第15話 静かなる崩壊
第五章:組織の壁
1:静かなる崩壊
営業部長・田中の魂の動画がもたらした「共感」という新たな炎は、SNS上でかつてないほど熱く燃え盛っていた。そして、その炎は、製造現場を容赦なく照らしつけていた。
工場の朝は、いつもと同じように、蒸気と餡の甘い香りで幕を開ける。だが、そこに満ちる空気は、数週間前とはまるで違っていた。職人たちの間に会話はない。響くのは、規則正しく動き続ける機械の駆動音と、彼らが神経を張り詰めさせていることの証である、工具の鋭い金属音だけだ。
製餡エリアでは、エース職人である木村が、練り機の釜の中を、鬼のような形相で睨みつけていた。彼の額には玉の汗が浮かび、その目は餡の表面の「艶」と「角の立ち方」の一瞬の変化も見逃すまいと、充血している。 (昨日より、湿度がコンマ数パーセント高い…練り時間を3秒、短縮する…) 彼は、誰に言うでもなく心の中で呟き、機械のタイマーを調整する。隣では、若手職人が、彼の息遣いに合わせるように、固唾を飲んで蒸気のバルブを見守っている。
包装エリアでは、パートリーダーが、流れてくるまんじゅうの焼き色を、まるで宝石鑑定士のように厳しい目つきで選別していた。彼女の手元には、誠一郎が新たに作成した「焼き色限度見本」が置かれている。 「ダメ、これは少し色が薄い!弾いて!」 その声には、一切の妥協がない。SNSに投稿された「もう一度信じてやる」というお客様の声。その言葉が、見えないプレッシャーとなって、現場の隅々にまで張り詰めていた。彼らは、たった一つの不良品が、このか細い希望の糸を断ち切ってしまうことを、痛いほど理解していたのだ。
だが、その神聖なほどの緊張感も、午後になれば、肉体的な疲労と精神的な消耗に姿を変えた。
工場の片隅にある、薄暗い休憩室。壁に貼られた安全啓発ポスターは黄ばみ、テーブルには飲み干された缶コーヒーが虚しく転がっている。数週間前まで、ここには職人たちの気だるい冗談や、プロ野球の結果を巡る熱い議論が満ちていた。だが、今の休憩室を支配しているのは、重く、よどんだ沈黙だけだった。誰もが、自分のスマートフォンの画面に目を落とし、現実から逃避するように時間を潰している。
「…なあ、見たかよ、今月の給与明細」 一人の若手職人が、誰に言うでもなく呟いた。その言葉に、数人がスマホから顔を上げる。 「見たも何も、いつも通りだろ。俺たちがあの地獄の四十五日間を乗り切って、炎上の電話対応まで手伝わされて、これかよって」 「営業の連中は、手柄を立てて鼻高々だろうけどな。結局、しわ寄せが来るのは、いつだって俺たち現場だ」 言葉には、諦めと、やり場のない憤りが滲んでいる。度重なる仕様変更、先の見えない不安、そして炎上時に浴びせられた罵詈雑言。彼らの心身は、とっくに限界を超えていた。会社の未来を信じる気力は、もう残っていない。
その会話を、テーブルの隅で黙って聞いていたのが、製造課長のエース職人、木村だった。彼は、若手たちの愚痴を咎めなかった。いや、できなかった。彼自身、同じ無力感を胸の奥に抱えていたからだ。彼は、自分の給与明細を思い出す。そこに記されていたのは、いつもと変わらない数字と、ただ一言、「残業手当」という無機質な文字だけ。炎上を乗り越え、かつてないプレッシャーの中で、誰よりも神経をすり減らしてラインの品質を安定させた自負があった。だが、その奮闘に対する特別な評価は、どこにも見当たらない。