豹変
エリスさんは――すぐには答えてくれなかった。硬い沈黙が過ぎり、ムバータが先に口を開いた。
「そうか、自分では言えぬか。無理もあるまい。なにせ貴様ら踊り子は――」
「……ムバータ!」
エリスさんの声が響くと同時に、その体が一閃の勢いで前へと踏み込んだ。きらりと腰布の金のチェーンが光り、膝を引き上げる。
「たぁぁッ!」
しなやかや生足から繰り出された飛び膝蹴りが、ムバータの顎を捉える。むちっとした太ももが天に昇り、布切れのような腰布が大きく跳ね上がった。
「ぐぅッ!?」
百キロ以上は優に超えているであろう巨躯が、膝一発で後方へ吹き飛ぶ。地下室の扉の向こうへ弾き出され、そのまま階段のところに転倒する。
エリスさんは床を蹴って追撃に移る。ピンクのツインテールを振り乱し、後ろの腰布からはお尻の丸みが顔を出す。しかしそんなところに注視している暇などない。次の瞬間には、エリスさんの強烈なアッパーがムバータの腹を穿っていた。
「うぐッ!?」
鈍い衝撃音が地下に響き渡る。
ムバータの巨体が、今度は階段の下から上へと打ち上げられる。地下の存在を隠していた木製の扉がバラバラに砕け、ムバータは月明かりを背に庭園の方へ吹っ飛んでいった。
「はぁっ……! はぁっ……!」
巨漢のムバータを地上まで殴り飛ばすほどの力を振るったエリスさんの息は荒く、それでも休む間もなく彼女は階段を駆け上がっていった。
「エリスさん……!」
僕も急いで後を追う。地上へ続く階段を一気に駆け上がると、月光の下、庭園の芝生の上に、ムバータが早くも巨体を起こしていた。
肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返していたが、エリスさんの猛攻を食らったにも関わらずダメージとしては効いていないようだった。
その様子を見つめていたエリスさんの背中からは緊迫した気配が伝わってくる。
「それが……アムルアを吸収したことによる、力……!?」
エリスさんの言葉を聞き、僕も月明かりの向こうに目を凝らす。
ムバータの顔の皮膚に、赤黒い亀裂のような筋が走っていた。そして太っていた体が、徐々に膨張し始めている。
「うわわっ……!? ムバータの体が……!?」
「お兄さん……離れてて……!」
エリスさんが背中で伝えてくる。腰布の端が風で揺れ、汗に濡れた素肌が月光に照らされて浮かび上がる。その対面に立つムバータの体は、更に豹変していく。
「ググッ……グゴゴゴ……ッ!」
ムバータの皮膚が不気味に膨張し、衣服が裂ける音とともに筋肉が異様な形で隆起する。骨の軋むような音が空気を震わせ、全身からは凶悪なオーラが目に見えそうなほど満ち溢れる。
「ブハハハハッ……! これがアムルアの力……ガノヴァスの力か……!」
肥満体だった姿は見る影もなく、代わりに現れたのは、鋼鉄のような四肢と、赤い瞳を持つ異形の怪物だった。
「ぐぅ……うおおおおおぉぉッ!!」
変異したムバータは夜空に向かって咆哮を放ち、周囲の木々がその音圧で震える。ツインテールと腰布を揺らされながらエリスさんは拳を握り締め、僕はその背中に震える声をかける。
「エ、エリスさん……あんなやつと戦うの……!?」
「うん……! 倒さなきゃ……絶対に……!」
エリスさんが構えを取る。胸と腰に布切れを纏っただけの
丸腰の姿で。
対するムバータは、歪に膨張して巨大化したモンスターだ。岩のように硬そうな筋肉は、エリスさんの素手や素足から繰り出される攻撃が通用するとは到底思えない。
ムバータも戦闘の姿勢を取る。一歩踏み込んだ足が地面を凹ませた。それほどの重量。
「これまではクエストという回りくどいやり方をせざるを得なかったが。もうその必要はないな。これからはこの力をもって強制的に貴様らを酷使してやる」
踊り子ギルドの支配人としての仮面を脱ぎ捨て、欲望と残虐性を現したムバータの形相はまさに悪鬼のそれに相応しい。
それでもエリスさんは逃げ腰になっていない。踊り子としてムバータに対峙し、打倒する意志を全身から放っている。
庭園を横切る生暖かい夜風が、これから始まる死闘を予感させた。




