第18話 不完全な継承
第六章:鬼の継承、若獅子の覚醒
1:不完全な継承
木村の退職日まで、残り一ヶ月。 製造現場には、これまでとは違う、静かで、しかし濃密な緊張感が漂っていた。それは、一つの時代が終わることへの、寂寥感と、新しい時代を自分たちの手で創らなければならないという、悲壮なまでの責任感の表れだった。
木村は、まるで憑き物が落ちたかのように、穏やかな表情で若手たちの指導にあたった。特に、彼の後継者として誰もが認める若手のエース、青木の横には、つきっきりだった。その引継ぎは、誰の目から見ても「完璧」であり、木村の職人としての最後の誇りを賭けた、壮絶な戦いでもあった。
その日の朝も、二人は誰よりも早く、まだ静まり返った製餡エリアに立っていた。 「青木、これを嗅いでみろ」 木村は、その日に使う手亡豆を麻袋から一掴みし、青木の鼻先に突き出した。 「…はい。いつもの、豆の香りです」 「違う」 木村は、静かに首を横に振る。 「いつもの香りの中に、ほんの僅か、土の匂いが混じってる。昨日の雨で、豆が湿気を吸ってる証拠だ。こういう日は、釜に入れる前に、いつもより30分長く、風に当ててやる。マニュアルに書いた通りだが、この『匂い』を、お前の鼻に覚えさせるしかねえんだ」
彼は、釜の火入れを青木に任せると、その背後から、じっと炎の色を見つめた。 「炎の色が、青白いだろ。これは、工場の中の空気が乾燥してるってことだ。釜の熱が、いつもより早く餡に伝わる。だから、火から下ろすタイミングを、5秒だけ早くする。もし、この炎が少しでも赤みを帯びてたら、それは空気が湿ってる証拠だ。その時は、逆に5秒、長く焼く」
「はい!」 青木は、師匠の言葉の一言一句を、油で汚れたノートに必死で書き写す。だが、木村の心の中には、言葉では伝えきれない、もどかしさが渦巻いていた。 (違う、そうじゃねえんだ、青木。俺が見てるのは、炎の色だけじゃねえ。釜から立ち上る湯気の質感、壁に伝わるモーターの微かな唸り、餡が焦げる一瞬手前の、甘い匂いの変化…その全てで、タイミングを計ってるんだ。だが、そんなこと、どうやって言葉にすりゃいいんだ…)
彼は、餡を練る木べらを青木に渡し、その手の上に自分の手を重ねた。 「いいか。この、木べらから伝わってくる、ほんの僅かな抵抗を感じろ。昨日より、ほんの少しだけ重い。これは、豆が水を吸いすぎてる証拠だ。この『重さ』を感じたら、練り時間を3秒だけ短くするんだ。長すぎると、風味が飛ぶ」
言葉にできない感覚を、木村はあらゆる言葉を尽くして伝えようとした。夜、家に帰れば、家族との時間も削り、その日伝えきれなかった「感覚」を、どうにか「言葉」に変換しようと、電話帳のように分厚い引継ぎマニュアルのページを、インクで黒く染めていった。そこには、考えうる限りの天候パターン、原材料のブレに対応する、無数の調整法が、びっしりと書き込まれていた。 青木もまた、その期待に応えようと、昼休みを返上し、終業後も一人残って、木村のノートとマニュアルを擦り切れるまで読み込んだ。
それは、傍目には、完璧な技術の継承に見えた。誰もが、これで福あかりの味は守られる、と信じて疑わなかった。木村自身も、そう信じようと、必死だった。
そして、旅立ちの日。ささやかな送別会で、木村は「あいつらを頼む」と宮本に頭を下げ、仲間たちに惜しまれながら、静かに会社を去っていった。 彼のロッカーには、あの分厚いマニュアルと、彼が何十年も書き綴ってきた「製造日誌」の束が、後を託す者たちへの、最後の置き土産として、静かに残されていた。




