行方不明2
リビングに戻った俺と姉の間には、しばらく会話がなかった。しかして、自室に戻るわけでもなく、まるでお互いが相手の話し始めるのを待つかのように、付かず離れず思い思いに時を過ごした。
立科が帰ってから、2時間は経っただろうか。姉がつけたテレビが、19時のニュースを流し始める。
「……お腹、空いたね」
そのニュース番組が夕飯時を体に知らせたのか、姉は開口一番にそう言った。
「……だな」
俺も姉と全く同じことを考えていたようで、2人は互いに目配せしあって、台所へと足を運んだ。
「あ、そういえば、お姉ちゃんカップラーメン買い出ししといたよ。その帰りにちょうど雄太が2人を連れて来たから、衝撃で忘れてたけど」
「え、じゃあそのカップ麺思いっきり地べたに落としたやつだろ、食べ物を落とすな食べ物を」
「しょうがないじゃん!冴えない非モテの弟が、急に美少女ハーレムラブコメの主人公みたいになったら、誰だって持ってるものの一つくらい落とすっての!」
「美少女ハーレムラブコメの主人公って、むしろ冴えないやつばっかりだから、俺がそうなった場合むしろ解釈一致だと思うけどな」
「へーそうなん、私は内容までは見たことないから知らんけど。非現実的だねー」
だから良いんだろハーレムラブコメは。イケメン陽キャが女の子にモテまくるのなんて、現実世界の第三者目線で山ほど見てきたからもうお腹いっぱいなんだよ。
「ま、ということでカップ麺はいっぱいありますよって感じで。どれにする?」
姉は戸棚を開いて、並べられたカップ麺を指でなぞって首を傾げた。
「なんか、昨日からカップ麺ばっか食ってる気がするぞ。貧乏暇なしの漫画家アシスタントになった気分だ、早くデビューしてぇ」
「え、なに雄太昨日もカップ麺だったの?立科ちゃんと一緒だったのに?」
「金なかったからな、それしか選択肢がなかったんだよ」
俺が戸棚から目についたカップ麺を取り出して、机の上でペリペリと包装をめくる。後に続く姉を尻目に、俺はお湯を注いで、リビングまで両手でカップ麺を持っていった。
「さーて、食べよ食べよ!」
ソファに2人で座ると、姉はカップ麺の蓋を開いて、立ち上る湯気をパタパタと手で仰ぎ、割り箸を包装のビニールから突き破って出した。
今にも食べようとしている姉を横目に、俺は何故だか、手にかけた割り箸を一度カップ麺の蓋の上に置いて、ゆっくりと手を合わせた。
「え、なに、なんで急にそんな礼儀正しくなったの?スピってる?」
「スピってねえよ。お守りとか占いとか、そういう類のものは一切信じてねえよ。仮に神が存在するとしたら、この世界は不平等すぎるからな。だから神はいないし、占い師は全員ペテン師だ。あれ詐欺罪だろ早く取り締まれ日本の警察は」
「アンタがそういう非科学的なものが大嫌いってのは知ってるけどさ、だったらなんでカップ麺に手なんて合わせてんのよ。今までそんなことしてたっけ?」
姉が訝しげな顔をして問うたので、俺は昨晩の取るに足らない一幕を思い出し、何故だか恥ずかしくなって誤魔化すように咳払いをして答えた。
「まぁ、なんていうか、そういう気分だったんだよ」
「ふーん。まぁ、手を合わせる分には、良いことだよね」
姉はそう言ってズズッとラーメンを一口啜って、汁を少しばかり飲んだのちに、カップラーメンと割り箸を置いて、手を合わせた。
「いただきます!」
「なんで一回ガッツリ食ったんだよ」
「え、お腹空いてたから。これくらい神様だったら許してくれるって!」
能天気に笑うと、姉は再びラーメンを啜り始めた。それを見て、俺も黙ってラーメンを啜る。
カップ麺のかさが少なくなり、細切れの麺が沈澱したただのスープに成り果てたころ、腹の膨れた姉はゆっくりと口を開いた。
「立科ちゃん、大丈夫かな……」
「……さぁな」
俺は、あえて気のない返事をした。どれだけ立科のことを気にかけようとも、彼女が大丈夫かなんて、分かりようもないことだったからだ。
「これで、良かったのかなぁ……」
遠い目をして、ぼんやりと目の前のテレビを見る姉の表情は、実に彼女らしからぬ覇気のないもので、俺は少しばかり逡巡してしまった。
「……ごめん」
「え?なんで?なんで今お姉ちゃん謝られたの?」
予想外だったのか、姉は俺の言葉に少しばかり狼狽えて尋ねてきた。
