第1話 鬼の仕事場
第一部 鬼と若獅子
第一章:品質の鬼
1:鬼の仕事場
焼き立てのまんじゅうが放つ、ほのかに甘い香り。その香りが満ちる生産ラインを、淡い黄褐色の製品が静かに、そして規則正しく流れていく。千個に一つ、機械のアームがまるで運命の神の指のように無作為にサンプルを抜き取り、ベルトコンベアはこの神聖な聖域へと静かに運び込むのだ。
福あかり本舗、本社工場の一角に設けられた品質管理室。その空気を支配しているのは、殺菌用の次亜塩素酸ナトリウムが放つ、鼻の奥をツンと刺す無機質な匂いだけだった。床から壁、そして作業台に至るまで、全てが冷たい光沢を放つステンレスで覆われている。天井の蛍光灯が投下する純白の光はあらゆる影の存在を拒絶し、世界の輪郭を冷徹なまでにくっきりと浮かび上がらせていた。
その光に照らされ、鈴木誠一郎の眉間に深く刻まれた縦皺は、さながら長い年月をかけて岩に刻まれた亀裂のように、彼の揺るぎない意志を物語っていた。品質管理担当取締役、五十八歳。社内で彼を親しみを込めて名前で呼ぶ者はいない。誰もが畏怖と、そしてほんの少しの尊敬を込めて、彼をこう呼んだ。「品質の鬼」と。
彼の視線は、壁に設置された大型モニターの一点に固定されている。そこに映し出されているのは、生産ラインの検査工程に設置された「三次元寸法測定システム」からリアルタイムで送られてくるサンプリング測定値のデータだった。非接触のレーザーセンサーが、サンプルとして抜き取られたまんじゅうの「外径」と「高さ」を、0.01mm単位で瞬時に測定している。
誠一郎の指がタッチパネルの上を静かに滑る。彼が表示させたのは、現在生産されているロットナンバー#2105の品質管理図であった。無数の青い点が二本の管理限界線の間で美しく安定した分布を描く中、その静かな星空のようなグラフの右端の一点だけが、不穏な光を放つように赤い点で上方に跳ねていた。モニターの隅には、その異常値が無機質なゴシック体で表示されている。
【ロット#2105-432:外径 48.42 mm】
誠一郎は、そのたった一つの赤い点を見つめていた。彼の脳裏に、フラッシュバックのように、決して忘れることのできない過去の記憶が鮮やかに蘇る。
それは、彼がまだ品質管理課の若きリーダーだった頃の、ある雨の日の出来事。 当時、福あかり本舗が懇意にしていた老舗旅館があった。先代社長が特に大切にしていた取引先であり、誠一郎もまた、その旅館の品格と、穏やかで芯の通った女将を深く尊敬していた。その日、旅館では亡きご主人の一周忌がしめやかに執り行われることになっていた。生前、福あかりのまんじゅうを何よりも愛してくれたご主人のためにと、女将から直々に注文が入り、それは誠一郎にとって誇らしい仕事のはずだった。
しかし、彼は見逃した。製造工程における、ほんの僅かな数値のブレを。当時の基準では許容範囲内という、若さゆえの驕りがあったのだ。
数日後、誠一郎は先代社長と共に旅館に呼ばれた。静かな茶室に通された彼の前で、女将は深々と頭を下げ、物静かな、しかし心の底から悲しそうな声でこう言った。
「鈴木様。先日は、ありがとうございました。ただ……お供えいたしましたおまんじゅうが、いつものお味と少しだけ違っておりました。皮が、ほんの少しだけ、ぱさついていたように思います」
「主人は、福あかり様のおまんじゅうが本当に好きでございました。『この味は日本一だ』と、いつも嬉しそうに申しておりまして……。だから、一周忌には大好きだったいつもの味を、お供えしたかったのです。きっと、主人も楽しみにしていたでしょうに……」
女将は、決して誠一郎を責めなかった。だが、その悲しみに満ちた声と失望の色が浮かんだ瞳は、どんな叱責よりも鋭く彼の胸を抉った。信頼を裏切った。尊敬する女将の、そして亡きご主人の想いを、自らの僅かな油断で踏みにじってしまった。隣に座る先代社長に、顔向けができなかった。
「二度と、あんな顔をさせてはならない」
その、彼の魂に深く静かに刻み込まれた誓いこそが、「品質の鬼」としての彼の全ての原点なのである。
我に返った誠一郎は、内線電話のボタンを押した。
「佐藤君、至急、品質管理室まで」
