第12話 祝杯と凶兆
第四章:市場の壁
1:祝杯と凶兆
8月4日、月曜日。「新・福あかりまんじゅう」発売当日。作戦本部と化した大会議室は、息を吸う音さえ憚られるような、張り詰めた沈黙に支配されていた。誰もが口を固く結び、椅子に浅く腰掛けたまま身じろぎ一つしない。部屋に響くのは、サーバーの低い唸りと、壁の時計が秒針を刻む、乾いたクリック音だけだった。正面の大型スクリーンには、全国の直営店舗からリアルタイムで送られてくるPOSデータが、無機質なグラフとなって表示されている。今日の目標売上を示す一本の赤いライン。そして、その目標に向かって、青い実績のラインが、まるで生き物のように、一時間ごとにゆっくりとプロットされていく。
この日のために、営業部はデジタルを駆使した一点集中のローンチキャンペーンを展開していた。発売四日前にYouTubeで公開された、「【私たちの決意】福あかり本舗は、変わります。」と題したドキュメンタリー風動画は、その象徴だった。静まり返った工場の物悲しい映像から始まり、高梨自らのナレーションで語られる、崖っぷちの現実。作戦本部のホワイトボードに書かれた「資金ショートまで、あと90日」という生々しい文字を、あえて隠さずに見せた。この正直すぎるほどの演出は、Instagramでのティザー広告や「#プロジェクトV」として発信された開発の裏側投稿と連動し、人々の心を強く揺さぶった。公開後二十四時間で再生回数五万回を突破し、SNS上では「#福あかり本舗がんばれ」という応援のハッシュタグに加え、「#リセット」というキャンペーンを象徴する言葉がトレンドを駆け上がった。市場の期待は、データの上で、疑いようのない形で可視化されていた。
午前十一時。青いラインは、計画通りのペースで、しかし決して楽観はできない角度で伸びていた。営業部長の田中は、組んだ腕に力が入り、指の関節が白くなっているのも構わず、祈るようにスクリーンを睨みつけている。
「午後一時時点での累計売上、目標達成率55%。オンラインストアの伸びが、想定をわずかに上回っています」。集計を担当する営業部の若手社員が、努めて冷静に、しかしわずかに上ずる声で数字を読み上げる。その声に、張り詰めていた部屋の空気がほんの少しだけ緩み、誰かが詰めていた息をそっと吐き出す音が聞こえた。
変化が起きたのは、午後三時十五分。それまで赤いラインの下を、まるで見えない壁に阻まれるかのように推移していた青い実績ラインが、ついに、それを追い抜いた瞬間。スクリーン上の数字が更新されると、一瞬の静寂の後、「――目標、達成!」誰かの声が合図となり、作戦本部に、これまで抑えられていた安堵の声と、まばらな、しかし心のこもった拍手が起きた。高梨は、大きく息を吐き出し、深く、深く、椅子の背もたれに全身の重みを預けた。
だが、勢いは止まらなかった。退勤時間帯に入ると、青いラインはさらに角度を増し、まるで堰を切ったように赤い目標ラインを大きく引き離していく。
午後八時。全店舗の営業が終了し、最終的な数字がスクリーンに映し出された。 「最終報告!本日売上、目標達成率、148%!計画を大幅に上回る、大成功です!」田中の声は、もはや興奮で完全に上ずっていた。その報告に、部屋は、今度こそ本物の、腹の底からの歓声に包まれた。織田と宮本は、どちらからともなく、互いの肩を強く叩き合い、固い握手を交わしている。高梨は、ただ、その光景を、熱いものが込み上げてくるのを感じながら、目に涙を浮かべて見つめていた。
その夜、ささやかな祝杯が、工場の食堂で開かれた。殺風景な蛍光灯の下、テーブルに並ぶのはコンビニで買ってきたスナック菓子と、プラスチックのカップに注がれた安酒。だが、そこにいる全員の顔は、どんな高級レストランで飲む酒よりも誇らしげに輝いていた。「みんな、本当に、よくやってくれた!乾杯!」高梨が声を張り上げる。プロジェクトメンバーたちは、この四十五日間の死闘をねぎらい、互いの健闘を讃え合った。
誠一郎は、その歓声の輪から少しだけ離れた壁際で、一人静かに紙コップの酒を口に含んでいた。彼の隣に、佐藤がやってくる。 「やりましたね、鈴木さん」 「……ああ。だが、まだだ」 誠一郎の視線は、スマートフォンに映し出されたSNSの画面に注まれていた。画面をスクロールする指の動きとは裏腹に、彼の眉間の皺は深くなる一方だった。賞賛の声の波間に、毒のように紛れ込む小さな投稿が、彼の目を捉えて離さないのだ。『#福あかり本舗がんばれ』のタグの海に、ぽつりと浮かぶ孤島のようなつぶやき。「なんだろう、美味しいんだけど、昔ながらの、あの後を引く感じがなくなった?」「悪くはない。でも、前の方が好きだったな。良くも悪くも普通になった感じ」。それはまだ評価にもならない、個人の小さな感想。だが、誠一郎には、それが無視できない地鳴りのように聞こえていた。賞賛の声の波間に、ぽつり、ぽつりと、新しいまんじゅうの味に対する、小さな違和感を綴った投稿が、見え隠れしていた。 「まだ、本当の審判は、下されていない」
その言葉が、凶兆を告げる予言であったことに、この時の誰も気づいていなかった。
問題の投稿は、発売から二日後の、土曜日の夜に投下された。食通インフルエンサーとして数万人のフォロワーを持つ、黒木瞬。その男の評価は、時に一つの商品を市場から消し去るほどの力を持つ。彼が、自身のX(旧Twitter)アカウントに、こう投稿したのだ。
「悲報。福あかりまんじゅう、味が落ちた。長年のファンだったが、もう買うことはないだろう。あの、どこか懐かしい後味の余韻が、完全になくなっている。これは、ただの、どこにでもある普通のまんじゅうだ」