第17話 静かなる決別
3:静かなる決別
赤坂と会った翌日。木村の心は、激しく揺れ動いていた。 悪魔の囁きに乗りたい自分と、会社への恩義や仲間との絆を断ち切れない自分が、胸の中で激しくせめぎ合っていた。 (いや、まだだ。まだ、手はあるはずだ…) 彼は、最後の望みをかけて、行動を起こした。
まず、高梨社長に直接窮状を訴えようと考えた。だが、作戦本部と化した大会議室の周辺は、銀行との交渉資料を抱えた役員たちが行き交い、異様な緊張感に包まれている。廊下の向こうから、田中営業部長と深刻な顔で歩いてくる高梨の姿を見つけ、木村は意を決して声をかけた。 「社長、今、少しだけ、お時間を…」 しかし、高梨は山積みの課題に忙殺されており、木村の深刻な表情に気づく余裕もなかった。 「木村さん、すまない!今は本当に手が離せないんだ、また後にしてくれ!」 悪気のないその一言と共に、高梨は彼の横を通り過ぎ、会議室の中へと消えていった。その背中に、木村はもう声をかけることができなかった。
(…そうだよな。社長は今、会社全体のことで手一杯だ…) 自嘲気味に呟き、彼が次に向かったのは、長年の同志である宮本の製造部長室だった。 「部長…。少し、個人的な相談が…」 ドアを閉め、意を決して切り出す木村に対し、宮本はデスクに山積みになった不良品の報告書と、真っ赤な数字が並ぶ予算管理シートを睨みつけていた。 「なんだ、木村。こっちも大変なんだ、手短に頼む」 その言葉に一瞬ためらいながらも、木村は絞り出すように言った。 「…実は、家の事情で、どうしても金が…。何とかならないかと…」 その言葉を聞いた宮本の表情が、苦渋に歪んだ。彼は、デスクの数字をバンと叩く。 「木村、お前の気持ちは痛いほど分かる。だがな…これを見ろ。今、この会社にそんな余裕は、一円だってありゃしねえんだ。俺だって、お前の力になりてえ。だが、どうしようもねえんだ。今は、全員が歯を食いしばって耐えるしかねえ。…すまん」
宮本のその言葉が、木村の心に残っていた、最後の細い希望の糸を、無情にも断ち切った。 社長には声が届かない。長年の同志ですら、助けてはくれない。 (…そうか。もう、この会社に、俺の居場所はねえんだな) 彼の胸に、深い、深い絶望と、そして孤立感が広がっていく。赤坂響子のあの怜悧な微笑みが、脳裏に浮かんだ。彼女の提案が、唯一の救いの道のように思えた。
その日の終業後。製造部長室のドアを、木村が再び叩いた。 「部長、今、少しよろしいでしょうか」 「おう、どうした」 デスクで書類の山と格闘していた宮本が、顔を上げる。彼の前に立った木村は、深く、長く、頭を下げた。そして、白い封筒を、テーブルの上にそっと置いた。 「…一身上の都合により、今月末で、退職させていただきたく存じます」
宮本の思考が、一瞬、停止した。書類を読んでいた視線が、ゆっくりと封筒へ、そして木村の顔へと移動する。 「…おい、木村。冗談だろ?」 だが、顔を上げた木村の、覚悟を決めた目に、それが冗談ではないことを悟る。宮本は、カッと頭に血が上るのを感じた。 「…なぜだ。何があった。会社が、今のこの一番大変な時に、てめえ、裏切る気か!」 怒声が、部屋に響く。だが、木村は、ただ黙ってその怒りを受け止めていた。 「申し訳ありません」 宮本は、何かを言いかけ、しかし、言葉を飲み込んだ。彼は椅子から立ち上がると、自分のロッカーから、くしゃくしゃになった煙草の箱を取り出した。 「…表に出ろ。一本、付き合え」
工場の裏手にある、古びた喫煙所のベンチ。二人は、肩を並べて座り、黙って煙草に火をつけた。紫煙が、工場の排気口から立ち上る湯気と混じり合い、夜の闇に消えていく。先に沈黙を破ったのは、宮本だった。
