出会い2
ゴールデンウィーク中日の月曜日。世間は行楽一色で、テレビに映ったニュース番組では全国各地の観光地のごった返しっぷりを嬉々として報じているなか、俺はそのニュースキャスターと同じくして休日返上であった。
俺はこんなにも気落ちした表情しか浮かべられないのに、祝日に笑顔で仕事をするアナウンサーたるや、凄まじい精神力である。さすがプロだぜ。
などと考えながら、俺はガラガラと少し古びた教室の扉を重々しく開いた。
「グッモーニング!もうスタートするわよ!ハリーアップ!」
「……っす」
俺はほぼ声帯を使わず肺だけを使って消え入りそうな挨拶を添えた。
そういえば、岡谷先生も休日出勤か。しかして、彼女の場合、俺は同情できかねる。なぜなら、彼女は我々補習組の成績を粉飾すれば、休日出勤を回避できたからである。しかもそうすれば、補習組も休めるので、お互いウィンウィンのはずなのだ。何を馬鹿正直に成績を報告して補習なんて催しているのか。
まぁ、みんながこんな狡いことばかり考えていたら、世の中崩壊するんだろうけどね。
「ハローエブリワン!トゥデイ、イングリッシュサプリメンタリーレッスンス……」
席に着くなり、授業がつつがなく始まる。俺は教諭が何を言っているのかさっぱり分からないまま、とりあえず教科書を開いて、聞いているふりをして頭の中で昨日見たアニメのことなどを考えていた。
5月の光が教室に差し込んで、その暖かさが眠気を誘う。すっかり岡谷教諭の英語の説法が入眠用BGMに成り果てて、俺がウトウトと船を漕ぎ始めたころ。
突然、入眠用BGMに雑音が入った。教室の扉が開く音と振動を感じて、俺はビクッと船を止める。
「ミス立科!ユーアーベリーレイト!ハリーアップハリーアップ!」
「……」
おもむろに教室にツカツカと入ってきたのは、金髪のクルクルした髪をオシャレに縛り、肩から下げたスクールバッグにファンシーな小さいぬいぐるみを3つもぶら下げた、公立高校の中にあっては一際目を引くような、垢抜けた美少女だった。
つまり、見た目を一言で表すなら、ギャルだ。
「……どこ?」
彼女は特段急ぐ様子もなく、教室後方で辺りを見渡したのちに、岡谷教諭に向かってそう尋ねた。
こんな不良生徒がこの学校にいたとは知らなんだ。ゆーて真ん中くらいの偏差値はあるんだけどこの高校。
「ミス立科はそっち!ミスター須坂の隣りね!」
「……誰?」
「ミスター須坂!」
「……いや誰?知らないんだけどその人」
おい、アンタらの会話で勝手に俺を傷つけるのはやめろ。俺の影の薄さを教室全体に示唆するな。
「ザットボーイイズミスター須坂!」
「……」
岡谷教諭が俺を指差すと、そのギャルは俺を一瞥し、シラッと視線を変えて表情一つ変えずに俺の隣の席に座った。まるで俺なんて見なかったかの如き振る舞い。
いや、なんか冷たいなおい。ちょっと会釈くらいしてくれても良いだろ。いや、別にしなくても良いけど、なんか傷つくぞその態度。
その後、滞りなく再開された授業が、正午を告げるチャイムとともに終了し、教室には少しばかりの雑音が響いた。補習組たちは皆一様に気怠げに帰り支度を始める。
「ミス立科!時間通りに来なさい!トゥーレイト!」
俺が我先にとそそくさ帰り支度をしていると、岡谷教諭が隣の席のギャルの元まで歩いてきて、困ったような顔で叱った。
あんまり他の人がいる前でやってあげるなよそういうこと。劣等生が余計に見せ物になることに気を配らない教師のなんと多いことか。俺も提出物出さなかった時に休み時間の廊下で怒られたことあるし、あれマジでやめて欲しい。
「あーはいはい!ごめんって!」
「そうでなくてもミス立科はラストイヤーにはギリギリでネクストグレードに行けたのよ!このままじゃグラデュエート出来ないわよ!」
「……別に良いし」
「ノットグー!ちゃんとフューチャーのことをスィンクしなきゃ!」
「あーもうわかったから!アタシもう帰りたいんだけど!」
鬱陶しそうに片付けを進めながら、ギャルは語気を強めて岡谷教諭に言った。帰ろうとしている他の補習組がその様子をチラチラと見ており、それに気付いたギャルは余計に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「ミスター須坂ですら、時間通りに来てるのよ!」
