第10話 奇跡の連携
5:奇跡の連携
プロジェクト始動から三十日目。約束の期限まで、残り十五日。 作戦本部は、もはやチームではなく、敗戦処理を押し付け合う、醜い戦場と化していた。ホワイトボードには、不良品の無残な写真が何枚も貼られ、ガントチャートの進捗を示すマグネットは、絶望的な「遅延」を示す赤色に染まっている。
「だから言っただろう!このレシピは爆弾だって!」 製造部長の宮本が、歪に変形したまんじゅうをテーブルに叩きつける。 「お前たちの高尚なデータのおかげで、こっちは不良品の山だ!ラインは止まり、職人たちの士気は地に落ちた!どうしてくれるんだ!」
「我々のレシピは完璧です!」 開発リーダーの織田が、顔を真っ赤にして反論する。 「仕様書通りにやれば、あんなことにはならない!温度管理も、混練時間も、そちらの現場が杜撰だからじゃないんですか!」
「なんだと、てめえ!」 宮本が織田の胸ぐらを掴みかかろうとした、その時。 「もう、やめてください!」 営業部長の田中が、悲痛な叫びを上げた。「仲間同士で喧嘩している場合ですか!YOKOHAMA PREMIUM MARTからは、明日までに量産化の目処が立たなければ、取引は白紙に戻すと、最後通告が来ています!もう、終わりなんですよ、我々は!」
その言葉に、誰もが凍り付く。開発の正義も、製造のプライドも、絶対的な「時間切れ」という現実の前では、あまりに無力だった。 誰もが言葉を失い、ただ、ホワイトボードに貼られた不良品の無残な写真と、「不良率12.8%」という絶望的な数字、そして「取引白紙」という殴り書きのメモを、呆然と見つめる。その、共通の、そして完全な敗北感が、部屋にいる全員の心を、重く、一つにした。
重い、重い沈黙。その息が詰まるような空気を破ったのは、この部屋で最も頑固で、最も絶望していたはずの男、宮本だった。彼は、掴んでいた織田の胸ぐらを、力なく離す。そして、テーブルに散らばった無残な不良品の一つを、静かに手に取った。 「……昔、先代の社長が、よく言っておられた」 ぽつりと、誰に言うでもなく呟かれたその言葉は、個人的な怒りや対立を超え、共通の過去と絶望の底から絞り出された響きを持っていた。その一言に、全員が視線を向ける。
「『良い餡はな、宮本。練り終わった後の鍋が、綺麗なんだ』ってな」 宮本は、不良品の断面を、まるで我が子の顔でも見るかのように、じっと見つめている。 「雑味が多いと、鍋のフチに焦げ付きが残る。この新しい豆は、どうも焦げ付きやすい。俺の勘がそう言ってる。だが、その勘の正体が、俺には分からん…」
それは、百戦錬磨の職人が、初めて見せた弱さ。経験という武器の限界を認める、魂の告白だった。 その一言に、開発リーダーの織田が、雷に打たれたようにハッとする。 「焦げ付き…!まさか…!」
織田はホワイトボードに駆け寄ると、殴り書きで数式を書きなぐる。
アミノ酸 + 還元糖 --(加熱)--> メラノイジン(褐色物質)
「メイラード反応が過剰に進んでいるのか…?ラボの釜では熱が均一に伝わる。だが、工場の大型釜では、釜のフチで局所的に熱が暴走し、反応が進みすぎているんだ…!」 化学者である織田が、職人の「勘」という名の言語を、必死で翻訳していく。
「宮本部長、もし、餡を炊く際の最終工程の温度を、五度だけ下げて、練る時間を三十秒長くしたら、どうなりますか?高温・短時間ではなく、低温・長時間で、穏やかに反応を進めるんです!」
科学者である織田からの、論理的な仮説の提示。だが、宮本は、首を横に振った。 「ダメだ、織田。それでは生産効率が7%落ちる。不良率は改善されるかもしれんが、それでは銀行との約束は守れん。それは、問題の先送りにしかならん」
新たな壁。品質を取れば、生産性が落ちる。生産性を取れば、品質が落ちる。完全な、二律背反。万策尽きたかと思われた、その時だった。
「……待てよ」 宮本が、何かに気づいたように、あんを練る釜の設計図を睨みつけた。織田の「釜のフチで熱が暴走する」という言葉が、彼の頭の中で、長年の経験と結びついたのだ。
「熱が暴走するんじゃねえ。生地が、『滞留』してるんだ」 宮本は、設計図の釜の断面を指でなぞる。 「この生地は粘りが強い。釜の中で遠心力に負けて、釜のフチにへばりついて、動かなくなってるんだ。だから、フチの生地だけが加熱されすぎて焦げ付く。中心の生地は、生煮えのままだ」
それは、データだけでは決して見えない、釜の中の生地の「流れ」を、長年の経験で見抜いた職人だけがたどり着ける、真実だった。 そして、宮本はニヤリと笑うと、一本の鉄の棒を手に取り、設計図の上に置いた。
「釜の中に、たった一枚、『邪魔板』を入れてやるんだ。生地の流れを強制的にかき乱し、フチの熱い生地と、中心の冷たい生地を、無理やり混ぜ合わせてやる。そうすりゃ、釜の中の温度は均一になるはずだ」
それは、最新のデジタル技術とは真逆の、極めて原始的で、しかし、職人の知恵と経験に裏打ちされた、究極のアナログハックだった。
「宮本部長…!」 織田は、そのあまりにシンプルで、しかし完璧な解決策に、言葉を失う。科学が突き止めた「現象」を、職人の「経験」が、乗り越える。
その瞬間、作戦本部の空気が、確かに変わった。 開発が、製造現場の知見から新たな仮説を立て、職人が、その仮説を元に、経験から究極の解決策を導き出す。
バラバラだった歯車が、互いの傷を補い合うように、ゆっくりと、しかし確実に、噛み合った。 それは、誰かが意図して起こしたものではない。 追い詰められた男たちが、それぞれのプライドと絶望の果てに、互いの言葉に耳を傾け、知恵を繋ぎ合わせた結果として生まれた、あまりにも奇跡的な、連携だった。




