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第11話 新しい武器

6:新しい武器

「奇跡の連携」によって、進むべき光は見えた。だが、彼らに残された時間は、あまりにも少なかった。プロジェクト三十五日目。銀行との最終約束まで、あと十日。


「『邪魔板』、か。理屈は分かった。だが、こんな精密な特注品、今からどこに発注するんだ。どこのメーカーに頼んでも、納品まで一ヶ月はかかるぞ」 作戦本部ウォー・ルームで、製造部長の宮本が、自ら描いた「邪魔板」のラフ設計図を前に、腕を組んだ。


科学と経験の融合が生み出した、最後の希望。しかし、その希望を形にする「時間」がない。誰もが、新たな壁を前に、再び沈黙した。作戦本部の空気が、鉛のように重くなる。


「…くそっ!」 宮本が、苛立ちを隠さずに吐き捨てる。 「こんなことなら、先代が使ってた、あの古臭い蒸気式の攪拌釜かくはんがまでも取っておけばよかったぜ。あの化け物、粘土だってこねられるくらい、とんでもねえパワーだったからな…」 それは、単なる諦めの混じった愚痴だった。だが、その一言に、開発リーダーの織田と、品質管理室の片隅で議事録を取っていた佐藤が、同時に顔を上げた。


「宮本部長、その釜は、もう…?」 佐藤の問いに、宮本は「ああ、十数年前に今の電化ラインに変えた時、業者に引き取らせたよ。もう鉄クズだ」と答える。 しかし、織田の目の色が変わっていた。 「待ってください。釜自体はなくても、設計図や部品の仕様書は、どこかに残っていませんか?誠一郎さんの品質管理室の書庫なら…!」


その言葉に、全員が弾かれたように動き出した。 彼らが向かったのは、工場の奥にある、誠一郎でさえ滅多に足を踏み入れない、巨大な資料保管庫だった。古い紙とインクの匂いが充満する中、彼らはキャビネットの引き出しを片っ端から開け、数十年前の青焼きの図面や、黄ばんだ仕様書の束を必死で探し始めた。


「…あった!」 佐藤の声が、静寂を破った。彼が掲げたのは、『昭和五拾年式 試製高粘度用攪拌機 仕様書』と書かれた、埃まみれの分厚いファイルだった。 そのページをめくった宮本と織田は、ある一点を食い入るように見つめた。そこには、現在の釜にはない、独特の形状をした攪拌用の羽根パドルの、詳細な設計図が記されていた。


「…これだ」宮本が唸る。「この、わざと流れを乱すような歪な形の羽根…。先代は、当時開発していたどら焼きの生地が粘っこすぎて、この特殊な釜を特注したんだ。だが、結局うまくいかなくて、この釜はお蔵入りになった。俺は、ただの失敗作だとばかり…」


「失敗じゃありません!」織田の声が、興奮に上ずる。「宮本さん、これは『失敗のデータ』という、我々にとって最も価値のある資産です!この羽根の形状こそ、我々が求めていた思想そのものじゃないですか!」


光は見えた。だが、問題は変わらない。設計図はあっても、現物を作る時間がない。 万策尽きたかと思われた、その時だった。高梨が、静かに口を開いた。 「…宮本さん。業者に引き取らせた、というのは本当ですか?うちの親父は、使えるものはボルト一本でも捨てないような、業突く張りだったと聞いていますが」


その言葉に、宮本はハッとして、自分の記憶を探った。 「…いや、待てよ。釜本体は確かに持っていかせた。だが、特注品だったあの攪拌羽根だけは、いつか何かに使えるかもしれねえって、先代が…」 宮本の脳裏に、遠い記憶が蘇る。 「…工場の、裏の、第三倉庫だ!」


高梨と宮本、そして織田の三人は、懐中電灯を手に、誰もが忘れ去っていた工場の第三倉庫の、錆び付いた扉をこじ開けた。湿気とカビの匂いが、彼らを迎える。その、ガラクタの山の奥の、ホコリをかぶった木箱の中に、それは静かに眠っていた。 独特のカーブを描いた、重厚なステンレス製の攪拌羽根。 それは、先代が遺した「遺産」などではない。『過去の「失敗」が生み出し、忘れ去られていた「資産」』だった。


「…だが、宮本さん、これをどうやって今の釜に…」 織田の不安げな問いに、宮本は、まるで錆び付いた名刀を手にした武士のように、その攪拌羽根を撫でながら、不敵に笑った。 「フン、心配するな。ここからは、俺たち『現場』の時間だ。おい、社長、織田。お前らも、ツナギに着替えろ。手が、油で汚れるぞ」