「は?誰?」
いや、先ほどご紹介に預かりましたけど。この子もう俺のこと忘れてんじゃん悲し。
「ほら!隣のボーイよ!」
「はぁ?」
岡谷教諭が俺を指差し、ギャルがそれに合わせて俺を見る。
目が合った。パッチリとした大きな瞳、透き通るような白い肌。見た目が派手派手しいばかりにあまり気にしてなかったが、この子は相当な美少女であった。
しかして、それ以上に、その眼光の鋭さである。何見てんだゴルァ、とでも言わんばかりの攻撃的な視線。コンビニ前でたむろしている田舎のマイルドヤンキーと目が合ってしまった時を思い出させるような緊張感。やばい、有り金は出すので、ボコボコにするのだけは勘弁してください。
「……コイツがなに?」
「レッスン中にデスクの下でゲームをプレイしているミスター須坂ですら、トゥデイはオンタイムで来たのよ!」
バレてたのかよ。マジか、あれ絶対バレてないと思ってたんだけど。教科書いっぱい出して不自然なくらい隠してたんだけど、何故バレた。
あ、だからか。俺頭悪いかも。そりゃ補習だわ。
「……いや、知らないし」
「レッスン中に教卓から丸見えの状態で、ビキニのアニメーションガールズをウォッチしてニヤニヤしてるミスター須坂ですら、トゥデイはオンタイムで来たのよ!」
「あの……これ以上他の人がいる前で俺を辱める発言するのやめてもらって良いですか……?」
つい、あまりの恥ずかしさに教諭を遮ってしまった。これ以上恥部をあけすけに話されてしまったら、恥ずかしすぎてもう学校来れないよ。
「まぁいいわ!ミス立科!トゥモローはオンタイムで来なさい!」
「はいはい!わかったわかった!」
「ミスター須坂はレッスン中にゲームするのはやめなさい!」
「……すいません」
「あと、アニメーションのガールズばかりじゃなくて、リアルのガールズとハブアリレーションシップ!」
それは別に良いだろ。個人の自由だわ。
「はい!じゃあハバナイスデイ!」
岡谷教諭は荷物を抱えて、悠々と教室を去って行った。偏見だが、いかにも西海岸に留学してたヤツの歩き方である。レペゼンカリフォルニアである。
ふと、視線に気づく。ギャルが俺のことをジッと眺めていた。心なしか、面白いものでも見るかのように少しの笑みを浮かべている。
「アンタ、めっちゃ見られてたよみんなに」
「……え、マジすか?うっわ最悪だ、明日来たくねぇ」
美少女アニメが好きだという、誇らしくもとはいえ恥ずかしい事実を補習組の大半に周知されたと知って、俺がガックリと項垂れると、ギャルはその様子を見てプッと吹き出した。なに笑っとんじゃコイツ。
「アンタ、オタクなんだ」
「え、いや、今時オタクとかいっぱいいますよ。アニメが好きだからイコール陰キャみたいなレッテル貼りはもう通用しない世相になっていて……いや、俺は陰キャですけど……」
「え、なにいってんの?ちょっと面白い」
俺がオタクという時代錯誤のレッテル貼りについ反射的に反論してしまったのだが、軽くあしらわれてしまった。
ギャルとか陽キャとかって、俺たちの長くて厚みのある論理を一言で一蹴するところあるよな。もうちょっとちゃんと聞いて欲しいんだけど。
「てか、アタシもオタクだよ?アニメ見るし、ゲームもするし」
「あー、彼氏の影響で某少年誌の大人気作品だけ見て、オタクって言ってるタイプですね。ゲームも彼氏の影響で、FPSやってる感じですか?」
「……え、偏見強くない?」
おっと、俺としたことが。うっかりギャルや陽キャのファッションオタクを痛烈に批判してしまうところだった。
しかして、オタクへの偏見には苦々しく思う反面、陽キャの俺オタクだよ発言には偏見を持って受け取ってしまうあたり、自分のダブルスタンダードを自覚してしまって微妙な気分になる。
「てかそんなんじゃないし。アタシも美少女アニメ見るし。可愛い女の子がいっぱい出てくるアニメとか」
「……え、マジすか?例えば?」
「え、リメンバーアイドルとか」
嘘だろ、それゴリゴリの美少女アイドルアニメだぞ。一切男が出てこないタイプの、アイドル育成ゲームから派生したアニメだぞ。それをこんな派手な見た目の子が?
