第20話 品質の鬼と、現場の王
3:品質の鬼と、現場の王
その夜、福あかり本舗の品質管理室は、静かな戦場と化していた。 宮本から託された、数十冊に及ぶ木村の「製造日誌」。その黄ばんだページ一枚一枚が、誠一郎と佐藤の前に、解読不能な暗号のように立ちはだかっていた。
「ダメだ…!何度やっても、意味のある相関が見えてこない!」 佐藤が、PCの画面に映し出された散布図を見て、呻くように言った。彼の目の下には、三日分の徹夜が刻んだ濃い隈が浮かんでいる。 日誌に記された、豆の産地、その日の気温、工場の湿度、混練時間、釜の温度…考えうる全ての変数を入力し、不良率との関係性を分析したが、グラフに現れるのは、まるで心電図の乱れのような、不規則なノイズだけだった。
「木村さんの『勘』とやらは、本当にただの気まぐれだったというのか…」 誠一郎もまた、深い疲労を隠せずにいた。彼は、あるページを指差す。そこには、走り書きのような文字でこう記されている。
『五月十七日、晴れ。朝の空気がひんやりと肌を刺す。今日の豆は機嫌がいい。練り時間、マイナス5秒』
「『空気が肌を刺す』『豆の機嫌』…!こんな詩のような言葉を、どうやってデータに変換しろというんだ!」 誠一郎は、珍しく感情を露わにし、ボールペンをデスクに叩きつけた。彼の信じる「科学的管理」が、一人の天才職人の、あまりにも感覚的な世界の前に、全くの無力であることを突きつけられているようだった。
時刻は、深夜二時を回っていた。集中力が途切れ、諦めの空気が部屋を支配し始めた、その時だった。 「……ん?鈴木さん、これ…」 佐藤が、あることに気づいた。彼は、台風が接近していた日の日誌のページと、別の年の、やはり天候が悪かった日のページを並べて見比べる。 「木村さん、天気が悪い日は、決まって『餡の火通りが甘くなる』って書いてます。そして、そういう日は必ず、練る時間をいつもより数秒、長く調整している…」 「そんなことは分かっている!」と誠一郎は苛立ちを隠さずに言う。「問題は、その『数秒』が、何を根拠に決められているかだ!」
「はい…。でも、もし…もし、その根拠が、工場の中じゃなくて、外にあるとしたら…?」 佐藤のその一言に、誠一郎はハッとして顔を上げた。 「外…だと?」
「はい。天気、です。木村さんは、湿度や気温だけじゃない、もっと別の何かを読んでいたんじゃないでしょうか。例えば…気圧、とか」 その瞬間、誠一郎の脳内で、バラバラだったパズルのピースが、一つの形を成そうとしていた。彼は、血走った目で佐藤に叫ぶ。 「佐藤君、すぐに過去十年分の横浜の気象データを洗い出せ!日ごとの、時間ごとの、気圧の変化のデータをだ!急げ!」
それからの二人は、何かに憑かれたようにPCにかじりついた。佐藤が気象庁のデータベースから膨大な気圧データをダウンロードし、誠一郎がそれを、木村の日誌の練り時間データと、一心不乱に突き合わせていく。
そして、運命の朝。窓の外が白み始めた頃。 「……で、できた…」 佐藤の声が、震えていた。 スクリーンに映し出されたグラフ。それは、もはやノイズではなかった。横軸の「前日比の気圧低下率」と、縦軸の「練り時間の延長秒数」が、恐ろしいほどの精度で、一本の直線を描き出していたのだ。
その朝、誠一郎と佐藤は、製造部長室のドアをノックした。徹夜で憔悴しきった宮本が、弾かれたように顔を上げる。 「…鈴木さんか!どうだ、何か分かったか」 その声に、もう皮肉の色はない。夜を徹して戦い、それでも出口が見えない男の、最後の望みが込められていた。 「現場はもう、手の施しようがねえ。あんたのその『科学の目』だけが頼りなんだ」
誠一郎は何も言わず、朝日を浴びて神々しくさえ見えるグラフを、宮本の前に差し出した。 「宮本部長。これが、木村君の『勘』の正体です」 「…気圧だと?何の話をしてるんだ」 怪訝な顔をする宮本に、誠一郎は静かに続けた。 「気圧が下がる、つまり天気が崩れる予兆がある時、彼は必ず、練り時間を数秒、長くしている。なぜか。気圧が下がれば、水の沸点も僅かに下がる。その、0.1度の変化が餡の火通りに与える影響を、彼は体で感じ取り、論理的に、補正していたのです」
その言葉に、宮本は雷に打たれたように固まった。 彼の脳裏に、遠い記憶が蘇る。先代社長と、まだ若かった木村と三人で、試作品を囲んでいた、ある雨の日の光景。 『今日の餡は、いつもより少し水っぽいな』 先代の言葉に、木村が答える。 『ええ。雨の日は、どうも火の通りが甘くなるんで、少しだけ長く練ってみたんですが…』
あの時、自分は「職人の勘とは、そういうものだ」と、気にも留めなかった。だが、その背後には、これほど明確な科学的根拠があったというのか。 次々と示される、衝撃的なデータ。湿度と加水量の相関グラフ。豆の含水率と蒸らし時間の関係。木村の「神業」と呼ばれた暗黙知が、誠一郎の執念によって、一つ、また一つと、「科学の言葉」へと翻訳されていく。
「…そうか。あいつは、そこまで見えていたのか…」 宮本は、自分の知らなかった、あまりにも大きな才能の正体に、愕然としながらも、心のどこかで、誇らしいような、不思議な気持ちになっていた。そして同時に、気づいた。この「科学」だけでは、現場は動かない、と。
「…鈴木さん、ありがとうよ」 宮本は、顔を上げた。その目には、もう絶望の色はなかった。現場を知り尽くした、王の眼光が戻っていた。 「そのデータ、俺に全部よこせ。…若え衆に話をするのは、この俺の仕事だ」




