでも立ち上がった男たちの知恵と経験が、部門の壁を越えて、一つの巨大な設計図へと統合されていく。
そして、運命のプレゼン前夜。 誠一郎が、製本されたばかりの分厚い計画書を、高梨のデスクにそっと置いた。表紙には、『【統合事業計画書】自己進化する経営システムと共創型ファンド』と記されている。
「社長。これが、我々の魂の、設計図です」
高梨は、そのずっしりとした重みを両手で受け止め、力強く頷いた。