「え、へ、へー。まぁ、あれ最近めちゃくちゃ人気ですからね。むしろメジャーというか……」
「あとは、クラスの女神の天宮さんが、なぜか俺にだけちょっかいかけてくる件、とか」
「なんでそんなの見てるんですか……いや俺たちからしたら面白いけど……」
完敗だ。こんなキラキラギャル美少女JKとかいう俺たちとは全てが反対の最強属性の人間が、オタク趣味なんてあるわけがないという俺の偏見は今ここにて完全に打ち砕かれた。
俺のオタクという最後のアイデンティティさえ彼女のような人間に奪われてしまっては、もはや何が残るのだろうか。
「だって可愛い女の子いっぱい出てくるじゃん!なんていうか、掻き立てられるじゃん!何かをこう、作りたくなるっていうか!」
「は、はぁ。まぁ俺たち男が見たら興奮しますけど」
「女の子も可愛い女の子好きだから!エロい女の子見たらエロいなって思うから!」
何言ってんだこの人。見た目とは相反するような発言をする彼女に、俺は訝しく思いながらも話を続けた。
「けど、やっぱ性愛あっての美少女キャラですよ。まぁ、推しが神々しいが故に、不可侵の存在としてむしろ性愛を排除したいみたいな心理はありますけど、結局キャラ愛の入口は性愛です。故に、美少女キャラを心から好きになるのは対をなす性である男しかいないんです」
「分かってないなぁ!女の子だって美少女のエロスに掻き立てられるんだよ!それは、オシャレさとか、上品さとか、確かに需要のロジックは厳密には男と違うのかもしれないけど、とはいえむしろ同性であるということで憧れという感情が乗っかって……」
ふと、我に帰ったように少女は辺りを見渡した。
俺たち以外はすでに帰ってしまって、窓の隙間から入る風の音だけが、寂しく鳴り響いた。
「……誰もいない」
「……帰りましょ」
俺はカバンを背負って、教室を出ようと歩き出す。
ふと、手を引っ張られた。
「……帰りたくない」
「え、いや、はぁ、そうですか」
俺がまた歩こうとすると、しっかりと手を握られてギュッと引っ張られる。あんまりそう気安く触らないでくれ、こういうので好きになっちゃうんだよ。
「だから、帰りたくないって言ってんの」
「まぁ、それは、お好きにどうぞ」
「……」
「な、なんでしょう?」
「……帰りたくない」
知らんがな。帰りたくないなら帰らなければ良いだけである。俺は早く帰ってゲームしたいんだけど。
「すいません、俺はちょっと予定がありまして……」
「なに予定って」
「えっと、新しく買った恋愛シミュレーションゲームをやる予定がありまして……」
「……ないじゃん予定」
なんでこうも世間はゲームやアニメを予定として認めてくれないんだよ。オタクであるアンタですら認めてくれなかったらもう終わりだぞ。
「てか、なんのゲーム?」
「え、プラスハイスクール2です」
「え!それ新しいゲーム機専用のやつだよね!持ってんの!?抽選当たったの!?」
「まぁ、その、はい」
「え、やらせてよ!アタシもプラスハイスクール2気になってたんだ!」
本当に何言ってんだこの人。それはつまり、俺の家に来るってことを意味しているんだぞ?分かって言ってるのか?