「いや、その、変なことに巻き込んだっていうか。家出した立科を家に泊めるってのは、理由はどうあれ法律的に、あるいは社会的に糾弾されかねないことだろ?もしかしたら、それに姉ちゃんを、あるいは家族を巻き込みかねなかったわけで、だから、その、ごめん」
俺が頭を下げると、姉は顎に手を当てて何事かを思案したのちに、クスッと微笑んで俺の髪をワシワシと雑に撫でつけた。
「あーもう変に真面目だなー雄太は!高校生なんて、家出の一つや二つするっての!思春期なんだから!」
「ちょ、やめろやめろ!髪の毛ぐしゃぐしゃになるだろ!」
「人生で一度もワックス付けたことのないような人間が、何を気にしてんのよ!」
姉はそう言って俺の頭をポーンと弾き、こちらに体を向けて微笑しながら話し始めた。
「世間的にはダメって言われてることも、結構みんなやってたりするのよ。今の時代は何事も表面上はクリーンにしておかなきゃいけないけど、みんなバレないようにコソコソやってるわけ」
「そ、そうなのか?」
「そうよ!大学のサークルの飲み会なんて行ってみ?みーんな未成年飲酒してるから」
「おい、それはマジで良くないだろ。あと、それ過度に一般化してるから。やらないやつはやらないから」
「まぁ、これはあくまで例えね。けど、みんな見えるところだけ取り繕って、どこかでそのストレスを発散してるわけ。むしろそうしないと、倫理と評判でがんじがらめになっちゃって、やりたいことなーんも出来ないもん」
確かに、姉の言うことは極端とはいえ、全く否定する気にもなれなかった。個人がアカウントを持ち、そのデータが拡散され、未来永劫残り続ける昨今のネット社会においては、昔だったら贖罪によって許された過ちでさえも、死ぬまで尾を引き続ける。誰もが倫理と評判に縛られて、可視化された表層だけを漂白し尽くした社会は、果たしてユートピアなのだろうか。
「……エッチしたくて有名人になったのに、有名人になったせいでエッチ出来なくなった男のジレンマ、みたいなことか」
「ゲスい例えだけど、まぁそういうこと!」
俺のその例えに、姉は苦笑しつつも何も言い返せないといったように指を鳴らした。
「年頃の女の子だったら、それが仮に社会的に良くないことだとされてても、髪だって染めたいし、メイクだってしたいし、家出くらいしたいの!立科ちゃんみたいに、家庭環境が複雑な子なら、なおさらそんなもんだし、むしろそっちの方が自我の発達としてよっぽど健全よ!」
「ふーん、俺は髪染めたかったことなんてないけどな。あれ、もしかして俺優等生?」
「それはアンタがファッションに微塵も興味ないお母さんTシャツ男だからでしょ」
「誰がお母さんTシャ男だ。いや、確かに俺の私服はほとんどお母さんが買ってきた謎の英文が書いてあるTシャツだけれども」
母親が買ってくるTシャツの英文って、訳すとマジで意味不明なことしか書いてないよなアレ。
「とにかく!立科ちゃんが家出したのも理解できるし!それを見捨てられなくて家に泊めた雄太が間違ってるなんてお姉ちゃんは思いません!そう!つまり間違っているのは、この社会のほうなのよ!」
「おい急に革命思想に目覚めるな!どっちかって言うと、それ俺が普段言ってるセリフだから!しょうもない世迷言だから!」
「普段しょうもない世迷言を言ってる自覚はあるんだ……」
姉は呆れたように苦笑いすると、俺の肩に手を置いて、真っ直ぐな視線を俺の瞳に注いだ。
「雄太は、助けたい人が目の前にいたら、自分のやり方で助けてあげて。そうやって痛い目にあったり、感謝されたりを繰り返して、人は大人になっていくの。雄太はまだ高校生なんだから、評判とか、影響とか、そんな小難しいこと考えないで、自分が正しいと思うように、行動して」
気恥ずかしくなるようなそんな言葉を言う時でさえ、姉はその視線を、一瞬たりとも逸らしたりしない。こんな真っ直ぐに言われてしまったら、冷笑する気さえ失せてしまう。
「……ありがとう」
「ん、よきにはからえ」
姉は満足げに微笑むと、なけなしのカップ麺を啜った。
「まぁ、本当に問題になったら、責任取るのはお父さんお母さんだし、私たちはノーダメだから!」
「おい急に最悪の発言するな。東証が阿鼻叫喚するくらい株下がったぞ今」
「最悪じゃない最悪じゃない!だって、これで雄太が立科ちゃんとお近づきになれたら、こどおじルートまっしぐらだった雄太に結婚の可能性が生まれるから、お父さんお母さんの大きな憂いが一つ減るもん!」
