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第2話 鬼の誤算

2:鬼の誤算

翌朝、午前九時。誠一郎は、佐藤が提出した「工程管理値逸脱に関する原因調査および再発防止策報告書」と題されたレポートに目を通していた。


(ふむ、緊急処置と影響範囲の特定は、迅速かつ的確だ)


誠一郎は、無駄のない事実報告に静かに頷きながら、ページをめくる。彼の目が、ある項目でぴたりと止まった。「根本原因分析(なぜなぜ分析)」と書かれたそのセクションに。


第一のなぜ、第二のなぜ…。佐藤の分析は、表面的な現象から、徐々にその核心へと潜っていく。成形機の金型、そしてそれを固定するアーム部のベアリングの摩耗へ。誠一郎の眉間の皺が、僅かに深くなる。


(そうだ、そこまでは誰でもたどり着く)


だが、誠一郎の予測とは裏腹に、佐藤の分析はそこで終わらなかった。


第三のなぜ、「なぜ摩耗を事前に検知できなかったのか」。第四のなぜ、「なぜチェックリストに定量的な管理項目がなかったのか」。そして、誠一郎の脳裏に突き刺さるように、第五の「なぜ」が記されていた。


【第5のなぜ】なぜ、「予防保全」の視点が欠如していたのか? → 品質は「守る」ものという意識はあったが、品質は「作り込む」もの、すなわち、常に最高の状態を維持するために工程の僅かな変化を能動的に発見し、摘み取るという思想が、品質管理マニュアルには明記されているものの、製造現場の具体的な作業手順にまで反映されていなかったため。


誠一郎は、思わず息を飲んだ。若き部下は、単なる部品の欠陥報告ではなく、組織に根付く思想の問題にまで踏み込んできたのだ。


さらにページをめくると、再発防止策として「管理図トレンド監視アラート」という項目が目に飛び込んできた。データの平均値が一定方向に変動した場合、管理限界値を超える前に「予兆」としてアラートを出すシステムの提案。それは、壊れてから直す「事後保全」から、壊れる前に手を打つ「予防保全」への、具体的な一歩だった。


(この男…分かっている)


誠一郎は、静かにレポートを閉じた。原因分析、対策、歯止め。その内容はロジカルで、非の打ち所がなかった。 だが、だからこそ、彼の眉間の皺は消えなかった。


(佐藤君は、たった一日でこの仕事の本質にたどり着いた。ではなぜ、私はこの本質を、もっと早く全員に浸透させることができなかったのだ…?)


彼は自席の後ろにある巨大な書棚から、自身が数年前に心血を注いで作り上げた、分厚い、数百ページにも及ぶ『品質管理マニュアル』を取り出す。その革張りの重い表紙を、ゆっくりと撫でた。彼の脳裏に、そのマニュアルを若き日の彼が先代社長と共に作り上げていた頃の熱狂にも似た日々が蘇る。


それは、福あかり本舗がISO9001の認証を取得し、まさに黄金期を駆け上がっていた十数年前の記憶。当時、品質への関心が人一倍強かった先代社長は、夜遅くまで品質管理室に残り、若い誠一郎と議論を重ねるのが常だった。


「鈴木君、ただ記録するだけじゃダメだ。なぜそうなるのか、数字で未来を予測できなきゃ意味がない。職人の勘を、科学にするんだ。誰にも真似できない、我々だけの仕組みを、この会社に築くんだ。君ならできる」


誠一郎は、その期待に応えることこそが自らの使命だと信じた。海外の専門書を取り寄せ、独学で統計的品質管理を学び、毎晩のように先代と議論を重ねた。グラフの一つ、数式の一行に至るまで、一切の妥協を許さなかった。


「見てください社長、これで我々の品質は、個人の経験則から完全に独立します。これが、福あかりの品質マネジメントシステムの全貌です」


完成したマニュアルの構想を前に、先代社長は子供のように目を輝かせた。


「素晴らしい…!これぞまさしく、福あかりの魂そのものだ。未来への、最高の贈り物だよ、鈴木君」


その言葉に誠一郎は胸を熱くし、さらにマニュアルに磨きをかけた。二人の理想と情熱の結晶。だが、その輝きに目が眩むあまり、彼らは気づいていなかったのかもしれない。この魂を、未来の従業員たちが本当に理解できるのかという、あまりにも初歩的な視点に。


(……何かが、根本的に間違っていた)


誠一郎は、自らの過ちを認めざるを得なかった。マニュアルは存在する。だが、それはあまりに専門的で高度すぎた。自分と同じレベルの知識と哲学を、全ての従業員が「当然持っているはずだ」と、無意識のうちに思い込んでいたのだ。


(私はシステムを作ることだけで満足していた。伝える努力を怠っていた。ただそこにあるだけの知識は、ないのと同じだ…)


誠一郎は内線で佐藤を呼び出した。


「いや、レポートは完璧だ。君は昨日、この仕事の本質を理解した。よくやってくれた」


その思わぬ言葉に、佐藤は目を丸くする。


誠一郎は分厚いマニュアルを佐藤の前にドンと置いた。


「だが、これは失敗作だ。私の自己満足でしかない。だから君に、新しく、そしてもっと重要な任務を与える」


「いいか、佐藤。これは単なる書き直しじゃない。この会社は今、危機にある。我々の唯一の武器は『品質』だけだ。だが、誰も使いこなせない武器はただのガラクタだ。このマニュアルは今、ガラクタなんだ」


「君の仕事は、この私のガラクタを、新しい剣に作り変えることだ。パートのみなさんから頑固な職人まで、誰もが手に取り振るうことのできる最強の剣にな。その剣が完成した時、初めて我々はこの長い暗いトンネルを抜け出すことができる」


「この会社の品質の未来は、君が作り出すその一冊にかかっている。頼んだぞ、佐藤」


それは、鬼の仮面を被った男が初めて弟子にその素顔の一端を見せ、未来への希望を託した瞬間だった。

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