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第22話 若獅子の覚醒

4:若獅子の覚醒

誠一郎たちが「勘の翻訳」に成功し、宮本が現場の職人たちの心を一つにした、その日の夕方。 高梨は、安堵と共に社長室の窓から工場を見下ろしていた。宮本と誠一郎という二人の巨人が、崩壊寸前だった現場の「技術」を、見事に立て直してくれた。これで会社は、また前に進める。そう信じかけていた。


だが、終業時間を過ぎ、がらんとした工場内を歩いていた彼の目に、信じがたい光景が飛び込んでくる。


休憩室だ。 昼間、宮本の魂の演説に、涙を流して応えていたはずの若い職人たちが、今は数週間前と何一つ変わらない、重くよどんだ空気の中で、押し黙ってスマートフォンの画面を眺めている。そこに、以前のような活気はない。高梨は、ドアの隙間から漏れ聞こえてきた、彼らの小さな会話に、足を止めた。


「…今日のやり方、すげぇよな。もう迷わなくて済む」 「ああ…。でもよ、結局、俺たちの給料は変わんねえんだろ?来月、この会社、本当にあるのかね…」


その言葉に、高梨は頭を殴られたような衝撃を受けた。 (そうか…) 宮本部長と鈴木さんは、現場の「技術」と「誇り」を立て直し、職人たちに「どう働くべきか」という道筋を示してくれた。だが、彼らが「なぜ、この会社で働き続けなければならないのか」。その、あまりにも根源的な問いに、答えを与えられるのは、社長である自分しかいない。


誠一郎が現場の「技術」と向き合っている、まさにその時。高梨もまた、社長として、彼らの「心」と向き合わねばならない、と。


彼は壁に飾られた、先代社長が従業員たちと満面の笑みで写っている写真を、そっと机に伏せた。 (親父、俺は、あんたのようにはなれないかもしれない。あんたのような、カリスマ性も人望も、俺にはない…) (だが…俺には、俺なりのやり方があるはずだ。俺は、もうあんたの幻影を追わない。俺は、俺の言葉で、今ここにいる仲間たちと、向き合うんだ)


決意を固めた高梨は、その足で社長室に戻ると、内線で財務部長の佐藤を呼び出した。数分後、血の気の引いた顔で入室してきた佐藤に対し、高梨は静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで告げた。 「佐藤部長、緊急で頼みたいことがある。今すぐ、Project Vで達成したコスト改善効果を全て洗い出し、来期の予想利益を再計算してくれ。そして、その利益を原資とした場合の、実現可能なベースアップ額を、複数のシナリオで試算してほしい。今夜中にだ」 「べ、ベースアップ、ですか!?」佐藤の声が裏返る。「社長、ご冗談でしょう!我々はまだ赤字です!この状況で、人件費を上げるなど…!」 「コストじゃない。『投資』だ」 高梨は、佐藤の目をまっすぐに見据えた。 「社員の心が死んでしまえば、この会社は静かに腐っていくだけだ。そのリスクの方が、よほど大きい。君の懸念は分かる。だが、これは命令だ。彼らに示すべきは、精神論じゃない。具体的な『希望』の数字だ。頼んだぞ」


その夜、社長室の明かりは、いつまでも消えなかった。高梨は、佐藤が徹夜で弾き出した、いくつかの楽観的、あるいは悲観的なシナリオが並ぶ試算表を睨みつけ、その中から、リスクと希望のバランスが取れた、ただ一つの「約束の数字」を、選び取っていた。


翌朝、始業前に、高梨は緊急で役員会を招集した。作戦本部ウォー・ルームのホワイトボードの前には、誠一郎、宮本、田中、そして徹夜でさらに血の気を失った財務部長・佐藤が集まっていた。


「朝早くにすまない。だが、一刻の猶予もない」 高梨は、自分が選び取ったシミュレーション資料を、役員一人ひとりに配った。 「昨日、私は社員たちの声を聞いた。彼らは、会社の未来を信じられていない。技術や誇りだけでは、腹は膨れないからだ。我々が今すぐ向き合うべきは、彼らの『心』だ」


高梨は、シミュレーション結果を指し示す。年間2,550万円の利益改善効果、そして、それを原資とした来期の月額平均2万6,000円のベースアップ計画。


その数字が提示された瞬間、財務部長の佐藤が、意を決したように重い口を開いた。 「社長。昨晩、ご指示の通り、私はこの数字を算出いたしました。ですが、財務責任者として、改めて申し上げます。これは、あまりにも楽観的なシナリオに基づいた、極めてリスクの高い賭けです。まだ実現していない利益を元手に、固定費である人件費の増加を公約するなど、経営のセオリーから完全に逸脱しております」 佐藤の反論は、感情的なものではなかった。それは、会社の金庫番としての、職務に忠実な、冷静な意見具申だった。


その冷静な反論に、高梨は静かに、しかし力強く答えた。 「これは、コストじゃない。投資だ」 会議室にいる全員が、息を飲む。 「社員のモチベーションと、会社への忠誠心に対する、投資だ。彼らの心が死んでしまえば、どんなに優れた技術があっても、この会社は静かに腐っていくだけだ。そのリスクの方が、よほど大きいと私は判断した」


