結末2
新学期が始まって、3週間が過ぎた。
俺の住む長野県の北信地域は、日本の中では比較的寒冷で、故に桜の散り始めも遅い。大型連休直前のこの時期は、まさに桜の花びらの隙間から緑が芽吹き、ピンクの花びらが風に吹かれて流れゆく季節だった。
「もうすぐゴールデンウィークか……」
俺は昼休み、サンドウィッチを持っていつもの体育館裏に行く道中の廊下で、窓の外の景色を眺めながら気怠く呟いた。
当然、ゴールデンウィークに予定なんてないわけだが、そんなのは俺の人生においてはデフォルトであり、とはいえアニメやらゲームやらに囲まれて惰眠を貪るというのは、これはこれで全く悪くないのである。
ふと、階段を降りる最中、踊り場で談笑する女子たちの姿が目に入った。
彼女らはおしなべて眉目秀麗であり、この校舎内でも圧倒的に目を引くほどの神々しいオーラを放っていた。美少女JK集団ってホントに絵になるな。まるで、この人たちのために世界が存在しているかのようだ。
なるほど、俺は引き立て役ってわけね。はいはい。
「ねー世界史カタカナばっかで名前覚えられないんだけど!」
「ホントそうだよね!五賢帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスとかホント覚えにくいよね!」
「え!覚えてんじゃん!すご!」
「え、あー!いやいや、私も全然覚えられないから!田中・マルクス・アウレリウス・闘莉王だっけ?なんだっけ?」
元サッカー日本代表DFとローマ皇帝をごっちゃにするな。何喋ってるんだこのJKたち。
「え、何言ってるのマジで?双葉ちゃんって、もしかして天然?」
「え、そうかな?私結構勉強とかは出来る方だと思うんだけど……」
「えー!絶対双葉ちゃん天然だよ!だって時々何言ってるかわかんないもん!」
「え!そうなの!?私まだ何言ってるか分からないの!?うー、結構勉強したはずなんだけどな……」
「こんな可愛いのに!双葉ちゃんって面白いなーこのこのー!」
「ちょ、くすぐったいって!」
俺はじゃれ合うキラキラ女子高生たちを尻目に、少し早歩きでそそくさと階段を降りていった。
この学校の青春群像劇の主人公たちは、今日もつつがなく物語を紡ぎ、翻ってモブキャラの俺は、今日も今日とてテキトーに作画されているらしい。
俺の出番は、とうに終わっていた。担当声優さんのお仕事もこれで終わりである。お疲れ様でした。最も、俺に声優さんが付いていればの話だが。
小降りの雨を凌ぐように、俺は体育館裏の小さな階段で、屋根と呼ぶにはあまりに小さい申し訳程度の出っ張りを傘代わりにサンドウィッチを貪った。
ふと、足音が曲がり角の向こうから聞こえてくる。おいおい、誰だよ俺のこの1人気ままな空間を邪魔しようとする侵略者は。いや、別に俺の場所ではないけども。
俺が足音のする方を注視して、すぐそこまで来ている気配を察知して後ずさったその瞬間、フワッと影が曲がり角から飛び出た。
「……やっぱり、いた」
「……千曲」
俺は、およそ2週間ぶりに彼女と言葉を交わした。もう、交わらないものだと、俺はこの物語に関わらないものだと、そう思っていたのだが。
またも、美少女ヒロインとモブキャラの、本来であれば発生しないはずだった歪なシーンが、始まった。
「な、何しにこんなとこへ……せっかく文系クラスでコミュニティが出来つつあるのに、こんなとこ見られたらまた……」
「こんな体育館裏の遠いところ、誰も見てないよ。そもそも、誰も見てないから、雄太くんはここを選んだんでしょ?」
「いや、そりゃそうだけど……」
俺がバツが悪くなって目線を逸らすと、千曲は俺の傍まで来て、屈んで俺の肩を押した。
「ほら、詰めて」
「は?いや、なに座ろうとして……」
「私、このままだと濡れちゃうんだけど。1人でその申し訳程度の屋根を占領しないで」
「……わかったよ」
俺が渋々横に詰めると、千曲は俺のすぐ隣に座った。
相変わらず近いな、肩とか二の腕とか密着しちゃってるんだけど。女の子ってなんでこんな柔らかいんだよマジで。
「……何しにきた」
俺は煩悩に支配されそうになった脳みそを1回冷却して、ポツリと尋ねた。
「……お弁当箱」
「はい?」
「だから、お弁当箱、返してもらってない」
「あー、それは、すまん。いちおう洗ってあるけど、今日は持ってくるの忘れた。どうする?郵便で送ろうか?お弁当作ってもらってたし、配送料は俺が負担して」