「…覚えてるか、木村。二十年前、先代の社長が、いきなり『日本一のどら焼きを作る』なんて言い出した時のこと」 その声には、もう怒りの色はなかった。ただ、遠い日を懐かしむような、寂しげな響きがあった。 「あん時、俺たちはめちゃくちゃだったな。試作の山で、何日も家に帰れなくてよ。あんこを焦がしちゃ、社長にゲンコツ食らって。生地の配合を間違えちゃ、二人で夜通し、やり直して」 木村は、答えなかった。ただ、アスファルトの一点を見つめている。 「でもある日の夜中、疲れ果てて二人で床に寝っ転がってたら、社長が、屋台のラーメン、おごってくれたよな。『お前ら二人がいるから、福あかりの未来は安泰だ』なんて、酔っ払いながら、同じこと何回も言ってさ」 宮本は、短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けると、夜空を見上げた。 「…あの人が見たら、泣くぞ、木村」
その言葉は、鋭い刃物のように、木村の胸を抉った。恩人である先代の顔が、脳裏に浮かぶ。宮本と共に、がむしゃらに腕を磨いた、あの熱い日々が蘇る。だが、彼の隣には、もう一人の妻の顔があった。病と闘う妻の、か細い笑顔。そして、目の前には、あまりにも重い、治療費の請求書という現実があった。 「…申し訳、ありません」 木村の口からこぼれたのは、また、その一言だけだった。
宮本は、もう何も聞かなかった。その一言に、木村の、どうしようもない覚悟の全てが込められていることを、長年連れ添った同志として、理解してしまったからだ。 「…そうか。お前が、そこまで決めたんなら、俺が言えることは、何もねえ」 宮本は、大きく、長い息を吐いた。 「だがな、木村。一つだけ、約束しろ。お前のその腕と頭の中にあるもん、全部、この会社に置いていけ。お前が育てた若手たちに、一つ残らず、叩き込んでいけ。それが、辞めていくお前の、この会社への、最後の仁義だ」 「…はい。もちろんです」 木村は、再び、深く頭を下げた。彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちたのを、宮本は見ないふりをした。 二人の間に、もう言葉はなかった。ただ、工場の機械が立てる低い唸りだけが、一つの時代の終わりを告げるように、静かに響いていた。
木村が退職願を置いていった直後、宮本は鬼の形相で社長室に駆け込んだ。 「社長、一大事だ!木村が…木村が、辞める!」 その報告に、作戦本部に集まっていた役員たちの間に激震が走る。
高梨は、一瞬言葉を失ったが、すぐに冷静さを取り戻し、宮本に経緯を尋ねた。木村が家族の事情で金銭的に追い詰められていたこと、そして、会社に助けを求めたが、叶わなかったこと。その全てを聞き終えた高梨は、唇を噛み締めた。 「…俺の、責任だ。俺が、彼の声に耳を傾けなかったからだ…」
その重い沈黙を破ったのは、誠一郎だった。 「社長、今、後悔している時間はありません。問題は、これからどうするかです。宮本部長、木村君の技術を完全に引き継ぐのに、最低どれくらいの時間が必要ですか?」 「…完璧に、だと?半年…いや、一年はかかる。あいつの頭の中にあるもんは、そんなに単純じゃねえ」 「では、一ヶ月では?」 誠一郎の冷徹な問いに、宮本は「無茶を言うな!」と吼えた。「そんなこと、できるわけがねえだろうが!」
その言葉に、財務部長の佐藤が青ざめた顔で付け加える。 「ですが、皆さん、忘れないでください。我々には、銀行との約束がある。残された時間は、もう一ヶ月を切っています…」
『銀行との約束』(短期目標)か、『技術継承』(長期目標)か。 会社にとって致命的とも言える、戦略的ジレンマが、そこに横たわっていた。
高梨は、しばらく目を閉じ、深く思考した後、顔を上げた。その目には、リーダーとしての、非情なまでの覚悟が宿っていた。 「…やるしかない」 「社長!?」 「分かっている。鈴木さんの言う通り、これは正気の沙汰ではない。宮本部長の言う通り、無茶な話だ。だが、我々にはもう、時間がないんだ」 高梨は、ホワイトボードに書かれた「45日」という数字を、強く指差した。 「銀行との約束を守れなければ、この会社は終わる。技術継承も何もない。だから、この無謀な賭けに乗るしかないんだ。この一ヶ月で、やれるだけのことを全てやる。木村さんには、最後の仁義として、持てる技術の全てを叩き込んでもらう。そして、我々はその技術を、死に物狂いで受け継ぐ。…これは、命令だ」