それとも、ゲーム機をモニターごとここまで持ってこいと?
「いや……ゲーム機俺の部屋にあるんで……」
「うん!行こう行こう!」
「いや、え?俺の部屋に来るつもりなんですか?」
「うん、そうだけど」
「いや、ちょっとは危機感持ってくださいよ、一応俺男子ですよ?」
「いや、アンタなら大丈夫でしょ」
おい、信用されてるのか舐められてるのかどっちだこれ。信用と舐められは表裏一体なのかこれ。
「俺1人でやるつもりなんですけど……」
「良いじゃん!やらせてよ!1回で良いから!」
家に来た女の子を口説いているヤリチン大学生みたいな発言はやめろ。男女逆転してるぞ今。
「ちょ、やっぱ今日初めて会った人を部屋にあげるってのは……緊張しちゃうんで……」
「……なんそれ、まぁ、嫌ならいいけど」
そう言うと、少女は心底つまらなそうな顔をして、スマホをポチポチと弄り始めた。
女の子が、しかも俺とは関わりのないタイプのギャル美少女が部屋に来るチャンスをみすみす逃してしまった。こういうところが、モテない要因の一端なのかもしれない。
俺は自分の積極性のなさにため息をつくと、カバンを背負い直した。
「じゃあ、俺は帰るんで」
「……そ」
なんだよ、そって。ひらがな1文字で別れの挨拶って悲しすぎるだろ。
俺がノソノソと帰ろうとするが、少女は机に突っ伏してスマホを弄り続けた。机に胸部が押し付けられて、その豊満な胸を外側に押し出して柔らかそうな横乳が机の隙間から飛び出している。
この子おっぱいも大きいんかい。いよいよ全部持ってんじゃん。
「……帰らないんですか?」
「……なに?」
もうとっくに補習も終わっているというのに一向に帰るそぶりを見せない少女が気になってしまい、つい俺は柄にもなく声をかけてしまった。
「いや、早く出ないと校門閉まっちゃいますよ多分」
「……だから、アタシ帰りたくないの」
「そんなこと言っても、学校にずっとはいられないですよ、そのうち教師に追い出されますよ」
「……だからその前に、行く宛を探してんの」
「はい?家に帰れば良いじゃないですか」
「はぁ……いいよねアンタは、なんの憂いもなく家に帰れるんだから」
俺はその訳知り顔の物言いが少しばかり癪に触って、それでいてその寄せ付けないような佇まいが気になってしまって、つい少女の机まで戻ってしまった。
「……まぁ、事情は知らないですけど、いつかは帰らないとどうにもなりませんし」
「いや、アタシは帰らない、今日は絶対帰らない」
そう頑なに言う彼女のスマホ画面が視界の端につい入ってしまう。表示されているのは、SNSのチャット画面。
「……それ、友達とやり取りしてます?」
「ううん、知らない人」
「……どういう人ですか?」
「分かんないけど、文面的に多分おじさんじゃない?今日泊めてくれるんだって」
マジかよ。ここに来てこんな社会の闇と出くわしてしまうなんて。ネットでしか見たことのない現代の社会問題を前に、俺は狼狽えてしまった。
「……やめたほうが良いんじゃないですか?」
「……なんでアンタにそんなこと言われなきゃいけないの?」
「いや、確かに俺が口出しする権利はないかもしれないですけど……それは、ちょっと危ないですよ流石に」
「……かもね、私もネット上の男の人とエンカしたことはまだないし」
「俺もネットの人と会ったことはないですけど、女の子を、それも女子高生を家に泊めようとするおじさんなんて、何してくるか分からないですよ」
「……分かるでしょ」
少女は俺の言葉に、吐き捨てるように言い放った。
だったら尚更、そんなのダメだろ。