「なんでわざわざそんなことするの!」
「あー、すまん。そうだよな、俺に家の住所知られたくないよな。じゃあ、お届け先を近くのコンビニに」
「そういうことじゃなくて!普通に直接私に渡せば良いと思うんだけど!」
ふくれっつらを浮かべたのち、千曲はしょうがないなぁというような表情で微笑した。
「……雄太くんって、ホントに変わらないよね」
「ヒトはそんな簡単に変わらねえよ。どんなに変わろうとしても、過去と、そしてそこから来るコンプレックスとアイデンティティは、引きづり続けるもんだ」
「……変わろうと思ったら、変われると思うけど。私はそう信じてるけどなー」
「まぁ、それはそうかもな。変わろうって強い意志とか動機とかがあれば、ヒトは変わるかもな。ただ、その意志と動機が、簡単に手に入んないのが、難儀なとこだな」
「つまり、雄太くんにはその意志や動機がないってこと?」
首を傾げて尋ねてくる千曲に、俺は胸を張って誇らしげに言った。
「ああ、もちろん。俺は俺に、満足しているからな」
「……絶望的に、変わらないね」
「ほっとけ」
俺と千曲はお互いを見て、ふっと吹き出して笑った。モブキャラの俺にとって、身に余るほど貴重な時間だった。彼女にとっては分厚い本の真ん中ら辺のどうでも良い1ページかもしれないが、俺にとっては最後の、大切な1ページだった。
「まぁ、満足ってより、諦めに近いかもな。人間諦観が大切なんだよ。高望みせず、身の程をわきまえ。そうすれば、いつだって自分に満足できるだろ?他人と比べて、身の丈に合わない目標を持って、ヒトと鎬を削って疲弊していくのは、資本主義社会の弊害だな。つまり、労働は社会の癌だ」
「話変わってるから途中で。悟ってる感じ出してるけど、ただ怠惰で働きたくないだけだしそれ」
「ああ、そうだぞ。けど、こんなしょうもない俺も、俺は大好きだ」
「その性格、他人から好かれそうにないところが難点だよね」
「おい、急に鋭利な刃物で刺してくるな。これで俺が不登校になったらどうする」
「そんな悟ったような顔してるのに、メンタルは割と弱いんだ……」
「そんなメンタルが弱い俺も好きだ」
「その論法無敵だね……」
苦笑いを浮かべる千曲を尻目に、俺は雲がかかって見えない山々の方を見て呟いた。
「てか、他人から好かれないからこそ、せめて俺だけでも俺のことを好きでいなきゃいけないんだよ。じゃないと、本当に誰からも好かれてないことになって、俺が可哀想だろ」
「強いのか弱いのか、本当に分からないよね雄太くんって……」
千曲は頬杖を付いてぼやくと、俺の方に寄ってきて覗き込むように上目遣いで囁いた。
「私は、雄太くんのこと、好きだけど」
その余裕そうな表情が、2次元と見紛うほどに洗練された姿が、そしてどこかに漂うえもいわれぬ悲哀が、俺の理想のヒロイン、沓澤ユナを彷彿とさせて、俺の心臓に電撃を走らせた。
「い、いや、やっぱヒロインの具現化みたいな君には、俺よりももっとこう、少年漫画の主人公みたいな男子の方が……」
「私、意外と、雄太くんが思ってるようなど真ん中のヒロインじゃないかもよ?」
イタズラっぽく微笑む千曲を見て、俺は顔を顰めながら重々しく口を開いた。
「……千曲は、俺と交わるべきじゃない。それは、わかるだろ」
「…‥私は、別に気にしないけど。雄太くんと関わって、誰かに嫌われても、そんなの関係ないけど」
「だから、その、俺はそれに、耐えられそうにないんだよ……」
「……うん、そうだね」
俺が絞り出すように言葉を紡ぐと、それを千曲は優しい微笑でゆっくりと頷きながら受け止めた。
「昼休みに千曲が居なくなったら、きっとみんな怪しんで、詮索するはずだ。そしたら、俺と一緒に過ごしていることがバレるのなんて時間の問題で、そうなったらまた千曲は……」
「私ね!文系クラスで友達が出来たんだ!」
俺の重苦しい言葉を遮って、千曲は声高らかに話し始めた。
「その子は芽衣ちゃんっていってね、既に文系クラスの中心的な存在で、私のことも仲間に入れてくれたの!誰にでも分け隔てなく接して、それこそ、スクールカーストなんて全然気にしてないような、超絶陽キャなんだよ!」
「だ、だからこそ、それを俺が邪魔するわけには……」
「その子は陽キャすぎて、陰キャがどうとかそんな瑣末なことは何にも気にしてないの!あまつさえ、クラスも文理も違うよく知らない男子のことなんて、彼女の人生には微塵も関係ないだろうね!」
