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補習1


 寒い。寒かった。

 遠のいていた意識が、その寒さによる不快感で一気に現実世界に引き戻され、俺はゆっくりと目を開けた。瞼の隙間から入ってくる眩い光が鬱陶しい。


 「ん、朝」


 俺の眼の焦点が定まると、目の前には見知った女性の姿があった。


 「……もうちょっと優しく起こすことは出来ないのかよ」


 「だって雄太朝弱いから、こうやって布団引っ剥がさないと起きないんだもん!遅刻するよ、早く早く!」


 姉によって剥がされた掛け布団が、床のカーペットに無惨にも転がっている。ああ、愛しの掛け布団よ、こんなあられもない姿に成り果てて、なんと残酷な。

 俺は目を擦りながら体を起こして、モソモソと冴えない挙動で立ち上がり、壁にかかった制服へと歩いていく。


 「リビングにバナナ置いといたから、それ食べて。あと、今日軽音サークルの人たちが夕方にウチに遊びにくることになったから。それから……」


 「あんま起き抜けにいっぱい言うな。起動中に操作するとフリーズしやすいのは、人間もコンピュータも一緒なんだよ」


 俺が鬱陶しげに振り払うように姉の言葉を遮ると、姉は少し間を置いて、俺に言葉をかけた。


 「立科ちゃん、今日学校来ると良いね」


 「……そうだな」


 昨日の夜、俺は立科を見つけられたこと、そして家に送り返したことを姉に話した。その結果だけを伝えた時、姉は特に深掘りをすることもなく、安堵したような表情で自室へと向かっていった。

 きっと、俺の表情から、立科との間に何らかのやり取りがあったことを察して、それにみだりに踏み込まないようにしたのだろう。


 「はい!じゃあ私は今日サークルあるから!先家出るからね!戸締りよろしく!」


 「はいはい」


 姉は指を2本立てて俺に合図をすると、駆け足で部屋から出ていった。


 家を出て、電車に揺られて、学校の門をくぐる。ゴールデンウィークに登校するなんて、やはり全くもって嘆かわしいわけだが、3日目ともなるともはや諦観が芽生えてきて、いっそ開き直ったように上履きに履き替える。


 「菩提樹の元で悟りを開いたブッダも、こんな気持ちだったのかな……」


 「……1人でなに言ってんの?」


 俺が廊下を歩きながらしょうもない独り言を口走った時、後ろから突然話しかけられて、慌てて振り返る。


 「……立科」


 「おはよ!雄太!」


 スクールバッグを肩から下げて、後ろで手を組みながら、立科は前屈みにニッと笑った。


 「……ちゃんと、来れたんだな」


 「……うん」


 俺が少し逡巡して言葉を紡ぐと、立科は控えめにはにかんで、コクリと小さく頷く。


 「てか、それこっちのセリフだし!雄太の方こそ、遅刻しないか心配だったんだから!」


 「そのせいで愛しの掛け布団が犠牲になったけどな。将来を誓い合った俺と掛け布団の仲を引き裂くとは、おのれあの鬼姉め、許すまじ」


 「掛け布団と将来を誓い合ってんの意味わかんないし」


 「いや、冷静に考えて、布団が結婚相手として1番良いだろ。あったかいし、柔らかいし、包まれたら安心するし、俺の話を文句も言わずに聞いてくれるし」


 「雄太普段布団に話しかけてんの?かなしっ」


 「おい、ヒトの孤独ライフハックを悲しいとか言うな。てか、人に頑張って話しかけたのに無視されたり流された時の方が、よっぽど悲しいし傷つくんだよ。その点布団は……」


 「布団の話もう良いから!ほら、さっさと教室いくよ!」


 俺が布団の良さを熱弁しようと口を開いたところで、立科はバシッと俺の背中を叩いて、廊下に駆け出してこちらに手招きした。

 どうやら、こちらの心配は杞憂だったらしい。俺は立科の様子を見て胸を撫で下ろし、しかし安堵を口にするのはどうにも無粋な気がして、ニヒルを気取った苦笑いを浮かべた。


 「グッモーニングミス立科!」


 俺と立科が教室に入ると、岡谷教諭が元気の良い声で挨拶をしてくる。なんかナチュラルに俺だけ省かれてるんだけど、こういうので自分の影の薄さを感じて傷つくんだよなぁ。

 俺と立科は昨日一昨日と同じ隣の席に座って、カバンから教科書を引っ張り出して机に広げる。

 つつがなく進行していく授業を聞き流して、半ば日向ぼっこになってしまった頃、チャイムが鳴って授業が終わった。


 「あー終わった終わった!ちょっと賢くなったかもアタシ!」


 「そんなすぐ賢くなれる奴は、はなから補習なんて受ける羽目になってないだろうけどな」


 「うるさい、その地味な見た目で補習受けてる雄太が1番恥ずかしいから」


 「おい、それだけはマジでやめろ。本当に心抉られるから、メンタル折れちゃうから」


 「雄太って、自虐する割には結構傷つきやすいよね、意味わかんないんだけど」


 「いいか?自虐ってのはな、ある種の予防線なんだよ。つまり、予め自分で弱点を言ってしまう事で、それ以上他人から言及されないように牽制してるんだ。そもそも、自己評価が低い人が、必ずしもプライドが高くないとは限らないわけで、例えば……」