「いや、分かってるなら、やっぱ行かないほうが良くないですか?その……アンタも、嫌でしょ、それは」
「……うん、嫌だ。知らないおじさんと初めてとか」
あ、意外とやったことないのか。てっきり経験豊富なのかと。なんだよ、俺と一緒じゃん、非モテ仲間じゃん。
とはなりませんよね、男性と女性だと全然意味が違いますよね。
「ほら、嫌ならやっぱやめた方が……」
「じゃあ、アンタがなんとかしてくれんの?」
「……え?」
「だから、アンタが泊めてくれんのかって聞いてんの!」
少女は声を荒げて、睨みつけながら俺に言葉を吐いた。俺はその圧に、たじろぐ他ない。
「いや、それは流石に……親にもなんと説明していいやら……」
「……責任取らないくせに人のやることに口出ししないで。無責任に止めることなんて誰にでも出来るから」
少女は苦悶の表情でそう言うと、またスマホを弄り始めた。どうやら先ほどのチャットの続きをしているみたいだ。
こういう時、どうすれば良いのだろうか。彼女には恐らくのっぴきならない事情があるのだろうが、しかしてそれを救うような力は、俺にはなかった。
彼女の言う通りだ。中途半端に口を突っ込んでくる人間ほど、邪魔な存在はない。手を差し伸べる力も、勇気もないのなら、何も関わろうとしない方が、よっぽど正解に近いのかもしれない。
俺はその如何ともし難い無力感に苦虫を噛み潰して、教室を後にしようとした。見なかったことに、何も知らなかったことにしよう。その方が、俺のためであり、彼女のためでもあるのだ。
ふと、スマホに着信が入った。友達がいない俺に電話をかけてくる人間なんて限られている。
『しもしも?あーテステス、マイクテス、ううん、弟くんですか』
「……またパソコン動かなくなったのか?」
『いやいや、もう今月4回もそれで雄太呼び出してるんだから、流石にお姉ちゃんも学習しましたよ、えっへん』
「出来れば1回で学習してくれ」
いつも通り調子良く話し始める姉に、俺はスマホ越しに苦笑いを浮かべた。
『それはそうとですよ弟者』
「人をゲーム実況者みたいに呼ぶな、なんですか姉者』
『パピーとマミー、ゴールデンウィークは家に帰って来ないんだって!』
「は?え、なんで」
『多分雄太にもメッセ入ると思うけど、長期で有給とって2人で海外行ってるじゃない?そこでトラブル起きちゃって、ゴールデンウィークはまるまる帰って来れなくなっちゃったんだって!』
「トラブル?なんだよそれ」
『なんか、姉弟2人も大きくなったことだし、夫婦2人でたまにはゆっくりして欲しくて、私が今回の海外旅行企画したじゃん?だから、私が旅行の手配全部やったのね』
「あ、ごめん、なんとなく話見えたわ。もうそれ以上話さなくて良いよ」
いくら可愛い愛娘の親孝行とはいえ、このデジタル音痴に昨今のデジタル化された旅行手配なんてよく全任せできたな両親。血を見るの苦手な人が手術するようなもんだぞそれ。絶対死んじゃうよ。
『あ、そう?話が早くて助かるわ!さすが我が弟』
結構失礼なこと言ったつもりだが、どうやら微塵も気付いていないらしい。幸せそうで羨ましい限りである。
『まぁ、そんなこんなで、作り置きのご飯は全部なくなっちゃった訳だけど、どうする?カップラーメンパーティー?』
「最初から作る気ゼロじゃねえか。まぁでも、俺もお姉ちゃんも料理はからっきしだからな……」
『じゃあ、帰りにスーパーでテキトーに買ってきて!あ、私は期間限定のボルシチヌードルが良いでーす!ほいじゃーねー!』
「あ、ちょ、おい!」
俺が引き留める間もなく、着信が切れる情けない音が響いた。姉の着信は、毎回あちらが言いたいことだけ言ってこちらの話は聞かれずに終わる。まるで夏の蝉時雨に始まる、突然の夕立のようだ。
