第13話 炎上と、鬼の選択
2:炎上と、鬼の選択
黒木のたった一つの投稿は、週末の静寂の中で、乾ききった草原に投げ込まれた一本のマッチだった。土曜の深夜から日曜にかけて、リツイートと「いいね」の数字は指数関数的に膨れ上がり、彼の辛辣な言葉は、多くの消費者が感じていた言葉にならない「違和感」に、明確な輪郭と、攻撃性という名の「お墨付き」を与えてしまった。
そして週明けの月曜日、福あかり本舗は、文字通り地獄の業火に焼かれることになる。
作戦本部は、もはや司令室ではなく、野戦病院の様相を呈していた。大型スクリーンに映し出された売上グラフは、先週の歓喜が嘘だったかのように、垂直に近い角度で奈落へと突き刺さっている。その隣で、SNSのリアルタイム分析ツールが警報のように赤いアラートを点滅させていた。『#福あかり本舗がんばれ』のハッシュタグは、『#福あかりは裏切った』『#感動ポルノの末路』といった、悪意に満ちた言葉に完全に取って代わられていた。
「YOKOHAMA PREMIUM MARTの木下部長から!『この状況では、契約は一度白紙に戻させていただく』と…!」 「お客様相談室より入電!『父の代からファンだったのに裏切られた』と、涙ながらのクレームが…!」 部屋のあちこちで鳴り響く電話の呼び出し音と、部下からの悲痛な報告が、営業部長の田中の精神を容赦なく削り取っていく。彼は、受話器を握りしめたまま、血走った目で高梨に詰め寄った。 「社長、もう限界です!すぐに手を打たないと、本当に全てが終わってしまう!今すぐ、お詫びと訂正の広告を出すべきです!いや、いっそ、大規模な割引キャンペーンを打って、この悪い雰囲気を一気に…!」
田中の叫びが空しく響く、そのパニックの渦の中心へ、静かな足取りで入ってくる二つの影があった。誠一郎と、その少し後ろを歩く佐藤だ。誠一郎の手には、「新・福あかりまんじゅう」に関するSNS反響分析レポートと題された、分厚いレポート用紙の束が握られている。彼は、部屋の喧騒を意に介することなく、ただまっすぐに田中を見つめた。 「田中部長。あなたの気持ちは分かる。だが、その手では火に油を注ぐだけだ」 「じゃあ、どうしろって言うんですか!あんたは現場の地獄が分かってない!」 「いや、分かっている。だからこそ、まず敵の正体を知る必要がある」 誠一郎はそう言うと、手元のレポートをめくり、その衝撃的なサマリーをスクリーンに表示させた。
【センチメント比率】否定的意見:78% 【主要ネガティブキーワード】1位:味が落ちた、2位:昔の方が、3位:残念…
無機質な数字と単語が、部屋の絶望的な空気を裏付けていた。その数字を見た田中が、思わず「やはり、味が問題だったんだ…」と呻く。 「いや、違う」と誠一郎は静かに首を振る。「田中部長、もう少し深く潜ってみましょう。我々が、テキストマイニングと感情極性分析を駆使して可視化した、お客様の『魂の叫び』です」 誠一郎はスクリーンを切り替え、今度はレポートから抜粋した、顧客の生々しいコメントを、あえて無編集のまま、次々と映し出した。
「私が子供の頃、おばあちゃんがいつも買ってきてくれた、あの福あかりまんじゅうは、もう、どこにもないのね…。本当に、本当に、残念です。涙が出そう」 「30年間、横浜を離れる友達には、必ずここのまんじゅうを渡してきた。もう、それも、できないな。俺の青春の味が、消えた」
それはもう、単なるクレームではなかった。長年、福あかり本舗を愛し、人生の節目を共にしてきたお客様からの、悲痛な叫びだった。その一つ一つの言葉を、田中は、まるで自分の胸にナイフを突き立てられるような思いで読んでいた。
全てのコメントを読み終えた彼は、雷に打たれたように立ち尽くす。ふと、自分のデスクの隅に置かれた、一枚の家族写真が目に入った。妻と、まだ幼い娘が屈託なく笑っている。もし、この娘が大きくなった時、自分の仕事が、誰かの大切な思い出をこんなにも深く傷つけるものだとしたら…? 田中は、ぐっと唇を噛み締め、こみ上げてくる何かを必死に堪えるように、強く、強く拳を握りしめた。
(俺は、何を焦っていたんだ…?)彼の脳裏に、キャンペーン動画に寄せられた、数えきれないほどの「応援してるぞ!」という温かいコメントが蘇る。 (俺が売ってきたのは、まんじゅうだけじゃない。福あかりの『信頼』という名の物語だったはずだ…!) 田中の顔から、焦りの色が消えた。代わりに、顧客と最前線で向き合ってきた男としての、覚悟の光が宿る。彼は、高梨と誠一郎に、そして部屋にいる全員に向かって、深々と頭を下げた。
「…俺が、間違っていました」 顔を上げた田中の声は、震えていたが、迷いはなかった。 「社長、鈴木さん。俺に、やらせてください。お客様の信頼を裏切ったのは、その最前線にいた、俺たち営業部の責任です。だから、俺が、俺の言葉で、お客様と話をさせてください」 彼は、誠一郎が示したレポートを指差す。 「この『真実』を武器に、お客様に正直に全てを話します。言い訳も、弁解もしない。ただ、俺たちの過ちと、それでももう一度信じてほしいという想いを、伝える。それしか、道はないはずです」
それは、数字を追いかけるだけのセールスマンが、お客様の「心」と向き合う営業のプロフェッショナルへと生まれ変わる、覚醒の瞬間だった。 高梨は、その真っ直ぐな目を見つめ返すと、力強く頷いた。 「…分かった。田中部長、君に任せる」
誠一郎は、静かに歩み寄ると、レポートの束を田中の手に渡した。 「これが、君の『武器』だ。何かあれば、いつでも後ろから援護する」 品質の鬼と、営業のエース。二人の男の視線が、静かに交錯した。