「は、はぁ……」
「こんな女の子が、よく知らない男子と女子友達が一緒に食事しているくらいで、仲間外しにしようなんてこすっからいことを考えるとは到底思えないけどね!」
「いや、でも……」
「じゃあ、その子の彼氏に友達として紹介された時に、雄太くんはその子に邪険に扱われたの?そんな奴と関わるなとか、そんなことをその子は彼氏に言ってたの?」
「……聞いたのかよ」
俺が少し驚いた表情で狼狽えていると、千曲はダメ押しとばかりに弁論を続けた。
「そもそも、今日は芽衣ちゃんは彼氏と体育館でバスケするんだって!毎週金曜日はそうしてるんだってさ!彼氏との時間邪魔するわけにいかないから、毎週金曜日はお昼ご飯暇なんだよなー!転校生だからまだ友達少ないし、誰か一緒に食べてくれる人いないかなー!」
「……」
「そもそも、私まだお弁当箱返して貰ってないなー!これって窃盗じゃない?もし来週の金曜日にお弁当箱返してくれるなら、被害届は出さないつもりだけど、逃げられたらその限りじゃないなー!」
「わかった!降参だ!俺を犯罪者にしようとするな!返すから!金曜日に返すから!」
千曲を俺から突き放すための論理は、千曲の弁舌によって完全に論破されてしまった。
屁理屈を並べさせれば右に出るものはいないことを自負している俺が舌戦で負かされるなんて、いつぶりだったろうか。ふと、淡い記憶が脳裏をかすめた。
「じゃあ、来週の金曜日、お弁当箱返しに、ここに来てね!来なかったら、窃盗と見做すから!」
「わかった!わかったよ!これほぼ脅しだろ、どっちが犯罪者だよ……」
「で、私はまた、雄太くんにお弁当作ってくるから!」
「は、はぁ!?なんで!」
「だって私たち、まだ仮交際中だもん!」
驚きの声をあげて狼狽する俺の左手を両手でギュッと握りしめ、千曲は俺に顔を近づけた。
「いや、あれはもう……」
「私、振られてないし振ってないよ!仮交際が終わりなんて、雄太くんから聞いてない!」
「そ、そりゃそうだけど」
「まだ、私たち、付き合ってるから!私、雄太くんの彼女だから!」
「いや、仮だけど……」
「仮でも!」
千曲は膨れっ面を浮かべて、俺の目をまっすぐに見つめた。
「だから、来週の金曜日は雄太くんのお弁当作ってくるから!そしたら、そのお弁当箱もちゃんと洗って、再来週の金曜日に返して!じゃなきゃ窃盗だからね!」
「いや、それ無限ループしてない?俺ずっと千曲のお弁当箱が手元にある状態じゃないそれ?」
「そうだよ!だから、毎週洗って返して貰わないと、困るから!」
「え、ええ……」
ふと、2人の間に、空から光が差した。いつのまにか降っていた小雨はやんで、雲間から眩い光がこの校舎を照らした。
「じゃあ、私、次の授業の準備あるから!」
千曲はスッと立ち上がると、いつものように白鳥みたいな軽やかで美麗な足取りで、曲がり角の方へと歩いていく。空から斜めに降り注いだ眩い光に照らし出されたその後ろ姿は、本当に2次元から出てきたのではないかと思ってしまうほどに、可憐だった。
「あ、そういえばさ」
千曲は曲がり角の直前でこちらに振り返り、腕を後ろに組んで少し屈んで俺に尋ねた。
「大町さんと私を引き離そうとしてくれたのは分かるけど、なんで大町さんたちを理系に行かせたの?なんで私が文系に行くと思ったの?」
その言葉を聞いて、いつぞやの淡い記憶が俺の頭を駆け巡り、つい彼女からの問いの答えが喉元まで出かかる。
そして、それを飲み込んで、俺はポツリと言った。
「……千曲は、国語が好きそうだなって、なんとなくそう思ったんだよ」
どうやら、俺はその答えの全てを飲み込みきれていなかったらしい。
心なしか、一瞬だけ千曲の息づかいが変わったような気がした。そして、彼女はニコッと微笑んで、小さく手を振る。
「またね、雄太くん!」
「……ああ」
俺が微笑してコクリと頷くと、千曲は曲がり角を曲がって去っていった。
その足音はいつも通り軽やかだが、何故だかいつにも増して、弾んでいるように聞こえた。
どうやら、このモブキャラの青天の霹靂は、なかなかどうしていまだ鳴り止まないらしい。
俺は、裏腹に穏やかなまま晴れ上がっていく空を見上げた。青が、灰色を切り裂いてゆっくりと広がっていく。
「天気予報、当たんねえじゃん」
瞬間、花びらが舞った。桜色の風の中で食べるたまごサンドの味は、妙に甘かった。