いや、そんな詩的に例えるもんじゃないわ、ただの害悪電話だよアレは。
ふと、俺が振り返ると、いつの間にかギャルが立ち上がって、俺の傍まで来ていた。
「おお!びっくりした!」
「……親、帰って来ないんだ」
「ちょ、盗み聞きしてたんですか……」
俺の姉のバカさ加減が露見したかと思うと、若干身内としては恥ずかしいよ。
「……アタシ、ちょっとした料理くらいなら、出来るけど」
「全部聞いてるじゃないですか……いや、泊めないですよ?」
「なに?泊められない理由、親以外になんかあんの?」
「いや、それ以外にも姉が……」
あー、あの人は俺が女の子泊めるなんて言ったら大歓迎だろうなー。なんならあの人が友達の家に泊まりに行って、俺たちを2人きりにさせようとするまであるなー。
俺の表情から考えていることをなんとなく察したのか、少女はグイッと近づいてきて続けた。
「3日間カップラーメンってのも体に悪くない?アタシ、材料さえあればそこそこレパートリーあるけど」
「いや、なんの返礼もなく料理作ってもらうわけには……」
「だって泊めて貰ってんじゃん。三宿三飯の恩義くらいは返すよ」
「ナチュラルに3日泊まろうとしてんじゃないすか。ダメですよ」
俺がのけぞって距離を取ろうとすると、少女はさらに体を寄せてきた。ちょ、柔らかいの当たってるって、立派なものお持ちなんだから距離感気をつけてくれよ。ちょっと詰めたらすぐ当たっちゃうよその爆弾は。
「私、結構カラダには自信あるんだよね」
「それじゃ俺の家に泊まる意味ないでしょ。自信があるなら安売りしないでください」
「ふーん、アタシの初めてを奪える権利が与えられてるのに、逃しちゃって良いんだ。ま、アンタにそんな意気地があればだけど」
クッソ舐めやがって。しかし、確かにこんなギャルが家に来ても、俺が何にも出来ないことは想像に難くない。だからこそ誇り高き童貞戦士なわけで。
「ええ、そうですよ!俺にはアンタの純潔を奪えるような胆力はないですよ!故に!アンタを家に泊めるメリットは1つ消えたわけです!」
「そんな情けない上に最低の発言を大声でする人初めて見たんだけど。じゃあもう良いや、このおじさんに私の初めてを奪える権利あげちゃおー」
「ちょ、ちょっと!」
「なに?嫌なの?」
少女は俺を試すかのようにジッと見つめた。まっすぐに伸びたその眼光に思わず息を呑む。
「……アタシ、本気だから。アンタがアタシを止められるのは、ここがラストチャンス」
「……それ、止められると泊められるがかかってたりします?」
「はい!アタシの初めては知らないおじさんで決定!マジかー!」
「あーはいはい!もう分かりましたよ!泊めれば良いんでしょ泊めれば!」
俺は慌てて勢いでつい口走ってしまった。もう口に出してしまった手前、引っ込みがつかない。言質は、完全に取られてしまった。
少女はニヤッと笑うと、俺の手を握って握手するみたいに揺すった。
「アタシ、立科乃亜!よろしく!アンタは?」
「……須坂雄太です」
「じゃあ、雄太って呼ぶから!雄太はアタシのこと、乃亜って呼んで!あと、もうタメ口で良いから!」
「……よろしくお願いします、立科さん」
「やっぱり、意気地なしだ」
「ほっとけ」
クスッと笑う少女の姿は、最初に見たやさぐれた態度とは一変して、あどけないものだった。そのギャップに、少しばかり心臓がドキッとしたのは、多分気のせいだろう。
「……プラスハイスクールは俺まだやってないから、俺が先にやってからにしてくれ」
「……本当に小さいんだね」




