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第16話 悪魔の囁き

2:悪魔の囁き

満月堂の社長室。重厚なマホガニーのデスクを前に、社長の月島は苦々しげに最新の試作品を口にしていた。 「…またか。技術的には完璧だ。だが、魂がこもっておらん」 彼の前に立つのは、ヘッドハンティング会社のエース、赤坂響子だった。 「月島社長。これが、今の満月堂の限界です。伝説の職人さんが引退されて10年、その穴は誰にも埋められていません」 「分かっている。だから君を呼んだんだ」月島は、福あかり本舗の「新・福あかりまんじゅう」のパッケージをテーブルに置いた。「SNSでの炎上から、見事な復活劇。正直、脅威だ。そして、業界ではずっと前から噂になっている。福あかりの味を、たった一人で支えている天才的な職人がいる、と」 月島は、鋭い目で赤坂を見据えた。 「赤坂君、君への依頼は一つだ。その『福あかりの魂』とも言える職人を、あらゆる手段を尽くして特定し、彼が我々のために働きたくなるような、抗うことのできない条件を提示するんだ」


「承知いたしました。ミッション、必ず遂行いたします」 赤坂は、優雅に一礼して社長室を後にした。彼女の頭の中では、既に複数の情報ソースがリストアップされていた。


横浜ベイエリアにそびえる、彼女のオフィス。ガラス張りの壁の向こうに広がる港の景色には目もくれず、赤坂はPCに向かうと、まず業界専門誌の記者である旧知の友人に、短いメッセージを送った。『福あかり本舗のキーマン、ご存知?』。返信は、数分で来た。『現場なら、間違いなく宮本部長か、職人の木村さん。でも、宮本部長は管理職。味そのものを支えてるのは、たぶん木村さんの方』。


次に彼女が開いたのは、匿名の業界口コミサイトと、数年前に福あかり本舗を退職した社員のSNSアカウントだった。キーワード『福あかり、職人、味』で検索をかけると、断片的な情報が浮かび上がってくる。「宮本部長は鬼だけど、本当にすごいのは木村さんの舌」「あの人の餡練りは芸術の域」「木村さんがいなくなったら、福あかりは終わる」。


パズルのピースが、一つ、また一つと嵌まっていく。情報は、一人の男を指し示していた。 製造課長、木村。彼こそが、満月堂が10年間探し求めていた、「魂」を創り出せる職人。ターゲットは、確定した。


「さて、と…」 赤坂の口元に、怜悧な笑みが浮かぶ。 「どんな人間にも、心に隙間は生まれるもの。あなたの『正体』は分かった。次は、あなたの『弱点』を教えてもらいましょうか」


彼女が次に電話をかけたのは、裏社会との繋がりも噂される、業界でもトップクラスの調査能力を持つ興信所だった。依頼内容は、もはや人物の特定ではない。 「福あかり本舗の、木村という男。彼の身辺、徹底的に洗ってちょうだい。家族構成、交友関係、そして…金銭的な問題。どんな些細な情報でもいいわ」


費用は安くはない。しかし、満月堂が10年間越えられなかった「品質の壁」を壊せる可能性に比べれば、必要経費だった。彼女の武器は、同情ではない。相手の弱点を正確に分析し、逃げ道を塞ぎ、抗うことのできない選択肢を提示する、圧倒的なまでの「情報」だった。


数日後、興信所は、木村の妻が、市内の大学病院にある、ある特定の難病治療の権威の元へ通院している事実を突き止めた。その病名と、標準的な治療法、そして公的保険適用外となる先進医療の存在と、その莫大な費用。全ての情報が、赤坂のPCの画面に、冷徹なデータとして並んでいた。


「…これで、チェックメイトね」 彼女は、口元に怜悧な笑みを浮かべると、木村のSNSアカウントに、ダイレクトメッセージを送った。


数日後、彼が指定されたのは、横浜ベイエリアにそびえ立つ、外資系ホテルの最上階にあるバーラウンジだった。工場の油と汗の匂いが染みついた作業着を脱ぎ、クローゼットの奥から引っ張り出してきた、数年前に娘の結婚式で着たきりのジャケットに袖を通す。だが、慣れない空間は、まるでサイズの合わない服のように、彼を落ち着かなくさせた。