彼は、続ける。 「もちろん、これは決定事項として伝えるつもりはない。『来期、利益が出たら、その半分を必ず皆に還元する』。社員と、会社との**『公約』**として発表したい。目標を共有し、痛みも喜びも分かち合う。それこそが、新しい福あかり本舗の在り方だと思う。この提案、会社の正式な方針として、皆に承認してもらいたい」


宮本と田中は、腕を組み、難しい顔で黙り込んでいる。現場と顧客の板挟みになってきた彼らだからこそ、社員の気持ちも、財務の厳しさも、痛いほど分かるのだ。 その沈黙を破ったのは、誠一郎だった。 「…社長の、おっしゃる通りです」 彼は、高梨が提示した資料を、トン、と指で叩いた。 「私が作り上げた品質管理システムは、まだ不完全だった。そこには、最も重要な要素である『人間の心』を動かす仕組みが欠けていた。社長のこの提案は、その最後のピースを埋めるものだ。論理的に見ても、持続可能な成長のための、極めて合理的な投資だと判断します」


品質の鬼からの、絶対的な肯定。 その一言が、会議室の空気を決定づけた。宮本が、そして田中が、ゆっくりと、しかし力強く頷く。 「…分かった。社長がそこまで覚悟を決めたんなら、乗ろう。現場は、俺が責任を持つ」 「お客様にも、我々の新しい覚悟として、堂々と説明できます」


財務部長はまだ不安げな顔を崩さない。だが、高梨は彼の肩に手を置いた。 「佐藤部長、君の懸念は正しい。だからこそ、君にはこれからも、会社の財務を厳しく見守ってもらわなければならない。その上で、俺はこの船の舵を取る」


社長として、初めて、彼は役員全員の心を一つにした。


その直後の全体朝礼。蒸気と、ほのかな餡の甘い匂いが立ち込める工場の一角。全ての生産ラインが止められ、パート社員も含めた全従業員が、不安げな面持ちで集まっていた。「いよいよ、会社が潰れるのかもしれない」という絶望的な囁きが交わされていた。


その、重く、よどんだ空気の中へ、高梨は一人で歩みを進めた。演台はない。彼は、製品を運ぶための、少し高いパレットの上に静かに立つと、マイクを握りしめた。その顔には徹夜の疲労が浮かんでいたが、集まった一人ひとりの顔をゆっくりと見渡すその目には、澄み切った覚悟の光が宿っていた。


彼は、これまでの経営判断の全ての過ちを、自らの言葉で誠心誠意、謝罪した。そして、彼は続けた。


「皆に、正直に話す。皆の頑張りのおかげで、会社は年間2,500万円以上の利益改善を達成した。だが、それでも今期、我々はまだ赤字だ。だから、今すぐ皆の給料を上げるという約束は、残念ながらできない」


やはり、そうか。会場を支配していた囁き声がぴたりと止み、代わりに、重いため息と、諦念に満ちた空気が深く沈んだ。


「だが、聞いてほしい。我々が成し遂げたこの改善は、来年、2,500万円の『利益』となって会社に返ってくる。俺は、その利益の半分を、必ず皆に還元することを、ここに約束する」


どよめきが、小さく起こる。高梨は、背後の壁に設置された大型モニターを指差した。彼の合図で、徹夜で作成したシミュレーションのグラフが、そこに大きく映し出される。


「シミュレーションでは、来期、全社員の給料を、月額で平均2万6,000円、ベースアップできる計算だ」


その瞬間、会場の空気が、爆発したかのように変わった。 「に、にまんろくせんえん…!?」 「嘘だろ…?」 どよめきは、驚愕の叫び声に変わった。


高梨は、その熱気を引き継ぎ、声を張り上げた。 「これは、俺からのプレゼントじゃない!君たち自身が、自らの手で、汗と知恵で、勝ち取った未来だ!この数字は、宮本部長が長年の経験と知恵で、不可能だと思われた製造の壁を打ち破る、画期的な工夫を考えてくれたから生まれた!営業の田中部長が、お客様との新しい関係を築いてくれたから生まれた!そして、この場所にいる、君たち一人ひとりが、歯を食いしばって、会社を信じて、働き続けてくれたから、生まれたんだ!」 「これは、俺個人の思いつきじゃない。今朝の役員会で、正式に決定した、福あかり本舗という会社全体の、君たちへの約束だ」


高梨は、その一人ひとりの顔を見渡し、魂を込めて叫んだ。 「もう一度、言う。会社を強くするのは、俺じゃない。君たち一人ひとりだ!そして、強くなった会社の果実は、必ず君たちに分配する。だから、信じてほしい。この会社には、俺たち全員で豊かになれる未来が、確かにあるんだ!」 「失ったものは、大きい。だが、俺たちにはまだ、守るべき品質がある。そして何より、この場所に残ってくれた、仲間がいる!もう一度、お客様に、『やっぱり、福あかり本舗のまんじゅうは、世界一だ』と言わせようじゃないか!皆で、もう一度、胸を張って、日本一のまんじゅうを作ろうじゃないか!」


高梨の魂の叫びが終わった瞬間、一拍の静寂の後、割れるような拍手が工場に響き渡った。それはもう、義務的な拍手ではなかった。絶望の淵から這い上がった男たちの、魂の咆哮だった。


技術的な自信という「誇り」の上に、生活の安定という「希望」が、会社の公式な約束として重なった瞬間。組織は、一度死に、そして、誰一人欠けることのない、本当の意味での「チーム」として、生まれ変わろうとしていた。



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