 「あーその話長そうだからいいやー」


 俺が自分の考察を述べようと人差し指を立てると、立科は心底興味なさそうに心ここにあらずな声を出してスマホを弄った。クソ、立科が意味わかんないと言うから説明してあげようとしたのに。一生スマホでショート動画見てれば良いじゃん。ばーかばーか。

 俺が不服に腕を組み、そっぽを向いたような素振りをした時、ふと教室外で談合をする数人の教師が目に入ってきた。


 「立科さん?ちょっと……」


 そのうちの1人の女性教師が教室の入り口に立って、作り笑いを浮かべて立科を手招きする。

 立科は一瞬表情をこわばらせたが、大きく深呼吸をしたのちに、スクールバッグを持ち上げて俺に振り返った。


 「アタシしょっぴかれちゃうみたい。じゃ、またね」


 「ああ、大人しくお縄についてこい。またな」


 立科は観念したように俺に目配せすると、教師たちのもとに駆けて行った。

 それを座りながら見送ったあと、俺が教科書をカバンにしまっていると、岡山先生が近づいてきて、立科が去って行った廊下の方を見ながら、ため息混じりに話しかけてくる。


 「ミス立科も、困ったものよね、アイムウォーリードゥ」


 「はぁ、そうっすか」


 「アナタもよ、ミスター須坂」


 なんで俺もだよ、別にアンタに迷惑かけた覚えないぞ。俺がしている悪行なんて、せいぜい授業中に居眠りをしているくらいのものだ。


 「ミスター須坂は、ミス立科とグッドフレンドなの?」


 「はぁ、まぁ、どうなんでしょうね」


 俺が友達だと思っていたとしても、向こうは友達だと思っていないかもしれない。そんなありふれた憂慮が、立科のことを友達だと呼ぶのを俺に拒ませた。


 「……リーセントリー、ミス立科は、あんまり学校に来ないの」


 「はぁ、そうですか」


 俺の机に手をついて話を続ける岡谷先生の言葉を、俺が少しテンションを下げてそう返すと、先生は少し間を置いた後に、眉を下げ気味にポツリと呟いた。


 「……なんで学校に来ないんだろう?」


 俺はその瞬間、えもいわれぬ虚脱感と絶望感に苛まれた。

 岡谷教諭の表情と声色からは、一切の含みも、あまつさえ邪念も感じ取れなかった。その言葉は、その言葉通りの意味しか表していない、それが分かってしまったのだ。この人は、言ったことしか言っていない。

 ああ、この人はきっと、どうしようもなく学校に行きたくない日を、逃げ出したくなるような教室を、痛みすら走るような他の生徒からの視線を、知らないのだろうな。

 教師というのは往々にして、学校空間に少なからずの肯定的な思い出や印象があって、故に学校空間へと戻ってきた人種だ。彼らには、我々のようなトラウマは無いし、無いからこそ教師を志したのだろう。教師という人種は、表層を如何に取り繕おうとも、不登校など共感できるわけがないのだ。

 そんな当然の、全くもって当たり前の事実に、しかして俺は改めて、まるで全身の力を抜き取られたみたいに、絶望した。


 「……わかんないっすよ、きっと先生には」


 「え?」


 「……わかんないし、歩み寄ってこなくて良いです。薄っぺらい共感とか同情とかされると、なんかこっちが矮小な気がして、余計惨めになるだけなんで」


 せめてもの抵抗だった。こんなことを岡谷先生に言うのはお門違いであることなど分かった上で、それでもなお言ってやらねばなるまいと、そう思った。そうしなければ、俺と立科の苦悩や蟠りが、まるで無かったことにされてしまいそうな、そんな気がした。

 ペンを片付けながら言ったその俺の言葉が、しかしどうやら岡谷先生には思春期の幼稚な癇癪のように感じられたようで、申し訳程度の薄っぺらな愛想笑いを浮かべながらコチラの機嫌をとるように慌てて話す。


 「あ、アイムソーリーミスター須坂!別にアナタを怒らせるつもりは無かったの!何か悩みがあったら、いつでも相談してね!」


 「……どうも」


 俺が視線を合わさずに会釈すると、岡谷先生は気まずくなったのか、急ぎ足でその場を去って行った。

 あの人は、きっと良い人なんだろう。そしてそれは、良い人として生き続けることができたと、そう言い換えても良い。性格も認知も思想も、何一つ他者によって歪められることなく、彼女は生きてこられたのだ。

 そして、そんな良い人たちの優しさは、性格が歪んだ俺たちにとっては、まるで血潮の通っていないハリボテのように感じられて、そしてそんな屈託のない優しさにさえそんなふうに思ってしまう自分が惨めで、またしても俺は、こうして苦虫を噛み潰すのだ。


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