その夜、工場の隅にある溶接エリアには、深夜まで火花が散った。 宮本は、攪拌羽根をサンダーで切り出し、溶接機で今の釜のシャフトに合わせていく。織田は、PCを持ち込み、生地の滞留シミュレーションを繰り返しながら、最も効率的に流れを乱すための、コンマミリ単位の取り付け角度を指示する。高梨も、油と汗にまみれながら、その作業を必死に手伝った。


それは、設計図も、外部の助けもない、泥臭い現物合わせの作業。 だが、そこには、過去の失敗データ(設計思想)を、現代の科学シミュレーションで最適化し、それを現場の経験と技術(加工・溶接)で形にする、という、福あかり本舗の全ての力が結集していた。


約束の三日前。プロジェクト四十二日目。 作戦本部ウォー・ルームに、奇跡的に間に合った、一点の曇りもなく磨き上げられたステンレス製の「邪魔板」が届けられた。宮本は、その完璧な精度に、息をのむ。


「これより、最終ゲート審査を開始する!」 高梨の号令のもと、最後の量産試作が始まった。宮本自らの手で、釜に「邪魔板」が設置される。開発の織田は、温度センサーのモニターに食い入るように見入り、営業の田中は、ただ祈るように、その光景を見守っていた。


釜が回転を始める。「邪魔板」が、粘度の高い生地を、力強く、そして均一にかき混ぜていく。これまで釜のフチに滞留していた生地が、見事に釜の中心へと引き戻されていく。


「温度、安定しています!設定値95℃、誤差±0.5℃以内!」 織田の声が、上ずる。 「ノズル詰まり、発生せず!ライン、停止の必要ありません!」 現場の職人の、興奮した声が続く。


そして、焼き上がった「新・福あかりまんじゅう」が、コンベアの上を、美しい、均一な焼き色で流れてくる。誠一郎が、その中から無作為に数個を抜き取り、品質管理室へと運んだ。


最後の審判の時間。品質管理室には、高梨をはじめ、プロジェクトの主要メンバー全員が集まっていた。 佐藤が、焼き立てのまんじゅうを、手際よく各測定機器にかけていく。


「テクスチャーアナライザー、硬さ3.5N。目標クリアです」 「糖度計、Brix 55.1%。クリアです」 「液体クロマトグラフ…旨味成分155mg!クリアです!」 一つ、また一つと目標を達成していくデータが、モニターに映し出されるたび、誰からともなく、小さく息を呑む音がする。


そして、最後の官能評価。誠一郎が、焼き立てのまんじゅうを、真っ二つに割る。ふわりと、甘く香ばしい湯気が立ち上った。彼はまず、その香りを確かめるように深く息を吸い込むと、ひとかけらを口に運び、ゆっくりと、味わうように咀嚼する。そして、無言で、残りを高梨や宮本たちに差し出した。


全員が、息を止めて、自分の舌に集中する。


「……うまい」 最初に口を開いたのは、宮本だった。彼の顔には、もう以前のような険しさはなかった。 「雑味がない。これなら、鍋も綺麗だろうよ」


「ええ。それに、後味のキレが…」 織田も、自分の理論が最高の形で実証されたことに、感動を隠せない。


高梨は、ただ、噛み締めていた。父の味とは違う。だが、これは、自分たちが、仲間たちと、ゼロから創り上げた、新しい福あかりの味だ。


その日の夕方、作戦本部のホワイトボードに、最終的な評価結果が書き出された。そこには、「総生産数、目標500個/時に対し、実績502個/時、達成」「不良率、目標3.0%以下に対し、実績1.8%、達成」「最終良品数、目標485個/時以上に対し、実績493個/時、達成」という、全ての目標数値をクリアしたことを示す、力強い文字が並んでいた。


誰からともなく、小さく、しかし確かな歓声が上がる。織田と宮本は、互いの肩を叩き合い、高梨は、目に涙を浮かべていた。彼らは、会社の未来を、その手で掴み取ったのだ。


その歓喜の余韻の中、田中が、震える手でYOKOHAMA PREMIUM MARTの木下部長に電話をかける。 「木下部長!お約束の件、全て、クリアしました!最高のまんじゅうが、最高の状態で、出来上がりました!」


彼らは、確かに会社を救うための「武器」を手に入れた。 しかし、その武器が、最も信頼していたはずの長年の顧客の心に、深く突き刺さる「棘」になる可能性に、この時の彼らはまだ気づいていなかった。

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