数分後、若い社員、佐藤健太が緊張した面持ちで入室してきた。誠一郎は椅子に座ったまま、モニターを顎でしゃくる。
「佐藤君。改めて聞くが、うちの主力商品『福あかりまんじゅう』の外径、社内規定の仕様値は?」
「は、はい……。外径48.0mm。仕様公差は±0.5mmです。ですので、画面に表示されている48.42mmという数値は、仕様の範囲内です」
か細いが、事実に基づいた反論。誠一郎はその言葉を遮らない。静かに最後まで聞き、深く重い息を一つ吐いた。その目に宿るのは、怒りというよりも、むしろ深い失望の色だった。
「……そうか。君はまだ、そのレベルでしかこの数字を見ていないのか」
誠一郎はグラフの一点を指し示す。
「我々のチームが定めた工程管理値の上限はいくつだ?答えろ」
「……48.3mm、です」
「そうだ。標準偏差を0.1と定め、3シグマで管理する。我々の仕事は、常に中心値である48.0mmを狙い、決してこの管理限界線を超えないことだ。なぜ、48.42mmのたった0.12mmの差が、我々にとって『致命的な異常』なのか、説明できるか?」
佐藤は答えられない。ただ唇を固く結ぶだけだった。
「仕様値は、お客様に出荷できるか否かを判断する最後の『砦』だ。だが、どんなに完璧な工程でも、製品には必ずミリ単位以下の『ばらつき』が生じる。これが我々の仕事の難しさであり、戦うべき敵の正体だ。だからこそ、我々品質管理の仕事は、その『ばらつき』という敵の波が、砦の城壁に届く前に、その源流を叩くことにある」
「我々の仕事は火事を消すことじゃない。火事を絶対に起こさせないことだ。この48.42mmというたった一つの小さな点は、仕様違反ではない。だが、我々の工程が既に『ばらつき』という敵の侵攻を許し始めていることを示す、動かぬ証拠なのだよ」
「いいか、佐藤君。この、工程管理値を超えるたった0.12mmの差は、お客様の口の中で最悪の『裏切り』に変わる。外径がわずかに大きいということは、中の餡に対して皮の比率が増えているということだ。それはお客様が一口食べた時に、『なんだか粉っぽいな』という明確な不快感に直結する。逆に、外径が小さすぎれば、餡の比率が増え、『甘すぎる』『ベタつく』というクレームになる」
その静かで、しかし揺るぎない声に、佐藤はハッとして顔を上げた。今までただの数字の羅列にしか見えなかった管理図が、意味を持った情報として彼の目に鮮やかに飛び込んでくる。
「も、申し訳ありません……。私は、ただ一つの数字しか見ていませんでした」
「そうだ。そしてその一点しか見ない仕事の先に、お客様の『おいしい』という、あの笑顔は絶対にない。今から私の指示を正確に実行しろ。いいな」
誠一郎の声のトーンが、教育者から危機管理の指揮官へと瞬時に変わる。
「第一に、直ちにこの生産ラインを止めろ。原因が特定され恒久対策が打たれるまで、私の許可なく再開することは絶対に許さん」
「第二に、このロットの在庫を全て洗い出せ。パートも総動員して緊急で全数検査を実施する。オフラインの専用測定台に固定されたデジタルノギスを使って、全ての製品の外径と高さを再測定するんだ。測定箇所には誰がやってもズレないようにガイドがついている。ボタンを押すだけで数値は自動的に記録される。いいか、難しい作業ではない。だが一切の油断は許さん」
「第三に、このロットの出荷履歴を至急確認しろ。もし出荷が確認された場合は、まず納品先と現在地を正確に追跡しろ。回収判断は全数検査の結果を見て判断するが、最悪を想定して迅速に動けるよう準備しておけ」
「そして最後に、なぜ我々のプロセスが管理目標値を外れたのか、その根本原因を徹底的に分析し、具体的な再発防止策を明日の朝までにレポートにまとめろ。一切の妥協は許さん」
その時だった。品質管理室の大きなガラス窓の向こうを、社長である高梨英治が足早に通り過ぎていくのが見えた。彼は誰かと携帯電話で深刻な顔で話している。時折眉間に深い皺を寄せ、何かに苛立っているようにも見える。そしてガラス越しの誠一郎の姿を一瞥すると、その口元がかすかに歪んだように、佐藤の目には映った。しかし次の瞬間には、彼は何事もなかったかのように表情を消し、工場の通路の向こうへと消えていった。