窓の外には、宝石を散りばめたような横浜の夜景が広がり、静かなジャズのピアノ演奏が、磨き上げられたグラスの音に溶けていく。場違いな場所にいるという居心地の悪さで、木村はメニューを開くことすらできず、ただ水滴のついたグラスを眺めていた。


「木村様で、いらっしゃいますね」 声は、背後からした。振り返ると、プロフィール写真で見た通りの女が、音もなく立っていた。赤坂響子。寸分の隙もない黒いパンツスーツに、鋭さと知性が同居する涼やかな目元。彼女は、職人である木村とは全く違う、冷徹なプロフェッショナルの空気を纏っていた。 「本日はお越しいただき、ありがとうございます。赤坂と申します」 彼女は木村の向かいの席に優雅に腰を下ろすと、その目を細めて微笑んだ。 「いつも、福あかり本舗様のお菓子は、美味しくいただいております。特に、木村様が製造を統括されてからの餡は、舌触りが格段に滑らかになったと、業界でも評判ですよ」 計算され尽くした、的確な賞賛。それは、木村の職人としてのプライドを、心地よくくすぐった。


だが、赤坂は、すぐに本題に入った。彼女の声のトーンは、穏やかなままだが、その言葉は、じわりと木村の心の守りを剥がしていく。 「先日、貴社の動画も拝見いたしました。営業部長の方の、誠実で、素晴らしいスピーチでしたね。正直、業界全体が驚いていますよ。あの福あかり本舗が、これほど劇的な復活を遂げるとは。…ええ、我々も、少し眠りから覚まされた気分です」 その言葉には、賞賛の中に、かすかな焦りの色が滲んでいた。 「ですが、木村さん」 赤坂は、テーブルの上に、一枚の光沢のあるパンフレットを滑らせるように置いた。競合である大手和菓子メーカー「満月堂」のものだった。 「ですが、あれだけの逆境を乗り越えるには、相応の無理も生じる。誠実さや情熱だけでは、その立役者である、あなたのような方に報いることは難しい。これもまた、ビジネスの現実です」 彼女の視線が、木村の目の奥を射抜く。 「単刀直入に申し上げます。今の福あかり本舗に、あなたの大切なご家族と、そして、あなたのその『腕』の価値を守り抜く力が、本当にありますか?」


その一言に、木村の心臓が大きく跳ねた。 動揺を悟られまいと、彼は目の前の水を一気に呷る。だが、赤坂はそんな彼の内心を見透かすように、言葉を続けた。彼女は、初めてその完璧な微笑みを消し、悔しさを滲ませるように、わずかに表情を歪めた。 「私ども『満月堂』には、おかげさまで、体力も、市場もございます。しかし…恥ずかしながら、今の私たちに決定的に欠けているものがある。それは、商品の『魂』を創り出せる、真の職人です。10年前に、私どもの味を支えていた伝説の職人が引退して以来、我々は深刻な『品質の壁』にぶつかり続けているのです」 初めて見せた、業界最大手の「弱み」。それは、木村に、自らの価値を再認識させるのに、十分すぎるほどの力を持っていた。 「最新の機械で、誰が作っても80点の味は出せる。しかし、その日の豆の機嫌、空気の湿り気、そういった日々の『ゆらぎ』を読み取り、その80点を120点に変える、最後の調整ができる人間が、社内に一人もいないのです。…あなたの福あかり本舗が、今まさに証明しているように」


「私どもなら、現在の報酬の『倍額』をお約束します。役職も、製造部長のポストをご用意いたします。そして…」 彼女は、そこで一度、言葉を切った。その沈黙が、木村の鼓動をさらに速くさせる。 「奥様の、先進医療に関わる費用は、会社が『全額、保証』いたします。これは福利厚生ではありません。我々が10年間、越えられなかった壁を打ち破る、唯一の希望。あなたの『神の舌』に対する、我々の覚悟の提示です」


それは、木村にとって、抗いがたい悪魔の囁きだった。彼の脳裏に、医師から告げられた、目のくらむような治療費の数字と、日に日に痩せていく妻の横顔が、鮮明に焼き付いていた。


「…考えさせて、ください」 絞り出すような声でそう言うのが、木村には精一杯だった。コーヒーカップを持つ手が、かすかに震えている。

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