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第19話 見えざる壁

2:見えざる壁

木村が去ってから、最初の数日間。 製造現場は、見えない敵との、静かな戦いを強いられていた。後継者である青木は、木村が遺した分厚いマニュアルを、まるで聖書のように抱え、そこに書かれた手順を忠実に守っていた。しかし、それでも、時折ラインの最後の検品工程で、パートリーダーから「今日の、少しだけ皮が硬いわね」「餡の風味が、昨日と微妙に違う気がする」といった、データには現れない、微細な「ブレ」が報告された。


そのたびに、青木と宮本は、二人で夜遅くまで工場に残り、試行錯誤を繰り返した。「木村さんなら、こういう時どうしただろうか…」。その言葉が、二人の頭を何度もよぎる。だが、彼らは持ち前の根性と、残されたマニュアルを隅々まで読み解くことで、なんとかその「ブレ」を制御可能な範囲に収めることに成功していた。不良率は、僅かに上昇したものの、危機的なレベルには程遠かった。


そして、一週間が経った。 幸いにも、天候は安定し、原材料のブレも少ない日が続いた。現場は、木村が遺した完璧なマニュアルと、青木を中心としたチームワークによって、驚くほどの安定を取り戻していた。不良率は、木村がいた頃とほぼ変わらない、低い水準で推移している。 「よし、今日の餡も上々だ!」 宮本は、焼き立てのまんじゅうを一つ口に放り込み、満足げに頷いた。彼の安堵は、工場全体に伝播した。誰もが、最も大きな危機は乗り越えたのだと、そう信じ始めていた。木村の不在という大きな穴を、自分たちの力で埋められたのだ、と。


その週の木曜日、運命の歯車が狂い始める。 テレビのニュースは、観測史上最大級の台風が関東に接近していると、繰り返し報じていた。横浜の空は、朝から鉛色の雲に覆われ、工場の窓ガラスを、横殴りの雨が絶え間なく叩いていた。工場内は、じっとりとした湿気で満ち、機械の表面にはうっすらと水滴が浮かんでいる。


異変は、まず製餡エリアから始まった。 「部長!ダメです!今日の餡、どうしても風味が薄くなる…!マニュアル通りにやってるのに!」 青木の悲鳴に近い声が響く。彼は木村から引き継いだマニュアル通り、湿度の高さに対応して生地の水分量を調整した。だが、マニュアルは、これほどの急激な気圧の低下までは想定していなかった。


そして、その「ズレ」は、下流の工程で、決定的な「不良」となって姿を現した。 検品ラインのパートリーダーの叫び声が、工場の騒音を切り裂いた。 「部長!大変!不良品が止まりません!」 見ると、検品台の上には、皮が割れたもの、餡がはみ出したもの、焼き色がまだらなもの、見るも無残なまんじゅうが、次々と積み上げられていく。それはもはや「ブレ」ではなかった。紛れもない「大量生産された失敗作」の山だった。


その頃、品質管理室のモニターの前で、誠一郎が息を飲んだ。 彼の目の前の管理図コントロールチャートに、これまで決して超えることのなかった上限管理線を、一つの赤い点が、明確に突き破ったのだ。第一部で彼が指摘した、あの「致命的な異常」が、今、現実のものとして目の前に出現していた。 「佐藤君、直近のロット不良率を再集計しろ!」 弾かれたように佐藤がキーボードを叩く。数秒後、彼の顔が絶望に染まった。 「…鈴木さん。本日製造分のロット、現時点での不良率は…12.8%。過去最悪の数字です…!」


現場は、出口の見えない迷路に迷い込んだような、重い絶望感に包まれ始めた。 「どうなってるんだ、青木!マニュアル通りにやってるんだろうな!」 宮本の苛立ちが、後継者である青木に向けられる。 「はい!木村さんから教わった通りに、寸分たがわず…!でも、何かが違うんです…!木村さんなら、こういう日、きっと何か違うことをしていたはずなんです…!」 青木は、泣きそうな顔で訴えた。


教科書はあっても、その行間を埋める、絶対的な経験値が足りない。マニュアル化された「手順」は引き継げても、木村の指先が感じていた生地の弾力、彼の舌が判断した餡のコク、その膨大な「経験」そのものは、誰にも引き継ぐことなど、できなかったのだ。


その日の夕方、宮本が、鬼の形相で品質管理室に乗り込んできた。その手には、木村が個人的につけていた、数十冊の古い「製造日誌」が握られていた。 「鈴木さん、もう俺の勘も、あいつが遺したマニュアルも、何の役にも立たねえ。だが、もしかしたら…」 宮本は、日誌の束を、ドン、と誠一郎の机に置いた。 「もしかしたら、この、あいつの魂の抜け殻に、何か答えが残ってるかもしれん。あんたのその『科学の目』で、こいつを、解剖してくれねえか」


誠一郎は、日誌の山と、藁にもすがるような目をした宮本の顔を、交互に見比べた。そして、静かに、しかし力強く頷いた。 「…ええ、やりましょう。宮本部長、手伝っていただきたい。木村君の『勘』を、我々の手で、『科学』へと翻訳するのです」 二人の、新たな戦いが始まろうとしていた。

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