「え、俺こどおじルートまっしぐらだと思われてたの?父さん母さんそんなに憂いてたの?」
俺が身内からそんなふうに思われていたことのショックで顔を引き攣らせていると、その表情を見た姉がフッと吹き出して笑ったので、俺も釣られたように笑った。
「まぁまぁ!JKの家出なんてよくある話だし!それを泊めたなんて、淡い青春の1ページだから!それより、雄太は友達がいないことの方を気にしなさい!そっちの方が全然不健全よ!」
「余計なお世話だよ」
手を腰に当てて、フンと鼻息を吐き出した姉を見て、俺は満更でもないような苦笑いを浮かべた。
それから俺と姉は、カップラーメンの容器を片付けたのちに、テレビのチャンネルを変えながら、あーでもないこーでもないと言い合って時を過ごした。
不意に、またしても、固定電話のけたたましい音がリビングに鳴り響いて、俺は体をビクッとさせた。時間は、既に20時を回っている。
「……出てみるね」
姉はスッと立ち上がって歩いて行き、ゆっくりと受話器を取った。
「はいもしもし……はい、はい、お世話になっております……」
俺は、姉の方を振り向かずにテレビから目を離さず、しかして注意は完全にその電話の内容に向かっていて、耳をそばだてていた。
「はい、はい……そ、そうですか……はい、失礼いたします……」
姉は、ゆっくりと音を立てずに受話器を置いた。俺は逸る気持ちを抑えて、努めて落ち着いたように姉に尋ねる。
「……なんだって?」
「……」
「な、なんだよ……」
姉がまた深刻そうな顔を浮かべて口をつぐんでいるので、俺は焦燥感から立ち上がって尋ねた。すると姉は、重々しく口を開いてポツリと言う。
「立科ちゃん、まだ帰ってないって……」
動悸がした。まるで酸素が薄くなったかのように息苦しくて、冷や汗が滲んだのが分かった。
「か、帰ってない?立科が出てってから、もう4時間近く経つぞ?」
「うん、でも、まだ帰ってないって、学校の先生が……」
姉の言葉に、俺はその場に立ち尽くした。家から出ていった立科の、その後のシナリオが勝手に脳裏に映し出されて、強烈に心臓が締め付けられるような感覚があった。
何を考えているんだよ。昨日の惨めさが滲んだあの表情は、星空を見ていた澄んだ瞳は、一体なんだったんだよ。
「……!」
俺は言葉とも判然としない声を出して、リビングの扉まで歩いていって手をかけた。すると、後ろから姉に手首を引っ張られて、引き戻される。
「ちょ、どこいくの!」
「どこって……」
答えられなかった。俺は、果たしてどこに行こうとしたのだろうか。目的地さえ曖昧なまま、俺は家を飛び出そうとしていたのだ。
「……立科ちゃんのところ、だよね?」
俺が回答に窮していると、姉は、俺が自信がなくて口に出来なかったその答えを、代わりに口に出した。
「目星は、あるの?」
「……ほぼない」
「じゃあ、これから、探すんだね」
こんな無鉄砲で冷静さに欠く判断など、止められて然るべきものだった。なんの手がかりもなく立科の行方を追ったところで、無謀であることなど誰にでも分かることだ。
しかし、ではそれ以外に、どうしろと言うのだろう。
「見つかるの?」
「……分からない」
そう答えるしかなかった俺は、苦々しくそう言った。
「そっか……ならよし!」
その俺の表情を見た姉は、大きく声を張り上げて、強く背中を弾くように押した。
「……え?」
「行ってきなさい!立科ちゃんを探しに!」
「い、良いのか?見つからない確率の方が、全然高いんだぞ?」
「てことは、見つかる確率もあるってことでしょ?見つけられるか分からないなら、答え合わせをしなきゃね!ほら、見つけに行きな!」
姉は腰に手を当てて、リビングの扉をビシッと指さして続ける。
「私は立科ちゃんがどこにいるかなんて、さっぱり見当もつかないけど、雄太は、ほんのちょっとは目星があるんでしょ?だから、ほぼない、なんて答え方したんでしょ?」
姉は、俺のその言葉の微弱な含意を、見逃さなかった。
心の中でだったら、クサい台詞も言いたくなった。アンタは、サイコーのお姉ちゃんだよ。
「……行ってくる」
「よしきた!カッコつけて来なよ!」
姉に背中を押され、俺は扉を開けて、家を飛び出した。
駆け抜けた夜空はあいにく曇天模様で、たまに肌に当たる雨粒が、しかしていつもより煩わしく感じられないほど、俺は夢中で目的地まで駆けて行った。




